一 急接近
夏の気配が濃くなり始めた朝、リーヴィン王宮の中央広場には、まだ夜の冷えが残っていた。石畳の窪みに溜まった水が、朝日を受けて光っている。
アノリスがその脇を通って角を曲がると、壁に背を預けたカイルがこちらに気づいて片手を上げた。
「よお」
ちょっと相談がある――と、カイルがアノリスを呼び出していた。
「どうしたのよ、私が何か相談に乗れることってあるの? そういえば就任式での表情が妙に硬かったわねぇ」
女性に囲まれてバツが悪そうだったカイルの姿を、即座にアノリスは思い出した。少しおちょくってみようと踏み込んでみたが、予想に反してカイルは何か歯切れが悪そうだった。「ちげーよ、そんなんじゃねぇから!」くらいの反応があるのかと思った。
カイルは頭の後ろを掻き、視線を泳がせる。まだ知り合ってから時間も経っていないが、こんな姿を見たことは無かった。
「なによ、改まって」
「……いや、その」
カイルは一度大きく息を吸い、それから勢いよく言った。
「エルナがさ、多分俺のこと好きなんだよ」
「は?」
アノリスは思わず声を上げた。
しかし就任式のエルナの視線の動きを思い出す。落ち着かない様子だったのは記憶に新しい。
「多分って何。自分で言っといて曖昧すぎるでしょ」
「いや、だって確信あるわけじゃねえし! でもなんつーか、目が合った時の感じとか、たまに顔赤くしてるのとか、それっぽいだろ」
カイルは唸るように腕を組んだ。いつもは豪快な語り口だが、こういう話になると急に言葉に覇気がなくなる。
「なんかきっかけがあったの」
「……まあな」
カイルは決まり悪そうに頭を掻いてから、ぽつぽつと話し始めた。
試験直後、食堂でのことだった。
エルナは補助魔法部門の仲間たちと昼食を囲んでいた。
「本当にお疲れ様」
「あの試合、見てた人みんな驚いてたよ」
口々にかけられる言葉に、エルナは「耐えただけだから」と苦笑した。
そこへ、別の卓から声が飛んだ。攻撃魔法部門の女子数名だった。
「特別ルールで合格したんでしょ? カイルさんの相手だからって、時間短縮してもらえるなんて」
「いい身分よね。普通に戦ったら三十分なんてとても耐えられないでしょ?」
くすくすと笑い声が続く。エルナの手が止まった。何か言い返そうにも、言葉が喉の奥で止まる。事実として、あの特別ルールがなければ結果は違っていたかもしれない。そう思うと、余計に何も言えなくなった。
その時、椅子の脚が床を擦る音がした。
「今、なんつった? もう一回言ってみろ」
食堂の空気が、一瞬で変わった。カイルが大股で女子たちの卓の前に立ちはだかっている。
「俺の本気を十五分受け続けたんだぞ。お前ら、俺の全力食らって五秒持つか? 持たねえだろ。優遇? ふざけんな。文句あるなら外出ろ、俺が直接教えてやる」
声は大きくなかった。だが、その分だけ重かった。カイルの性格は知られていたが、この剣幕には女子たちも顔を強張らせ、誰も言い返せなかった。
「……で、エルナは?」
「呆然としてたよ。でもその後、妙にこっち見てくることが増えて」
アノリスは思わず笑った。
「それ絶対好かれてるでしょ」
「だ、だからそれを今相談してんの!」
カイルはまたしても、唸るように腕を組み、そして大きく息を吐いた。
そして、アノリスの目を一瞬見たが、直ぐに視線を外す。
「今夜さ、お前の店行こうと思ってて」
「は、月華亭に?」
突然の話の飛躍に、アノリスから少し間抜けな声が漏れた。
「……いや、その」
カイルは更に増して歯切れが悪くなり、視線を明後日の方向に泳がせた。何か言いかけては口をつぐみ、また開く。それを二度ほど繰り返してから、ようやく絞り出すように言った。
「エルナと、今後もし……その、そういう流れになった時にさ。俺、情けねえ話、そっち方面は全然経験なくて」
「……え」
「今更エルナの前で恥かきたくねえっつーか。だから、今のうちに――わ、分かるだろ」
カイルは耳まで赤くしながら、それでも意地でも視線を上げようとしなかった。豪快で物怖じしない男が、こんなにも歯切れ悪く、恥ずかしそうに言葉を選んでいる。アノリスはそれだけで、この男がどれだけ本気でエルナに向き合おうとしているのか分かった気がした。
「……そういうことか」
「笑うなよ」
「笑ってないって。でも告白もまだでしょ」
笑いを堪えるのに必死だっただけで、実際には笑っていなかった。少なくとも、口には出さなかった。
「別にお前でもいいんだけどな!」
最後だけ妙に大きな声で、カイルは軽口を叩いた。照れ隠しなのは丸わかりだった。
(――え、それって私も少しはいい女ってこと?)
一瞬そんな考えが頭をよぎって、アノリスは内心で少しだけ機嫌が良くなった。もっとも、それ以上の意味はない。男を作れば受付には立てなくなる。今の自分に、そんな予定はなかった。
アノリスは笑いながら肩をすくめた。
「私でもいいけど、もっと上手い女性の方がいいでしょ。指名料の元は取りなよ」
カイルは「だよなあ」と苦笑いして、片手を振りながら踵を返した。
同日の夕刻、月華亭がいつも通り開店してから少し経った頃合いだった。
「いらっしゃいませ」
顔を上げたアノリスの視界に、見覚えのある男が映った。カイルだった。
「……お前、その恰好」
カイルが言葉を詰まらせた。就任式の時、アノリスは薄ピンクのドレスを着ていた。今日は胸元の開いた水色のドレスだった。ホール用の一着で、月華亭の受付に立つ時の正装だった。
「ようこそお越しくださいました」
アノリスは営業用の声と表情に切り替えて一礼した。仕事中は知人であろうと客は客だ。予約なしの来店らしく、本日の出勤者リストに目を通しながら、丁寧な口調で尋ねる。
「本日はどのようなお席をご希望でしょうか」
「あ、ああ……その、こういう店は初めてで。優しく、手ほどきしてくれるような人がいいんだけど」
「でしたら、フィーナがよろしいかと存じます。初めてのお客様の緊張をほぐすのが、たいへんお上手な者でございます」
「そ、そうか」
「まずはホールでお一杯召し上がりながら、少しお寛ぎください」
アノリスは慣れた所作でカイルをホールへ案内した。奥の卓に着かせ、酒を運ばせる。落ち着かない様子で杯を傾けるカイルの隣に、少しの間だけ腰を下ろした。
「緊張してる?」
声を落として尋ねる。仕事の間合いを保ったまま、それでも素の口調が滲んだ。
「するに決まってんだろ……」
「大丈夫。フィーナ、本当に評判いいから」
そこへ、衣擦れの音とともにフィーナが現れた。淡い橙色の衣装を纏い、柔らかな微笑みを浮かべ、しっとりとした色香が客の心を解きほぐす。
カイルが固まった。
目を見開いたまま、口元を手で覆っている。頬どころか耳まで赤くなっていた。
「……鼻血出そうなんだけど」
小さく呟いた声を、アノリスは聞き逃さなかった。堪えきれず、口の端が上がりそうになるのを寸前で抑える。
「――がんばれっ」
小声でそれだけ囁くと、すぐに立ち上がっていつもの受付カウンターへ向かった。フィーナがカイルの隣に座り何事か優しく話しかけている。カイルはぎこちなく笑いながら杯を重ね、しばらくして二人で一杯飲み干すと、連れ立って奥の個室へと消えていった。
その背中を見送りながら、アノリスは小さく息をついた。からかう気にはならなかった。エルナのことも、今夜のことも、カイルなりに真剣に向き合おうとしているのが分かる。それなら、素直に応援したい気持ちの方が勝った。
アノリスは、受付に戻って一呼吸置いたところで声をかけられた。
「――こんばんは」
静かな声。アノリスは振り返り、営業用の表情に戻った。
「いらっしゃいませ」
立っていたのはエインだった。年の頃は四十過ぎ、上級術師特有の落ち着いた身なりをしている。腕には、隠しもしない上級術師の腕章。
ドルッセ、という姓は、あの日から頭に残っていた。試験後の飲み会で、ソニアに義父がいることを聞いた。上級術師で、ドルッセ姓。それが目の前の男と結びつくのに、時間はかからなかった。
だがエインの側は、アノリスが誰なのか分かっていない様子だった。前に一度案内しているはずなのに、その顔が記憶に残っている気配はまるでなかった。
「本日はミラさんのお約束で」
既に予約が入っているらしい。アノリスは名簿を確認し、丁重に頷いた。
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
案内する足取りは崩さなかったが、内心では小さな違和感が広がっていた。この店で女との夜を買うというのは、決して安い遊びではない。それも三大月女の一角ともなれば、頻度が重なるほど懐に大きな穴が開くはずだった。
それに――エインの足の運び、待合での座り方、酒の頼み方。どれもが妙にこなれていた。まるでこの手の店に何年も通い慣れているような、堂に入った様子だった。
(月華亭に来る前も、どこか別の店に入り浸ってたのかしら)
前に来た時は、それで流せた。上級術師の給料も悪くはないだろうし、たまにはそういうこともある。
だが、あれからまだ半月と経っていない。しかも二度とも、ミラの指名だった。
何かが、少しずつ引っかかり始めている。




