二 嫉妬と算術の渦
魔法師団の喫茶室は、午後の柔らかな光に満ちていた。
シェリルは窓際の卓に一人腰を下ろし、図書館から借りてきた分厚い書物を開いていた。魔法書ではない。純粋な算術書――偏微分方程式の理論を扱った専門書だった。頁をめくる指先は静かで、周囲の喧騒などまるで耳に入っていないかのように見えた。
熱が鉄棒を伝う様子も、水面の波が四方へ散っていく様子も、偏微分方程式は同じ形の式で書き表す。ならば術式が広がる過程もまた、同じ言葉で書けるのではないか。シェリルが探り続けていたのはその道筋だった。中級編まで出版されている魔法算術論の、その先を書くための概念でもあった。
「――ちょっと、あんた」
声がかかったのは、シェリルが三頁ほど読み進めた時だった。顔を上げると、三人の女が立っていた。制服のリボンを見るに中級の中位クラス、いずれもシェリルより年上に見える。
「特級だかなんだか知らないけどさ」
一人が卓に手をついて身を乗り出した。制服の襟元には、名門の家系であることを示す紋章の刺繍が入っていた。
「運が良かっただけでしょ、あんた。うちみたいなちゃんとした家の出でもないのに、なんで特級様なわけ」
エレシアという国は、出自よりも純粋な実力が評価される土地柄だった。王族であろうと平民であろうと、術式の前では等しく数字が全てを裁く。だからこそ家柄を持ち出すこの物言いは、本来この国で最も嫌われる部類の台詞だった。それを恥じる様子もなく口にする時点で、彼女たちの器が知れるというものだった。
「そうそう。うちら何年も中級で足踏みしてんのに、あんたはポンと特級様だもんね。笑っちゃう」
シェリルは書物から目を上げたまま、何も答えなかった。表情に変化はない。ただ静かに、話しかけられた相手を見つめている。それが女たちの神経を逆撫でしたらしかった。
「なによその顔。人が言ってやってんのに」
「汚らしい女。若いってだけでちやほやされてさ」
「あんたみたいなのが特級面してるから、真面目にやってる奴が馬鹿を見るのよ」
「顔だけの女が」
罵倒は次第に的を外れ、ただの悪意の羅列になっていった。周囲の術師たちは横目でちらりと見るだけで、誰も止めに入ろうとしない。
シェリルはそれでも顔色一つ変えなかった。動じないというより、内心では既に別の思考に移っていた。この言葉の羅列に、算術的に意味のある応答が存在しない――ただそれだけの理由で、口を開かなかった。
それが、さらに火に油を注いだ。
「――ちょっと、無視してんじゃないわよ!」
一人の女が声を裏返らせ、卓越しにシェリルの胸ぐらを掴んだ。強く引き寄せられ、書物が床に滑り落ちる。
「調子乗ってんじゃないわよあんた!」
拳が振り上げられた瞬間だった。
「――はいはい、そこまで」
軽やかな声が割り込んだ。振り上げられた拳がぴたりと止まる。
人だかりを掻き分けて現れたのは、赤みがかった髪を高く結い上げた女だった。制服の襟元を崩し、耳には小ぶりの飾りを揺らしている。
ミレイだった。この中では明らかに最年少だったが、その肩書きは彼女たちの誰よりも重かった。この初夏の試験に合格したばかりの、真新しい上級術師だった。
「あんたら、こんな昼間っから何やってんの」
ギャル調全開の口調で、しかしその場の空気を一瞬で変える圧があった。
「関係ないでしょ、あんたには」
「関係あるって。うちの師団の喫茶室でガチの胸ぐら掴み合戦とか見てて普通にダサいから。てか、あんた今殴ろうとしてたよね?」
ミレイはシェリルの胸ぐらを掴んでいた女の手を、いともあっさりと払いのけた。
「つーか、家柄とか持ち出してる時点でもう負けてるよ、あんたら。ここエレシアだよ? そういうの一番ダサいって皆知ってるじゃん」
女たちが一瞬、言葉に詰まった。
「運も実力のうちって言葉、知らない? 運だけでここまで来れるほど、この世界甘くないっしょ」
「……あんた、何様のつもり」
「何様も何も、上級術師だけど。あ、この間の試験受かったばっかだから、まだ実感薄いんだけどね」
あっけらかんと言い放つミレイに、女たちは反論の糸口を失っていた。年下の、それも今しがた昇格したばかりの相手に格の違いを見せつけられ、これ以上騒ぎ立てても分が悪いと悟ったらしい。
「……フン。覚えてなさいよ」
捨て台詞を残し、女たちは足早に喫茶室を後にした。
シェリルは床に落ちた書物を拾い上げ、静かに立ち上がった。
「――助かったわ」
ミレイに向けて、まっすぐに言葉をかける。
「別に、大したことしてないし」
軽く返してから、ミレイはふと動きを止めた。
特級だかなんだか知らないけど。さっき、あの女たちはそう言っていなかったか。
改めて目の前の相手を見る。紫のローブ。この師団に一人、それどころか大陸を通しても見ない階級。
(――あ。やば)
昨日の最終試験の観客席にいた顔と、記憶がようやく結びついた。エーテラリス。魔法算術論の著者。
「いいえ。私一人では、あの場を収める術がなかった。事実として、あなたの介入がなければ殴られていたわ」
感情の起伏はないが、それだけに率直さが際立つ物言いだった。
「あ、いや、その」
ミレイは慌てて姿勢を正しかけて、それも途中でやめた。今更取り繕ったところで、さっきまでの口調は聞かれている。
しかし、目の前に居るのは畏れ多くも魔法算術の第一人者。ミレイも師団の中では算術は出来る方、という自負があったためか、思わず次の句がでてしまう。
「あの……私がお願いしていいのか分かんないんですけど……もし、お時間あれば……稽古、つけてもらえたりします?」
師団の訓練場にも種類があるが、シェリルが案内されたのは術者が立つ範囲だけが吹き抜けになっているものだった。屋根があるのは、待機する者や見学者のための外周部分のみ。上方へ伸びる術式を扱うのに適した場であった。
ミレイの風術式はなかなかに筋が良かった。風の流れを読む感覚が鋭く、無駄な動作が少ない。だがそれだけならば中級の域でも珍しくはない――シェリルがそう思案していた矢先だった。
ミレイが手を掲げ、円形広域展開を放った。
風が一瞬で場を包み込み、外周へ向かって拡散していく。展開の均一さ、収束までの速さ、どれを取っても中級では到底届かない領域だった。
(――速い)
言葉にはしなかったが、内心での評価は正直だった。
一通りの型を終えたところで、シェリルが口を開こうとした。だがそれより先に、ミレイの方が言葉を発した。
「やっぱ風魔法って、複素数展開が一番イメージしやすいんですよね」
シェリルの手が止まった。
突風領域の円形展開、実関数展開はx、yの二次式、もしくは三角関数を使用しても見た目の式が煩雑になりがち。しかし複素数であれば原点からの距離を固定として、偏角を一回転させれば即座に展開できる。
(この子、こう見えて算術の心得があるわね)
興味の色が瞳に浮かんだ。感情の起伏に乏しいシェリルにしては珍しい反応だった。
「風の螺旋展開は?」
「あ、できます」
答えると同時に、ミレイの周囲に風が渦を巻き始めた。鮮やかな螺旋が地面から立ち上り、その螺旋に自らの身を乗せると、ミレイはふわりと上空へ舞い上がった。風の帯に踊るようにして、宙を一周してから軽やかに着地する。
円形展開を螺旋に変えるには、風を回転させながら原点からの距離を増していけばよい。
シェリルは静かに得心した。ミレイの風が纏う美しさ――それこそが、この娘が上級に届いた理由なのだと。技術の精度だけではない、風そのものに愛されているような自然さがあった。
「もう一つ、見てもらっていいですか」
ミレイは両手を広げた。次の瞬間、彼女の周囲に四本の竜巻が同時に立ち上がった。
シェリルは目を細めた。四本、それぞれの大きさが寸分違わず正確に揃っている。同時展開でこの精度を保てる術者は、上級術師の中でも稀だった。風だけに特化して積み上げてきた者だけが持つ力だった。
「竜巻のパワーって、結局留数っしょ」
ミレイが事もなげに言った。
「渦の真ん中に、値が決まらない一点があるじゃないですか。そこをぐるっと囲んで積分すると、出てくる数が一個ある。あれがそのまま威力なんですよね」
言いながら、ミレイは展開していた竜巻の一本の大きさを、ゆっくりと変化させて見せた。渦の芯はそのままに、外周だけが伸縮する。
シェリルは、その動きを目で追った。
渦の中心には、値が定まらない一点がある。その点を避けて周囲を一周した時、結果として残る量――それが留数だ。外周をどれだけ広げようが縮めようが、囲んでいる中心が同じである限り、取り出せる力は変わらない。威力を上げたければ、中心そのものを操作するしかない。
この娘は今、まさにそれをやっている。
シェリルの表情が、わずかに動いた。
「留数まで、ちゃんと分かっているのね」
感情を込めない声だったが、その分だけ言葉の重みが増していた。ミレイは軽く笑って、展開していた竜巻を静かにしまい込んだ。
シェリルの口元に、珍しく笑みが浮かんだ。
「やるわね」
だが、その笑顔もすぐに翳った。ミレイの表情に、ふと影が差した。
「――でも、正直悩んでて」
「なに?」
「風だけだと、実戦じゃちょっと厳しいんですよね」
ミレイは自分の手のひらを見つめた。
「なんか、こう……この風に乗せられる、私だけの大技みたいなの、何かないかなって。前からずっと考えてて」
言葉の端々に、焦りとも憧れとも取れる響きがあった。上級術師として認められたばかりの身で、既に自分の限界を見据えている。それもまた、この娘の実直さの表れだった。
シェリルはしばらく黙って考え込んでいたが、やがて右手を掲げた。
「見ていなさい」
次の瞬間、竜巻が立ち上った。
展開の速度からして違った。だがそれ以上に際立っていたのは、その規模だった。渦は吹き抜けの空へまっすぐ伸び上がり、見上げるミレイの視界から、先端が消えた。
「――え、うそ、なにこれ」
ミレイが声を上ずらせた。興奮を隠しきれず、口元に手を当てている。
シェリルはその竜巻に向かって、もう一つ術式を展開した。
赤とオレンジの糸のようなものが宙に走り、渦に絡みついていく。熱を帯びた光の筋が、竜巻の外周に螺旋を描きながら巻きついた。
「熱線の糸よ。これで対象を縛り上げる。風と絡めず、熱線だけで放つこともできるわ」
「な、なんですかそれ……!」
シェリルは糸を一本、ミレイの目の前に呼び出した。赤い光の筋が、ミレイの燃えるような髪色と重なって、鮮やかな対比を作った。
「あなたの赤髪に、よく映えるわ」
「――え」
「熱線を使う術師は少ないの。皆が思っている以上に応用の利く術式なのだけれど。風と熱線、両方を扱える者はまず見ない。あなただけの組み合わせになるわ」
淡々とした口調だったが、そこには紛れもない称賛が込められていた。ミレイは自分の周りに漂う熱線の残光を見つめ、瞳を輝かせた。
「やば、めちゃくちゃ綺麗……!」
興奮のあまり、両手を握りしめてはしゃぐ。
「絶対、ものにしてみせます!」
ミレイは、シェリルの姿を目に焼き付けるようにして見つめた。術式の精度、発想の柔軟さ、そして何より、目の前の人間の可能性を的確に見抜くその眼差し。術師としてのシェリルに、この瞬間、強い憧れを抱いていた。
同時に、先ほどの喫茶室での一幕が脳裏をよぎった。あんな言葉を、よりにもよってこの人に浴びせた者たちがいたのだ。ミレイは今更ながら、その愚かさに小さく哀れみすら覚えた。
一方でシェリルもまた、静かに思いを巡らせていた。
(アノリス以外の術師に稽古をつけたのは……あったかしら)
記憶を辿ってみても、すぐには思い出せなかった。




