五 焚きつける者
王宮内にはいくつかの食堂があるが、その中で最も格の高い一室――上級以上の官職や術師のみが利用を許される場所に、エインはいた。杯を傾けながら、向かいに座る三人の女術師を眺めている。三人はいずれも中級術師だったが、上級の招待があれば使用できるという、暗黙のルールがあった。
「――いや、しかし驚いたよ」
エインはわざとらしく眉をひそめて見せた。
「あの女、まさか帝国の総帥と裏で文書のやり取りまでしているとはな」
「やっぱりそうなんですか」
三人のうち最も派手な装い、以前シェリルの胸ぐらを掴んで殴りかかろうとした女――イリッサが、目を輝かせて身を乗り出した。この女が師団の女性術師たちの間でそれなりの発言力を持っていることを、エインは既に調べ上げていた。
「ああ。表向きは学術的な交流とか言っているらしいがな。信じられるか、そんな話」
「気に入らない女だと思ってたけど、そこまでとはね」
イリッサは苦々しげに酒を呷った。以前の一件から、彼女のシェリルへの嫉妬は少しも薄れていなかった。むしろ、ミレイに割って入られ恥をかかされた分だけ、鬱憤は募っていた。
「あんな若造が特級だなんて、最初からおかしいと思ってたのよ。おまけに敵国と繋がってるなんて、これはもう見過ごせないでしょう」
「その通りだ」
エインは大きく頷いた。内心では、この程度の女を煽るのに大した労力もいらないことに、いっそ拍子抜けしていた。実力もなく、ただ嫉妬だけで動く人間ほど扱いやすいものはない。
「実力主義を謳うこの国で、こんな不公平がまかり通っているのは由々しき事態だ。しかも、外国の軍事総帥と個人的に通じているとなればなおさらだ。俺は、こういうことをきちんと問題視する人間を、支持していきたいと思っている」
「エインさんも、ちゃんと分かってくれる人なんですね」
もう一人の女が媚びるように微笑んだ。エインはその笑みに、内心で薄ら笑いを返した。金の力も使わず、ただ嫉妬に寄り添う言葉を並べるだけで、これほど簡単に人が転がる。安上がりで済むのは有り難かった。
「なに、当たり前のことだ。実力もない小娘が特級を名乗り、あろうことか帝国と誼を通じている――これを問題にせずして、何を問題にするというのだ」
もっともらしい正義の顔をして、エインは杯を重ねた。だがその実態は、自分の派閥拡大のために他人の劣等感を利用しているだけの、ひどく小さな企みだった。国家がどうの、実力主義がどうのという言葉は、単に都合の良い衣に過ぎない。
「――それに、妹の方もね」
イリッサが、思い出したように付け加えた。
「妹?」
「アノリスとかいう、姉の七光りで上級に上がった娘ですよ。首席合格とか言われてますけど、あんなの姉の血筋のおかげに決まってるじゃないですか。姉妹揃って、実力もないのにいい思いばっかりして」
「アノリス……」
エインは杯を持つ手を、わずかに止めた。
(――待てよ)
その名前には、聞き覚えがあった。いや、聞き覚えどころではない。数日前、月華亭で自分を受付から案内した、あの娘。緑のドレスがよく似合っていた。名乗られた記憶はなかったが、確か店の女がそう呼んでいた気がする。
「そいつが、どうかしたか」
努めて平静を装って尋ねた。
「あの娘も、姉と同じで鼻につくんです。仕事は丁寧ですけど、なんかこう、上から見てるような感じっていうか」
「……ああ、そうか」
エインの相槌は、心なしか歯切れが悪かった。
姉のシェリルに対しては、腹の底から燃えるような怒りが湧いてくる。敵国と通じ、自分の計画を脅かしかねない存在――そこに一切の迷いはなかった。
だが、アノリスの話になると、勝手が違った。あの夜、行き届いた気配りで案内され、上機嫌のまま帰路についたのは、他でもない自分自身だった。あの娘のおかげで、上等な一夜を過ごせたことは否定しようがない。悪し様に言おうとしても、舌の根元でどこか引っかかるものがあった。
(いや、関係ない。あれはあれ、これはこれだ)
エインは己に言い聞かせるようにして、杯を呷った。
「まあ、あの姉妹が師団や王都で幅を利かせているのは、確かに面白くない話だな」
当たり障りのない相槌に留めた。イリッサたちはそれで十分満足したらしく、姉妹への悪口をさらに重ねていった。
「とにかく、姉の方の話は広めておいてくれ。敵国と通じている疑いがある、というだけで十分だ」
「任せてください」
同じ食堂で、柱を隔てて離れた卓で、ミレイは友人のリセラと夕食を摂っていた。上級術師になってから、この食堂を使う機会も増えていた。
「――ねえ、あそこの卓、なんかヤバくない?」
リセラが小声で肘を突いた。少し離れた席から、笑い声混じりの話し声が漏れ聞こえていた。
ミレイは箸を止め、耳を澄ませた。断片的にしか聞こえなかったが、イリッサたちの声と、聞き覚えのある男の声が混ざっている。エインだった。
その中に、聞き慣れた名前が繰り返し混ざっていた。声のトーン、笑い方、そこに漂う空気――それだけで、決して健全な話ではないことが察せられた。
「というかあの女、この前シェリル先生を殴ろうとしていたやつじゃん……」
ミレイは眉を寄せた。
「それにあの男、なんかいけ好かないんだよね。前から」
「うちらには関係なくない?」
「――かもだけど」
ミレイは腕を組んだ。理由はうまく言葉にできない。ただ、この手の空気には昔から敏感だった。誰かを肴にして盛り上がっている卓というのは、笑い声の質からして違う。楽しいから笑っているのだろうが、誰かを引きずり下ろすことを考えながら笑うという、陰湿なものだった。
「まあ、今のところは様子見かな。今度先生に何かやろうとしてたら、タダじゃおかないって」
ミレイはそう呟いて、リセラを促して食事に戻った。だが、心の奥では、小さな警戒の灯りが消えずに残っていた。
王宮内の食堂を出た帰り道、イリッサは図書館の前を通りかかった。
入り口の陳列棚に、見覚えのある背表紙が並んでいた。『魔法算術論 中級編』。あの女――シェリルの著書だった。初等編が出て以来、評判はうなぎのぼりだと聞いていたが、こんなに容易に視界に入るとは思っていなかった。油断していたのだ。
(こんなところにまで)
イリッサは足を止め、その本を睨みつけた。表紙には飾り気のない題字だけが記されている。それだけで、なぜかひどく苛立たしかった。
「どこもかしこも、あの女の話ばかりね」
吐き捨てるように呟く。街の書店でも似たような光景を見た記憶があった。あちらでもこちらでも、あの本が積まれ、若い術師たちが手に取っている。
(燃やしてやりたい)
衝動的にそんな考えが頭をよぎり、イリッサは自分でも驚いた。だが、その衝動は決して消えなかった。むしろ先ほどエインと交わした会話の余熱が、その炎に薪をくべているようだった。
一方、エインは食堂を出た後、一人で王宮の廊下を歩きながら、内心穏やかでない気分を抱えていた。
(思ったより、根が深いな)
イリッサたちの、シェリルへの――そしてアノリスへの嫉妬は、想像以上に深いものだった。焚きつけるだけなら容易い。だが、その炎がどこまで燃え広がるかまでは、正直なところ読み切れていなかった。
(妹の方まで、巻き添えになるのは……)
エインの脳裏に、月華亭での快い一夜がちらついた。あの娘に含むところは何もない。むしろ、あの気配りには素直に感謝したいくらいだった。姉を陥れるついでに、妹まで泥を被ることになれば、寝覚めが悪い。
(――いや、そもそも)
騒ぎが大きくなりすぎるのも困る。今はまだ、疑いの種を静かに広めておく段階だ。表沙汰になってベルナルトやアルヴァンの耳に入るような真似は、時期尚早すぎる。
「少し、行き過ぎたか」
エインは小さく呟き、足を速めた。イリッサたちの燃え上がり方を見誤ったかもしれない、という焦りが、胸の奥にじわりと広がっていた。
その頃、シェリルは師団の廊下を歩いていた。
すれ違う術師たちの視線に、以前とは違う何かが混じっていることに、シェリルは気づき始めていた。
あからさまな敵意ではない。だが、目が合った瞬間に逸らされる視線、廊下の向こうでひそひそと交わされる会話、こちらを見て急にやめる仕草――それらの断片が、少しずつ積み重なっていた。
(――何かしら)
感情の機微には疎い自覚があった。だが、事実を積み重ねて判断する頭脳は、こうした空気の変化を見逃さなかった。以前よりも、明らかに視線の質が変わっている。
(喫茶室で向けられたものと、質が同じだわ)
あの時の感情が、形を変えてまだくすぶっているのだとしたら――。
シェリルは足を止め、静かに思考を巡らせた。
(何をすべきか)
感情そのものに対応する術は、シェリルには持ち合わせがない。だが、事実として何かが起きているのなら、それを見過ごすわけにはいかない。
まずは状況を正確に把握することだ。感情の渦に飲まれるのではなく、事実を一つずつ確認していく――それが、シェリルにできる、唯一にして最善のやり方だった。
ただ、一つだけ気がかりがあった。
視線の質が変わったのが、いつからなのか。それが分からない。気づいた時点で既に、何かは相当進んでいるということだ。
感情は事実より速く広がる。それだけは、経験として知っていた。




