十二 エーテラリスと龍~病的関数と魔法
十五時、王宮の一室に設えられた講堂には、既に多くの人が詰めかけていた。
黒いドレスのまま、シェリルは講壇の裏で静かに資料に目を通していた。
国王御前での講義という、これまでにない規模の場だった。聴衆には国王をはじめ、貴族や官僚、そして師団の術師たちが名を連ねている。
(――専門的な話に、深入りしすぎるべきではないわね)
これまでの講義とは聴衆の層がまるで違う。数式そのものよりも、その奥にある発想の面白さを伝えることの方が、この場には相応しい。
資料を閉じ、シェリルは静かに講壇へと足を進めた。
「――特任研究師、シェリル・アリアシストです。本日は『病的関数と魔法』と題して、お話しさせていただきます」
一礼すると、講堂は静まり返った。
「まず、一本の線を、想像してください」
シェリルは、傍らに用意された黒板に、すっと一本の線を引いた。
「これは、線です。事実、その通りです。……ですが、同時に、これは点の集まりでもあります」
聴衆の間に、小さなざわめきが起きた。当然の反応だった。
「一本の線の上には、無数の点が、隙間なく並んでいます。今、私たちは、それを一本の線として認識していますが、視点を変えればこれは、無限の点の集合体でもあるのです」
その導入に、国王も、興味深そうに身を乗り出していた。
「この、『点として見る』という視点を持つと、面白い現象が見えてきます」
シェリルは、黒板にもう一つ、簡単な図を描いた。
「例えば、こういう関数を考えてみましょう。ある数が、有理数――つまり、分数の形で表せる数であれば、値は一。無理数――分数の形で表せない数であれば、値はゼロ。この二つの値しか取りません」
シェリルは黒板に座標平面を書いた。縦軸が一、そしてゼロの二か所に線を横に引く。
「二本線を引きましたが、実際は一とゼロの間を点は休みなく飛び移り続けます。つまり二本の線で書きましたが、この線に見えるものは至る所で不連続です。繋がっていません」
一部の聴衆から声が上がった。「繋がっているように見えて繋がっていないのか!?」
シェリルは答えた。
「はい。この関数が発表された時、当時の学会はこれを『病的な関数』と呼びました。関数とは滑らかに繋がっているものだ、という直感を真正面から裏切っていたからです。認めたくない、という感情に近いものだったのでしょう」
列席の中ほどで、古参の上級術師が身を乗り出した。「シェリル殿。それは術式として、何の役に立つのですか」
「役に立つかを最初に問われるのは、正しい態度だと思います」とシェリルは答えた。「この関数を術式として展開しようとすると、破綻します。速さも、精度も、防御の厚みも、いつもの道具では測れません。触れた瞬間に暴れる術式――もしそういうものに出会ったなら、それはこの関数と同じ構造を持っているかもしれません」
講堂が、静かになった。
「もう一つ、お見せします」
シェリルは黒板の線を残したまま、その下に新しい線を引いた。今度は平らな部分を長く残しながら、その合間で少しずつ段を上げていく描き方だった。
「これは、先ほどとは逆の性質を持つ関数です。ほとんど至るところで変化がありません。傾きを測れば、ほぼ全ての場所でゼロです。動いていない、と言ってもいい……けれど、この関数は端から端まで、値がゼロから一へと確かに変わっています」
貴族の一人が、思わず声を漏らした。「動いていないのに、増えている……?」
「変化は、無限に小さく切り分けられた、ごくわずかな場所だけに集中しています。全体から見れば、無視できるほど小さな場所です。ですが、その無視できるはずの場所に、この関数の変化のすべてが押し込まれています」
白墨の粉を指先で払ってから、シェリルは続けた。
「これを算術の世界では、カントールの階段、あるいは悪魔の階段と呼びます」
国王が、初めて口を開いた。「悪魔とは、また物騒な名だ」
「私が名付けたのではありません」シェリルは即座に答えた。「ただ、この名には理由があると思っています。ほとんど何も起きていないように見える場所に、本質のすべてが隠れている。それに気づかず通り過ぎれば、術者は足元をすくわれます」
沈黙のあと、シェリルは黒板の隅に、最後の一本を描いた。細かく波打ち、どれだけ拡大してもその波が収まらない、奇妙な線だった。
「最後に一つだけ。これとはまったく違う顔をした関数も存在します。これは人間の手で書くとどうしても限界があります」として、その関数のグラフを横に三つ並べた。左から順に、同じ図を少しずつ拡大したものだった。だが三つとも、まったく同じ細かさの波が、同じように刻まれている。
「――繋がってはいますが、どの一点を取っても、傾きというものが存在しません。触れられるのに、掴めない」
また別の聴衆が声を上げた。「これはワイエルシュトラス関数では無いですか?」
それを聞き、黒いドレスを纏ったシェリルがピクっと反応する。
「お詳しいのですね、その通りです。直感的に言えば、どこを取っても尖っている関数です。そしてここからが今回のお話で非常に大切な部分――この、一見意味を持たないように見える病的関数の議論と魔法について、研究する理由、そして価値の部分になります」
聴衆の表情が締まる。
「術式の威力、また消費する魔力は微分係数で決まります。微分係数というのは『瞬間の変化の激しさ』だと思ってください。そしてこの関数はどこを取っても微分できない、つまり瞬間の変化を取り出せません。したがって威力も、消費する魔力も定まらない。術式として炸裂しない上に術者に何が起こるかも事前に予測できません」
白墨を置いて、シェリルは聴衆の正面に向き合った。
「このような『威力が定まらない術式』は、今のところ我々が使用する機会は有りません。しかし我々は未知の現象としてこの病的関数に遭遇する可能性があります。具体的に言いますと、龍と呼ばれる存在と対峙したとき、何度か、この現象だと思われるものに包まれたことがあります」
講堂の空気が変わった。
「何度か……」誰かが小さく繰り返した。「今、何度かと仰ったか」
シェリルは頷いた。「ええ。エレシアに入る以前も含めれば、数度になります。直近では、ドルヴェナへ向かう道中、高地の湖で白銀の龍と対峙しました」
講堂が、静まり返った。
今度はざわめきすら起きなかった。それより先に空気そのものが凍りついていた。龍という存在と一度でも対峙すれば語り草になるところを、この若い女は数度と口にした。しかも、恐れる様子も、誇る様子もなく、まるで天候の話でもするような口ぶりだった。
視線が一斉に、末席近くのラフィスとアノリスへ向かった。二人とも、その場にいたことは間違いなさそうだった。
「私が龍と戦うたびに、術式の解析がある一線から先で崩れました。原因は長いこと分かりませんでしたが、先日のドルヴェナへ向かう際に龍と遭遇した時、恐らくあの鱗や、その周囲に展開されている術場には、この関数の特性が潜んでいるのではないかと私は考えました。そして、強い龍になる程にその傾向は強くなる。何も攻撃が通らなくなる」
そしてシェリルはラフィス、アノリスの方に一瞬手を向けた。
「私が対峙したのは、龍がもたらす現象そのものです。速さも、精度も、防御の理も、いつもの道具では測れないことがあります。ですが、龍と対峙する度その場を生き延び、時に龍を打ち倒すところまで辿り着けたのは、私一人の力ではありません。私はこの国に入るまでの八年間、そのうち新将軍とも五年、南から旅をしてまいりました。その場にはいつも、今日この式典で任命された将軍と、上級術師の首席も共におりました」
ラフィスは表情を変えなかった。ただ、わずかに背筋を伸ばした。アノリスは居心地悪そうに、それでいてどこか誇らしげに、視線を受け止めていた。
列席の中ほどで、副団長ベルナルトが青ざめていた。何度もこの若い術師の報告書を読んできたはずだったが、こうして本人の口から淡々と語られると、これまでの書類仕事の意味が違って見えてくるようだった。
その隣で、師団長アルヴァンは表情を変えなかった。ただ小さく息をついて、まあそんなところだろう、というように腕を組み直した。
「これらの現象を前にしたとき、術者にできることは限られています。ですが、記録し、名付け、学ぶことはできます。次に同じものに出会ったとき、たとえ勝てなくとも、何が起きているかの見当だけはつけられるように」
シェリルにしては少々珍しく、言葉に気迫が込められていた。彼女もそれに気がついたのか、一呼吸おいて調子を整える。
「本日お見せしたのは、いずれも私が見出したものではありません。かつて名もなき算術家たちが見出し、後の世に名を残した理論です。私はそれを魔法という現象の中に見出し直したにすぎません。測れないものは、恐ろしいものではありません。まだ、測り方が見つかっていないだけです」
一礼。
講堂は、しばらく物音一つしなかった。
沈黙を破ったのは、国王だった。
「面白い話であった」
ゆっくりと、玉座から立ち上がった。
「龍と対峙した三名は、それぞれに異なる道を歩んできた者たちだ」国王は講堂を見渡しながら言った。「一人は、剣を極め、祖国を失いながらもこの国に将としての誠を捧げた。一人は、この極めて優秀な姉を追いかけ、この場にいる誰よりも若くして上級の座を掴んだ。そして一人は――誰も踏み込んだことのない場所に、算術という灯を持って歩み入った。エレシアは、長く同じ土の上に立ち続けてきた国だ。だが、同じ場所に立ち続けることと、変わらぬことは違う」
国王は一度、シェリルたちの方へ視線を向けた。
「今日この場に集った者たちの働きが、この国の明日をどう変えていくか――それを見届けるのが、余の役目であろう。宴の用意ができている。存分に楽しむがよい」
講堂に、拍手と歓声が広がった。楽団が音を鳴らし始め、張り詰めていた空気が一気にほどけていく。
シェリルは壇上から降りながら、小さく息をついた。黒板の文字は、まだ消えずにそこに残っていた。




