四 火種
外交省の建物は、王城の一角にひっそりと構えていた。
シェリルは書簡を手に、担当職員のもとを訪れていた。ガルデウス――帝国軍総帥への、私的な書簡だった。内容はあくまで学術的な意見交換の域を出ないものだったが、疑いを招かぬよう、送付の前に必ずこうして外交省の目を通す。それがシェリルの流儀だった。
「――拝見しますね」
職員が書簡に目を走らせる。シェリルはその間、椅子に腰掛けて静かに待っていた。隠すことは何もない。むしろ包み隠さず開示することこそが、疑念を未然に断つ最善の手段だと理解していた。
「特に問題ございません。いつも通り、内容は明瞭ですね」
「ありがとう」
用件を終え、席を立とうとしたところで、廊下の向こうから聞き覚えのある声がした。
「おや、シェリルか?」
振り返ると、ラフィスが立っていた。騎士団の正装に身を包んだ姿は、以前にも増して堂々としていた。
「ラフィス。あなたも外交省に用事?」
「ああ。騎士団の軍馬強化の件だ。ダルガン連合への視察が検討されていてな、その打ち合わせだ」
将軍としての新しい仕事らしい。シェリルは口元を緩めた。
「――ずいぶん偉くなったものね、あなたも」
「からかってるつもりだろうが……まだ慣れないな、こういう場は」
二人がそんな会話を交わしている間、別室ではエインが、外交省の北方担当助手と密やかに言葉を交わしていた。
名をハースンといった。
「ダルガンへは、こちらから例の品を送っておきました」
声を潜めて報告する。
「あとは国内で、ダルガン連合への支持を取り付ける段階です」
エインは満足げに頷いた。だがハースンは、ふと思い出したように付け加えた。
「ところで、最近来た特級術師、シェリル・アリアシストとかいいましたか。今日も来庁しているんですが……何やら、ヴォルテナ帝国と文書のやり取りをしているとか」
その一言に、エインの表情が凍りついた。
「――は?」
「シェリル・アリアシスト。若い特級術師です。ヴォルテナ帝国のガルデウス総帥と、私的に書簡をやり取りしているようで」
ハースンは何気ない調子で続けたが、エインの顔からはみるみる血の気が引き、代わりに赤黒い怒気が這い上がってきた。
昨夜までの上機嫌さが、嘘のようだった。エヴァを抱いた翌朝の余韻に浸り、己の手腕に酔いしれていたはずの気分は、今やどこにもない。
特級術師。師団でも別格の位にある女が、帝国の総帥と親しく文を交わしている。
そんな話が広まればどうなる。帝国と手を結ぶべきだと言い出す連中が、勢いづくに決まっている。せっかくダルガンへ傾けてきた流れが、根こそぎ持っていかれる。
そこまでは一息だった。書簡の中身も、外交省の確認も、エインの頭には入ってこなかった。
「ふ、ふざけるな」
低く、吐き捨てるような声だった。
「敵国の総帥と、個人的に通じている女がいるだと? しかも、うちの師団の人間が」
ハースンが困惑した顔を見せる。
「いえ、通じているというか、そもそもヴォルテナ帝国は我が国と敵対関係にあるわけでもないですし、内容は外交省を通して確認済みで――」
「んなことはどうでもいい!」
バァン!――エインは机を叩いた。品も何もない、剥き出しの怒声だった。
「私からしたら敵国だ。その敵国の軍のトップと文書のやり取りしてる女が、涼しい顔で王都を歩いてるってことだろうが! それだけで十分、疑ってかかる話だろうが!」
昨夜の甘い記憶が、一瞬にして塗り替えられていく。優越感に浸っていた男の顔は消え、そこにあるのはただ醜く歪んだ怒りだけだった。
「――ハースン」
エインは声を落とした。だが、その静けさはむしろ剣呑さを増していた。
「お前、この件、上手くやれ。あの女が帝国と通じているという話、内々に広めておけ。表立って言う必要はない。ただ――疑いの種さえ蒔いておけば、あとは勝手に育つ」
「し、しかし……」
「やれと言ってるんだ」
ハースンは気圧されたように頷いた。この男に逆らって、まともに働き続けられる場所がどこにあるか。それを考えるだけの分別は、彼にもあった。
エインは窓の外を睨みつけながら、頭の中で目まぐるしく算段を巡らせていた。ヴォルテナ派とダルガン派、王宮内の派閥は今、危うい均衡を保っている。ここで王都内の支持をダルガン側に傾けるには、些細な火種でも構わない。使えるものは何でも使う。
(あのシェリルとやらに不満を持ってる奴、どこかにいねえか)
見たことも無い若さで特級に上り詰めた女を快く思わない者は、必ずいるはずだった。嫉妬、劣等感、些細な恨み――そういう感情の隙間に付け入るのは、エインの得意とするところだった。
(探して、近づいて……使い方は、これから考えればいい)
エインの口元に、薄ら笑いが浮かんだ。
同日の夜、人目につかない時間を見計らって、アノリスは魔法師団長アルヴァンの部屋を訪れていた。
扉を前にして、さすがのアノリスも息が浅くなるのを感じた。姉のシェリルであれば、この程度の場は慣れたものだろう。だが自分にとっては、団長の私室を訪ねること自体、初めての経験だった。手のひらに、うっすらと汗が滲んでいた。
「――失礼します」
三度のノックの後声をかけると中から静かな応答があった。案内されて中に入る。灯りは絞られ、部屋の空気は昼間とは別物のように張り詰めていた。
アルヴァンとアノリスは、互いに顔と名前くらいは知っていた。だが、こうして一対一で向き合うのは初めてだった。
「師団長。緊急を要するお話があります」
アノリスは椅子を勧められる間もなく切り出した。声が、思ったよりも掠れていた。
アルヴァンは眉一つ動かさなかった。普段から泰然としている男だが、それでも夜分にわざわざ訪ねてきた新任の上級術師の様子に、これは何か良からぬ話だろうと直感していた。
「――聞かせてくれるかい」
静かな声だった。だがその静けさが、かえって部屋の重みを増した。アノリスは意を決して口を開いた。
「我が師団内に、汚職に関わっている者がいます」
アルヴァンの目つきが、わずかに鋭くなった。何も言わず、続きを促す。
「エレシア国内の建設業者が、ダルガン連合の軍馬育成のための大型厩舎兼調教施設の受注を目指しています。国内からダルガン連合への支持を広げ、受注を成功させるよう動いている――その動きの中で、金貨数千枚にも及ぶ献金を受け取っている者がいます」
アルヴァンの声は穏やかであったが、視線が鋭くアノリスの方へ向いた。その迫力にアノリスは一瞬たじろいだ。
「その情報、どこから――月華亭、か」
問いの形をしていたが、既に確信を持っている響きだった。アノリスが答えるより先に、アルヴァンは小さく息を吐いた。
言い当てられて、アノリスは思わず息を止めた。否定する理由もなかった。
「……はい」
短い沈黙が落ちた。灯りの芯が微かに鳴る音だけが、部屋に響いていた。アルヴァンは何かを恥じるでも咎めるでもなく、ただ静かにその事実を受け止めたようだった。娼館という場所が、時にこうした情報の通り道になることを、この男もまた知っている――そんな沈黙だった。
やがてアルヴァンは、また静かに問うた。
「その者が誰か、分かっているのかい。怖かったなら、無理に言わなくてもいい」
アノリスは一瞬も迷わなかった。だが、名前を口にする直前、喉の奥が強張るのを感じた。
「――エイン・ドルッセです」
アノリスが名前を口にした瞬間、アルヴァンの表情がはっきりと動いた。
長い沈黙が続いた。アルヴァンは何かを確かめるように、じっとアノリスを見つめていた。
灯りに照らされたその顔には、怒りとも諦観ともつかない、複雑な影が落ちていた。
「――このこと、他の誰かに話したかい」
「いいえ。誰にも」
アルヴァンは深く息をついた。その息の重さに、アノリスは初めて、この報告がどれほどの重みを持つものだったかを実感した。
「よくここに来てくれた。礼を言う。だが決定的な証拠がない限りは、こちらから動くわけにはいかない。しばらくは、泳がせておくしかないだろう」
それから、静かに、しかし確かな重みを持って言葉を継いだ。
「だが、その時が来たら、必ず動く」
部屋に落ちた沈黙は、いつまでも重く尾を引いていた。




