三 静魔七日(しじまのなぬか)
「……特級術師、というと」
アルヴァンはシェリルの目を覗き込むように見た。
「はい」
「あの、静魔七日を越えたということか」
その声には、それまでの気安さとは違う響きがあった。シェリルは静かに頷いた。
アルヴァンは何も言わなかった。頬杖をついていた手が、いつのまにか机の上に下りている。その手が、わずかに震えていた。
特級試験は三段階ある。
一つ目は測魂。極限まで強く、淀みのない魔力を纏ったまま、百歩ほどの廊下をゆっくりと歩き続ける。魔力の揺れが許容量を越えた瞬間、術者は廊下から吹き飛ばされる。魔力が残っていれば何度でもやり直せるが、一度で成らなければ、次に纏うだけの魔力はもう残らない。
二つ目は測感。三十六時間、どこから飛んでくるかもわからない一撃必殺の魔法を、感知して躱すか防ぐか。
「測感は、失敗すれば死ぬ」アルヴァンは低く言った。「躱せなければ、それで終わりだ。不合格という判定すら要らん」
「はい」
シェリルの返事は、天気の話をするのと同じ調子だった。
アルヴァンはそこに、この娘の異常さの本体を見た気がした。恐ろしいのは、三十六時間死線に晒されたことではない。それを八年経った今、こうして平坦に肯定できることの方だ。
そして三つ目が、静魔七日である。
「音を吸う無響の壁と、魔力を完全に遮断する術式で覆われた部屋がある。あそこに、七日間籠もる。断食、断水、不眠、不臥」アルヴァンは、台本でもあるかのように諳んじた。「椅子もない、ただの床に座り続けたまま、コルトラン大陸における特級術師の始祖――ノルッテン二世がしたためた呪文『逢魔八編』を、唱え続ける」
「聞こえるのは、自分の声と心臓の音だけです」シェリルが続けた。「並の者なら半刻で発狂すると言われていますが、あれは正確ではありませんね。時間の感覚は二日目には無くなります。発狂するのは、時間が計れなくなった後です」
アルヴァンの声が、さらに低くなった。
「与えられるのは、蝋燭十四本のみだ。一本で半日。消えれば、自分の手で新しい蝋燭を立て、自分の手で火をつける」
「次の蝋燭を自力で灯せなければ、その術者の命数もろとも尽きている――そういう仕組みです」
そこでアルヴァンは、身を乗り出した。興味が頂点に達したような素振りだった。
「――蝋燭は、点けられたのか」
シェリルは、すぐには答えなかった。
答えるより先に、自分の右手を目の高さまで持ち上げていた。指を一本ずつ、確かめるようにゆっくりと折り曲げる。まるで、その動作がまだ自分にできるのかを確認しているかのようだった。
「六日目の二本目が、危うかったです」
声はいつも通りだった。
「火が点かなかったのではありません。指が動かなかったのでもない。……動かし方を、忘れていました」
「忘れた?」
「はい。手のひらに蝋燭がある。それはわかる。火口もある。それもわかる。ですが、その二つをどうすれば火になるのかが、どうしても繋がらなかった。三日目までは考えなくてもできていたことが、六日目には手順として思い出さなければできなくなっていた」
シェリルは持ち上げた手を、ゆっくりと膝の上に下ろした。
「何度か試して、駄目でした。手が滑るのではなく、そもそも何をどう滑らせればいいのかがわからない。……あれは、恐ろしいというより、不思議でした。恐怖は、もう四日目に置いてきていましたので」
アルヴァンは息を呑んだ。
「結局、どうやって点けた」
「思い出したのではありません」シェリルは首を振った。「暗くなったのです。前の蝋燭が完全に尽きて、部屋が真っ暗になった。そうしたら、身体が勝手に動いていました。……頭が忘れていたことを、指が覚えていた。それだけです」
「――偶然ではないか、それは」
「事実、偶然です」
シェリルは即答した。
「あそこで死んだ人の多くは、私より弱かったわけではないと思います。ただ、指が覚えていなかった。それだけの差です」
部屋の空気が、一段と重くなった。
「最後の一本も、同じでした」シェリルは続けた。「十四本目が尽きた時、私は自分がまだ座っているのかどうか、わからなくなっていました。座っている感覚がないのに、倒れてもいない。……あの部屋は真っ暗で無音ですから、自分の輪郭を教えてくれるものが何もない。目を開けても閉じても同じで、そのうち、開けているのか閉じているのかもわからなくなります」
「……それで、どうやって扉まで」
「這いました」
シェリルは淡々と言った。
「立てませんでしたので。壁を探して、壁伝いに這って、扉を探しました。ただ、あの部屋は円形ではありません。角があるので、四つ角を数えれば、いずれ扉に着く。……そう考えられただけの余力が、たまたま残っていました」
「たまたま」
「はい。事実、たまたまです」
アルヴァンは、それ以上何も言えなかった。
しばらくして、絞り出すように口を開く。
「――先代の特級は、二十四年前に高齢で引退された。私がまだ五十手前くらいの時だったか。……そして、その方も、もう亡くなられたと聞いている」
間を置き、続けた。
「その後、大陸魔法協会の名簿に、特級の名が載らなかったわけではない。載ってはいた。だが誰も、その人物に会ったことがない。私はな、正直なところ――あれは書類の上にだけ在る位だと思っていた。制度として残っているだけで、中身のない、空の器だと」
アルヴァンはシェリルを見た。
「それが、私の目の前に、居る」
「……事実です」
「……そうか」
アルヴァンはしばらく、シェリルの顔をまじまじと見つめた。まるで、初めてその存在を認識し直しているかのようだった。
「団の中でも、特級試験の内容を知る者はほとんどいない」アルヴァンは低く言った。「上級γまで辿り着いた者には、いずれ伝えられる話ではある。だが、それも――特級に興味を示した者にだけ、な。多くはそこで満足して、上を目指そうとはしない」
「……あなたも、興味を示された?」
「若い頃はな」アルヴァンは苦く笑った。「だから知っている。ベルナルトは、恐らく詳しくは知らんはずだ。あいつは上を望むより、今の場所を守ることに向いている男だからな」
「――伺っても?」
「私が上級γに到達したのは、二十六の時だった」アルヴァンはぽつりと語り始めた。「それから数年後、共に上級試験を潜り抜けた仲間が、特級を受けると言い出した。優秀な男でな。誰もが、当然受かると思っていた。私も、疑いすらしなかった」
シェリルは黙って続きを待った。
「だが、現実は違った」アルヴァンの拳が、机の上で微かに握られた。「測魂も、測感も、あの男は潜り抜けた。誰よりも力があった。だが、静魔七日で、命を落とした。静魔室の扉は、開かなかった」
シェリルは、静かに目を伏せた。
扉は、内側からしか開かない。その男は最後の暗闇の中で、壁を探せなかったのだ。あるいは、探し当てて、そこで力が尽きたのか。どちらであったにせよ、自分と彼を分けたものが実力でないことを、シェリルはもう知っていた。
「それ以来、私は上を見ることをやめた」アルヴァンは自嘲するように笑った。「この階級は、強さを競うためのものではない。そう思い知らされたからだ。上級γで十分だ、それ以上を望むのは分不相応だと、そう自分に言い聞かせて、四十年以上生きてきた」
そこで、アルヴァンは顔を上げ、シェリルを正面から見据えた。
「そして今、その七日間を――いや、三段階すべてを越えた者が、私の目の前にいる」
声に再び、そしてはっきりと熱が籠り始めた。
「それも、こんなうら若き女性だ。人はどこまで自分の存在と向き合えるのか――極限まで、いや、極限を越えたところまで向き合った者だけが、特級術師を名乗ることを許される。私はそう聞かされてきた。だが、実際にそれを成し遂げた人間と二人だけで話をしている。初めてのことだ」
「――あなたには、妹がいると聞いた」アルヴァンは唐突に言った。「アノリスといったか。あの、月華亭で働いているという」
「はい」
「明るい子だそうだな。快活で、周りに好かれている」
「……ええ、そうです」
「そんな妹がいながら」アルヴァンは目を細めた。「あなたは、命を落としてもおかしくない試験に、黙って挑んだ」
図星だった。シェリルは何も言わなかった。
「――とんでもなく、悪い子だ」
アルヴァンの声には、咎める響きはなかった。むしろ、どこか温かささえ滲んでいた。
「妹に心配をかけまいとして、一人で死地に足を踏み入れる。それを黙ってやり遂げる。……そして、とてつもなく、強い子でもある」
その言葉が、思いがけずシェリルの胸の奥に届いた。誰かにそう言われたのは、初めてだった。
シェリルは、少し声を抑えて言った。
「四日目を越えると、この世の境界が見えてきます。その線を越えないように意識したら死にます。連れて行かれます」
さらに続ける。
「自分の意思で線を越えると、不思議と連れて行かれないものです。蝋燭を自力で点けられるうちは『まだ来るな』と追い出される。その度に、薄れていく自分の存在に、また輪郭が与えられる。その繰り返しです」
初めて聴く話に、アルヴァンはその試験で命を落とした仲間のことを思い出して、シェリルから目を逸らした。
シェリルがひとしきり語り終えると、アルヴァンは急に我に返ったように、小さく咳払いをした。
「……すまんな、年甲斐もなく」
「いいえ」
アルヴァンは椅子の背もたれに寄りかかり、天井を仰いだ。しばらく沈黙が続いた。
「私はもう、歳だ」ぽつりと呟く。「そう長くはないんだろうな、この先も」
その言葉には、悲観よりも、静かな諦観があった。
「――あなたのような方と話ができて、本当に良かった」
シェリルは、その言葉をしばらく黙って受け止めていた。何かを返すべきだと思ったが、適切な言葉がすぐには見つからなかった。
「……私も」
やっとのことで、それだけを口にした。柄にもなく、感情が言葉に追いつかない感覚があった。二十代の術師と、七十を越えた老術師。年齢も立場も違う二人が、数字では測れない何かを通して、確かに通じ合っていた。
アルヴァンは満足そうに頷き、それから少し照れたように咳払いをした。
「さて。長話が過ぎたな。講義の日程が決まったら、また連絡させよう」
「はい」
シェリルは一礼して部屋を辞した。廊下を歩きながら、先ほどの会話の重みが、まだ胸の奥に残っていた。




