三 口を滑らせた夜
カイルが月華亭に来てから、十日ほど経っていた。
アノリスにとってはあまりにも平穏な日々だった。師団と娼館を掛け持ちする生活にもすっかり慣れ、上級術師という肩書きを得てからは、月華亭への勤務日数こそ以前より減ったものの、受付嬢としての存在感はむしろ増していた。噂を聞きつけた常連客の中には、わざわざアノリスの出勤日を狙って来店する者もいるほどだった。
今日は接客に加え、ホールに提供する酒や食材の仕入れも任されていた。帳簿を片手に控え室へ向かうと、そこには一際華やかな女性の姿があった。
化粧もドレスも、他の女たちより二段階は上等な仕立てだった。それ以上に女性としての造形そのものが違う。王都における最高級の女――エヴァ・ルーン。高級官僚、要人、資産家。この女を抱ける者は、ごく限られた層でしかなかった。
(エヴァさん、久々の出勤かぁ)
アノリスは軽く目を見張った。予約が入っているらしい。一体どんな相手なのだろう――そんな興味から台帳に手を伸ばしかけた時だった。
その台帳を、既に誰かが見つめていた。セレナだった。
極めて厳しい顔をしている。いつもの客あしらいに長けた朗らかなセレナとは違う、剣呑な空気を纏っていた。
「アノリス、ちょっと」
低いトーンで名を呼ばれた。アノリスは思わず背筋を伸ばした。
差し出された台帳を覗き込むと、そこにはエヴァの本日の予約者名が記されていた。
エイン・ドルッセ。
アノリスは息を呑んだ。ソニアの義父の名前だった。
「エヴァは金貨五十枚からよ」
セレナが静かに、しかし刃のような鋭さを含んだ声で言った。
「この方、上級術師と聞いているけれど……上級の給金で、ここまで払えるものなのかしら」
「――しかも」
アノリスは思わず口を挟んだ。
「この方、一ヶ月のうちにミラさんも二回抱いてるんですよ。一回で指名料が金貨十枚、その上即金でチップも積んで、それを二回。その上でエヴァさんまでって……」
言いながら、自分でも数字の異様さに背筋が冷えるのを感じた。この三回、指名料だけで軽く見積もっても金貨七十枚は下らない。上級術師の給金がどれほどのものか、正確には知らない。だが、月に何度も、これほどの遊びを重ねられる額とはとても思えなかった。
「有り得ないですよ、これ」
「――ええ」
セレナは台帳を閉じ、控え室の扉に視線を向けた。
ちょうどその時、控え室の奥からエヴァが呼ばれた。落ち着き払った所作で立ち上がり静かに部屋を出ていく。劣情を煽りながらも芸術品のような美しさに、擦れ違う誰もが一瞬息を止めるほどだった。
セレナはその後ろ姿をしばらく見送ってから、口を開いた。
「あの容姿だけじゃないのよ、エヴァは。声だけで男を惑わせる魔法でもかけられているんじゃないかと思うくらい……。声を聞いただけで、正気の判断ができなくなる客が何人もいるわ」
セレナが手招きすると、エヴァが控え室に戻ってきた。歩みだけで空気の質が変わる、そんな錯覚を覚えさせる女だった。
「エヴァ、少しいいかしら」
「なあに、改まって」
エヴァは小首を傾げた。仕草の一つひとつが計算されているようでいて、それでいて嫌味がない。
「今夜のお客様なのだけれど」
セレナは声を落とした。
「もしかすると、不正な方法で大金を得ている可能性があるの。あなたの夜の業で、それとなく聞き出してもらえないかしら」
エヴァは形の良い眉を軽く上げた。
「あら。それはまた、ずいぶん調子のいいことを並べる殿方ってことね」
含みのある笑みを浮かべながら、それでも拒む様子はなかった。この道で長く生きてきた女には、こういう頼まれ事も日常の一部なのだろう。
「任せておいて。男は、良い気分にさせれば大抵のことは喋るものよ」
そう言い残し、エヴァは軽やかな足取りで奥の個室へと消えていった。
それから暫くして、今日も月華亭の開店時刻となった。
アノリスはいつもの受付カウンターに収まる。数名を相手して日も完全に落ちた頃、見知った姿が近づいてきた。エインだった。
「――こんばんは」
「いらっしゃいませ」
アノリスは営業用の笑みで応じたが、内心では身構えていた。この十日の間に、師団内でアノリスの顔はすっかり割れてしまっている。特任研究師のシェリルの妹、上級術師のアノリス――月華亭の受付嬢という裏の顔まで知られているかは分からないが、少なくとも術師としての顔は、もう隠しようがなかった。
エインがこちらをちらりと見た。それから、思い出したように口を開く。
「……ああ、そうか。あんた、この間上級に受かった子だな」
アノリスの指先が、わずかに止まった。
「はい。おかげさまで」
「そうかそうか。師団の子が、こういうところで働いているとはな」
悪意のある言い方ではなかった。むしろ、どうでもいい話を思い出しただけという口ぶりだった。エインの関心は既に別のところにあるらしく、それ以上は何も言わずに待合の方へ視線を移した。
だからこそ、アノリスは内心で息をついた。この男は、目の前の相手が自分をどう見ているかなど、一度も考えたことがないのだろう。
個室に入るなり、エヴァは灯りを落とした。
薄闇の中、纏っていた衣が肩から滑り落ちる。エヴァの姿にエインの視線は釘付け。
だが、エヴァの目は笑っていなかった。
男が酒をどれだけ飲んだか。呼吸の深さ。指先の震え。緩みきるまでにあとどれくらいか。そういったものを、衣を落とす一動作の間に数え終えている。
それから、笑った。
彼女はゆっくりとエインに歩み寄った。だが、すぐには触れない。触れそうで触れない距離を保ったまま、耳元に息を落とす。
「――私との夜は、激しいわよ」
声には、蜜のような艶があった。
男が焦れて手を伸ばしかけたところで、ようやく肌を寄せる。与えて、引いて、また与える。その呼吸の中に、問いを一つだけ紛れ込ませた。
「でも、ここに来られる殿方は、選ばれた方だけ。……あなたは、何者なの?」
情感をたっぷりと乗せた声だった。まるで愛撫の一部であるかのように、自然に、それでいて逃さぬ質問だった。
エインは酒と興奮で緩みきった顔で、笑みを浮かべた。
「――俺は今な、巨大なプロジェクトを動かしてる」
「あら、素敵。どんな?」
「ウルメシア大陸のダルガン連合……あそこの巨大な騎馬育成施設だ。国家間の話でな、俺が絡んでるってだけで、まあそれなりの金貨が動く」
言い終えたところで、エヴァは表向きだけ感嘆したように目を細め、エインを抱き締めた。
「――すごいのね、あなた」
その声には、称賛の色がまとわりついていた。エインは満足げに息をつき、それ以上何かを語ろうとする様子はなかった。
あとは、エヴァのペースだった。
そんなエインは快楽のあまり、口を滑らせたことに気がついていない様子だ。エヴァとの夜で金貨五十枚、その場のチップで更に二十五枚積まれたのだった。
しばらくして、エヴァが控え室に戻ってきた。
帰る客は受付を通らず、専用の出口から静かに送り出される決まりだった。エインはすでに、たいそう御満悦な顔で店を後にしていた。
個室から戻ったエヴァは、乱れた衣装を手早く整えながら、控え室で待っていたセレナとアノリスに近づいた。
「――聞き出したわ」
声のトーンが変わっていた。先ほどまでの艶を含んだ響きは、跡形もない。髪も衣装も乱れたままだというのに、そこに立っているのは既に別の人間だった。
エヴァは周囲を一度見回してから、二人にだけ聞こえる声で内容を伝えた。
聞き終えたセレナとアノリスは、思わず顔を見合わせた。
「――これは……」
アノリスの声が硬くなった。
「師団の話です。私が直接、アルヴァン団長に報告します」
個人の懐事情の異様さから始まった疑念が、ここに来て一気に別の重みを持ち始めていた。師団内部の汚職という次元では、もはや収まらない話かもしれない。
セレナは腕を組み、小さく頷いた。
「金貨何十枚で驚いていた話じゃなかったのね。桁が二つ違う。……いいわ、今回はあなたに任せる。こういう情報を時々こうして掴んでは提供する。だからこそ、うちみたいな際どい商売の店も、こうして続いていけるのよ」
いつもなら、こうした情報を掴んだ時は自分が動く。だが今回は、目の前の若い上級術師が示す気概に、素直に乗ってやりたい気持ちがあった。
その言葉には、娼館という商いの裏にある、もう一つの役割への矜持が滲んでいた。
時計を見ると、アノリスの退勤時間を少し過ぎていた。今から師団へ向かうには遅すぎる時間だった。
(――人目につかない時間を見計らって、団長のところへ)
いくら上級術師とはいえ、団長に直接、それも師団の暗部に関わる話を持ち込むとなると、さすがのアノリスも緊張を覚えずにはいられなかった。




