六 ガルデウスの筆
帝都ヴォルテナ、軍務府の一室。
ガルデウスは届いたばかりの書簡を手に取った。差出人は、エレシアの若き特級術師――シェリル・アリアシストだった。
封を切り、目を通す。相変わらず、素っ気ない文章だった。時候の挨拶もそこそこに、本題に入る。だが、その素っ気なさの奥に、一本の揺るぎない論理の筋が通っていた。
今回の書簡は、魔法算術論における基本定数の関係についてだった。虚数、円周率、そして自然対数の底――一見すると何の関係もない三つの概念が、ある一つの等式によって美しく結びつけられている。
(――オイラーの等式、か)
ガルデウスもその名は知っていた。異なる分野の基本単位が、これほど簡潔な式一つで繋がる。その美しさは、軍略とはまるで異なる種類の感嘆を呼び起こすものだった。
ガルデウスは執務机に向かい、返信の筆を執ろうとした。この手紙のやり取りはいつしか自分にとっても、静かな楽しみの一つになっていた。政務に追われる日々の中で、こうした純粋な知的交流は、得難い息抜きでもあった。
その時、扉が叩かれた。
「――失礼します」
コルド・エルスマンだった。相変わらず、感情の読めない平坦な声。
「総帥。エレシアの件で、一つ」
「なんだ」
「諜報省から。シェリル・アリアシストについて、王都で妙な話が出回り始めているようです」
ガルデウスの手が止まった。
「妙な話」
「帝国と内通しているのではないか、と」コルドは淡々と続けた。「出所は特定できておりません。ただ、師団内部から出たものであることは確かかと。広がり方が、内輪の速度です」
しばらく、沈黙が落ちた。
「……内通、か」
「事実無根であることは、我々が一番よく承知しておりますが」
「そうだな。なにしろ、内通の相手が私だ」
ガルデウスは苦笑したが、その目は笑っていなかった。
「他には」
「今のところ、それだけです。ただ、この手の話は放っておけば必ず育ちます」
「――分かった。下がっていい」
コルドが一礼して去った後も、ガルデウスはしばらく動かなかった。
やがて、ペンを置いた。
(――やはりか)
あくまで私人としてのやり取りだと、互いに了解している。だが他国であるエレシアの特級術師という立場ある者が、帝国の軍務総帥とこれほど密に文書を交わしている――その事実そのものが、あの娘にとって本当に良いことなのだろうか。
ガルデウスは椅子の背にもたれ、しばし思案した。
エレシアとヴォルテナに目立った敵対関係はない。だが、国と国との関係はいつどう転ぶか分からないものだ。今は問題視されずとも、風向きが変わればこの文通そのものが彼女の足枷になりかねない。
いや、風向きはもう変わり始めている。コルドがわざわざ報告に来たということが、その証拠だった。
(余計な世話かもしれんが)
それでも、ガルデウスは筆を執り直した。
書き記したのは、いつも通りの丁寧な返信に加えて、一つの提案だった。
――しばらくの間、書簡のやり取りを控えてはどうか。決して交流を絶つという意味ではない。ただ互いの立場を考えれば、少しの間だけ距離を置くことも、賢明な判断ではないかと思う。落ち着いた頃合いを見て、また筆を執っていただければ幸いだ。
最後に、簡潔な結びの言葉を添えた。
――益々の御健勝を、心より祈る。
書き終えた書簡を封じながら、ガルデウスは小さく息をついた。
あの若い術師が、この提案をどう受け取るかは分からない。だが、余計な波風から彼女を遠ざけておくことも、この年寄りにできるささやかな配慮だろう――ガルデウスはそう思うことにした。
ガルデウスが返信の筆を執っていた頃、遠く海を隔てたエレシア国内では、違う空気が流れていた。
その日、リーヴィン魔法師団と騎士団の合同訓練が行われていた。珍しくシェリルが騎士団の演習場に顔を出しており、術師との連携について助言を求められる場面がいくつもあった。若い特級術師の名声は、こうした場を経るたびに、確実に高まっていた。
その様子を、少し離れた場所からイリッサが見つめていた。
(また、あの女)
どこへ行っても、シェリルの評判ばかりが耳に入る。中級編は書店の棚を賑やかし、王宮の図書館にまで並ぶ。その名声は騎士団からも一目置かれている。積み重なる苛立ちは、もはや抑えの利かないところまで来ていた。
訓練の合間、イリッサは足早にベルナルトのもとへ歩み寄った。
「――副団長」
声が震えていた。抑えきれない怒気が滲み出ていた。
「あの人は、帝国に通じています」
「――なに?」
ベルナルトが振り向いた。
「シェリル・アリアシストです。ヴォルテナ帝国のガルデウス総帥と、密かに文書のやり取りをしています。一刻も早くエレシアから追放すべきです。あれは、謀反の疑いがあります」
言葉尻が上ずり、興奮を隠しきれていなかった。
ベルナルトは一瞬、顔を歪めた。だが、それは驚きからではなかった。
(――この焦りようは)
密告の内容そのものより、それを口にする人間の様子に、ベルナルトの目は向いていた。声の震え、目の血走り方、シェリルという名前を出す時の唇の歪み方――長年、隊を束ねてきた男の目には、そこに滲む感情の正体が透けて見えていた。
(どう見ても嫉妬だ。こんな分かりやすい話があってたまるか――密告する相手が俺じゃなければ、もう少し望み通りの騒ぎになったろうにな)
謀反などという大仰な言葉を使いながら、その根にあるものはひどく個人的な感情でしかない。
ベルナルトは内心でそう独りごちた。だが、それをそのまま口にするつもりはなかった。ここであからさまに看破してしまえばこの女は逆上しかねない。冷静さを欠いた人間ほど、扱いを誤ると厄介なものはない。
「そうか。深刻な話だな」
ベルナルトはあえて神妙な顔を作った。真剣に受け止めた振りをする。
「その件は、こちらで慎重に調べてみよう。よく報告してくれた」
イリッサは、多少なりとも溜飲が下がったのか、こわばっていた表情をわずかに緩めた。
「――よろしくお願いします」
一礼して去っていくイリッサの背中を見送りながら、ベルナルトは小さく息を吐いた。
シェリルが帝国の総帥と個人的に文書をやり取りしていることは、既に把握済みだった。しかも、その内容が学術的な意見交換に留まり、外交省を通して包み隠さず送られていることも。何ら疚しいところのない話だ。
だが、事実がどうであれ、こうして嫉妬が形を変え、疑惑という衣を纏って広まっていく――その動きそのものは、放っておいてよいものではなかった。
(アルヴァン団長に、報告しておくか)
そう思う一方で、ベルナルトの胸には、もう一つ別の懸念が頭をもたげていた。
(――もし、あの娘への疑惑がこのまま深まっていったら)
魔法算術論の出版に際して、口添えをしたのは他でもない自分だった。彼女の実力を早くから認め、後押ししてきた自覚がある。シェリルへの疑いが本格的なものへと膨れ上がれば、その矛先がいずれ自分にも向きかねない。
だが、それ以上に気にかかることがあった。
(彼女自身は、この件に気づいているのだろうか)
嫉妬を発端とした、根も葉もない疑惑。それが今、静かに、しかし確実に広がりつつある。当のシェリルが、その気配にまるで無頓着なままなのだとしたら、それはそれで危うい話だった。
ベルナルトは演習場の向こう、涼しい顔で騎士団員に助言を送るシェリルの姿を一瞥した。
(――いや)
あの娘の目は、感情の機微には疎くとも、事実の異変には人一倍敏感だ。
廊下の視線の変化一つ、空気の質の違い一つ、見逃すような人間ではない。
何が起きているかまでは掴んでいないにせよ不穏な空気など、とうに察しているだろう。ベルナルトはそう睨んでいた。




