二 存在と迷い
ラフィスが騎士団本部の応接室で待っていると、ほどなくバレンツが姿を見せた。
「おぉラフィス。戻ったか」
帰って来いとは言わない、と言い切った男が、今は隠しもせずに顔を綻ばせている。
「お久しぶりです、バレンツ副団長」
一礼するラフィスを、バレンツはしばらく黙って見つめた。それから、感心したように小さく頷く。
「一段と、凛々しくなったな」
「そう、でしょうか」
褒められている、とわかった。だが素直に受け取れなかった。凛々しく見えるのだとしたら、それはただ、迷いを外に出さない術を覚えただけのことではないのか。
「ああ。国境の反乱の頃より、腹の据わり方が違う」バレンツは腕を組み、椅子を勧めながら言った。「それで、今後はどうする気だ。客員としての小隊長職も、そろそろ区切りをつけるべき時期だとは思うが」
問われて、ラフィスはすぐには答えなかった。
「……正直、迷っています」
「迷い?」
ラフィスらしくないと、バレンツは少しラフィスの目を覗き込むように見た。
「私はカリティスディアの王女です。これは、どうあっても変わらない事実です」
いつもの彼女より声が更に低い。バレンツは黙って続きを待った。
「ただ――」ラフィスは腰の紋章剣に目を落とした。「私の国の紋章を刻んだ剣を、エレシアの地で振り続けることに、強い迷いを感じています。滅んだ国の王女が、滅んだ国の剣で、他国のために戦う。それが正しいことなのか、いまだにわかりません」
バレンツは間髪を容れずに言った。
「それでも、その剣を手放す気はないのだろう」
図星だった。ラフィスは小さく息を吐く。
「はい。この剣でなければ、自分が自分でなくなる気がして……」
言葉にしてみると、ひどく矛盾している自覚があった。振るうことに迷いながら、手放すことにはそれ以上の抵抗がある。答えの出ない堂々巡りを、バレンツはしばらく静かに聞いていた。
「なるほどな」
やがてバレンツは腕を組み直し、何かを決めたように立ち上がった。
「ラフィス。お前、ディルゴ団長に会ってみる気はあるか」
「団長に、ですか。そういえば副団長とはこうして今もお話していますが……団長というのはお会いしたことがない」
バレンツはラフィスを案内しながら、ディルゴについて簡単に語った。
「団長は内務省の出身でな。戦のことはからきしだ。剣も槍も、まともに扱えない。現場に出ることも、まずない」
「……それで、騎士団長が務まるのですか」
「務まるさ。あの人の武器は別のところにある」バレンツは苦笑した。「人心を掴む力と、組織を動かす手腕だ。それだけで団の上に立てるだけの実績を作ってきた。俺が保証する」
剣を握らない者が、剣を握る者たちの頂に立つ。ラフィスにはうまく像を結べなかった。自分は、剣以外の何かで人の上に立つ方法を、一つも知らない。
団長の執務室の前に着くと、バレンツが軽く扉を叩いた。
「入れ」
命令口調の割には軽い調子の声が返ってくる。バレンツが扉を開け、ラフィスを促した。
一礼して、ラフィスは部屋に足を踏み入れた。
執務室の主は、椅子から立ち上がりもせず、興味深そうにラフィスを眺めていた。三十代半ばか、それより少し若いくらいだろうか。騎士団長という肩書きにはそぐわない、飄々とした空気を纏っている。
「あなたが、ラフィス殿下――いや」ディルゴは軽く手を振って言い直した。「小隊長、と呼んだ方がいいんでしたな。噂には聞いていましたが」
「お初にお目にかかります。ラフィス・ミラセシルです」
「さぞかしお強い方だと聞いていましたが」ディルゴは値踏みするような、それでいて悪意のない目でラフィスを見た。「それ以上に、気品と育ちの良さが目につきますな。……そのペンダント、だいぶ上等なものだ」
不意を突かれ、ラフィスは無意識に首元に触れかけた手を止めた。
「服もそうだ。その辺のお嬢さんが着ているものとは、生地の織り方からして違う。職人の手によるものでしょう」
「……よくお分かりになりますね」
感心と警戒が半々だった。この男は、剣ではなく人を見る目で武装している。バレンツの言った「別のところにある武器」とは、これのことか。
「これでも、王宮の人間や商人と長く付き合っていますからね。目が肥えるんですよ、いやでも」ディルゴは軽く笑った。
その笑い方には、含みも威圧もなかった。むしろ拍子抜けするほど気安い。バレンツが「戦のことはからきし」と評していたのも頷ける。この男には、剣を交える者特有の張り詰めた気配が一切ない。
促され、ラフィスは改めて口を開いた。
「……この国で剣を振り続けることに、迷いがあります」
言葉を重ねながら、ラフィスは自分の声が、バレンツに話した時よりもさらに硬くなっているのを感じた。カリティスディアの紋章を負った身で、他国の剣として立つことの意味。滅んだ王家の最後の一人として、この先何を背負って生きていくべきなのか。話すたびに、答えの出ない渦の中に引き戻されていくようだった。
ディルゴは黙って最後まで聞いていた。急かすことも、遮ることもしなかった。ただ、ラフィスの言葉が途切れた後も、しばらく静かなままだった。
「――なるほど」
ようやくそう言うと、ディルゴは椅子に深く座り直した。
「一つ、提案がある」
「提案、ですか」
迷いを打ち明けた相手から返ってきたのが、助言でも慰めでもなく「提案」だったことに、ラフィスは戸惑った。
「二日後、我が騎士団と取引のある武器商人が王宮に来る。時々、思いがけない珍しい品を持ってくる男でしてね」
ラフィスは眉をひそめた。話の流れが読めない。
「そこで、自分に相応しいと思う一本を選んでみればいい」
「――剣を、選べと?」
「今のあなたの手にある剣が、あなたにとって重すぎるというなら、な」ディルゴの声音が、初めてわずかに真剣味を帯びた。「もし気に入るものが見つからなければ、あなたはこれからも迷い続けることになるでしょう。……ただ、我が軍に品を卸すような商人だ。質については、私が保証しますよ」
軽い口ぶりの奥に、思いのほか重い提案が置かれていた。ラフィスは即答できなかった。今の紋章剣を手放すという発想そのものが、これまで一度も真剣に検討したことのないものだった。
(この剣でなければ、自分ではない気がする――そう思っていたはずなのに)
なのに、ディルゴの言葉は、その確信にわずかな亀裂を入れていた。もし本当に相応しい一本が見つかったなら。もしその剣を握った時、迷いが晴れるのだとしたら――それは、紋章剣にしがみつくことよりも、よほど自分の答えに近いのではないか。
「……考えさせてください」
やっとのことで絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
ディルゴは満足そうに頷いた。
「それでいい。急かす話じゃない」
魔法師団本部、団長執務室。扉をくぐると、机の向こうに座る老人がひょいと顔を上げた。
白髪を無造作に後ろで束ね、思ったより気安い雰囲気の人物だった。上級γ、七十二歳と聞いていたが、堅苦しさはあまり感じられない。
「おお、来たか来たか。噂の『エーテラリス』殿だな」
「シェリル・アリアシストです」
殿、という呼び方に引っかかった。上級γの師団長が、二十二の術師にそう呼びかける理由は一つしかない。位だ。
「まぁ、以前一度会っているが改めて、アルヴァンだ。まあ座ってくれ」
促されるまま、シェリルは対面の椅子に腰を下ろした。アルヴァンは頬杖をついて、興味深そうにシェリルを眺めていたが、その視線の奥に、シェリル自身少し戸惑うような何かがあった。単なる好奇心とは違う、どこか慎重な色だった。
(――畏まっている、というほどではないけれど)
理由はすぐに思い当たった。特級という位がどういうものか、この人物ほど正確に理解している者はエレシアの魔法師団にそう多くないはずだ。特級試験を潜り抜けた者がどういう存在か、上級γという長い経験を積んだ術師だからこそ、感覚として分かっているのだろう。
「魔法算術論の中級編、読ませてもらった」アルヴァンが口を開いた。「三角関数を戦闘術式に持ち込む発想は、面白い。……いや、正直に言えば、初めて読んだ時は半信半疑だったがな」
「実戦で機能します。事実です」
「だろうな。お前がそう言うなら、そうなんだろうよ」
あっさりとした口調だった。だがその軽さは、投げやりでも追従でもない。この人は、私の言葉を検算する必要がないと知っている――そういう種類の受け入れだった。理解が足りずに信じているのではなく、理解が届いた上で信じている。その差は、シェリルにははっきりと分かった。
やがてアルヴァンは、机の引き出しから一通の封書を取り出した。だが、すぐには差し出さなかった。
「――お前宛てに、こういうものが届いている」
封蝋に刻まれた紋章に、シェリルは目を止めた。ヴォルテナ帝国の紋章だった。
「外交省を通って、うちに回ってきた。中身は見ていない」アルヴァンの声に、わずかな硬さが混じった。「私信だそうだが……帝国軍総帥からの書簡だ。まあ、そういう筋のものが届くとなると、こっちとしても知らん顔はできんでな」
言葉にはしていないが、その硬さの正体は明らかだった。エレシアの魔法師団を預かる者として、この書簡の存在を無視することはできない。
アルヴァンは封書をシェリルへ差し出した。シェリルはそれを受け取り、封を切って中身に目を通した。
数行読んで、緊張が解けていくのがわかった。ガルデウスの筆致は、外交的な駆け引きとも、探りを入れるような裏の意図とも無縁だった。ただ、シェリルの魔法算術論――特に不連続術式の分類法について、率直な疑問と称賛が綴られているだけだった。純粋に、一人の知識人として興味を持った者の文章だった。
読み終えると、シェリルは顔を上げた。
「よろしければ、団長にも目を通していただけますか。今、何を気にかけていらっしゃるか、事実として分かりますので」
「――いいのか」
「ええ。隠すようなものは書かれていませんでした」
シェリルは封書をアルヴァンへ差し出した。アルヴァンはわずかに目を見開いたが、受け取って目を通し始めた。しばらくして、短く息を吐く。
「……なるほどな。学者としての、純粋な興味というわけか」
「そのようです」
「ふん」アルヴァンは封書をシェリルに返した。表情の硬さは幾分抜けていたが、まだ完全には消えていない。「政治的な含みがないとは言い切れんが……今の時点でお前を責める理由にはならんな」
「事実、私はまだ何も返信していません」
「それもそうか」アルヴァンは小さく笑った。「まあ、そう気負わんでくれ。今日呼んだのは、書簡の件だけじゃない。純粋に、顔を見ておきたかっただけだ」
「――畏れ多いことです」
社交辞令ではなかった。五十年以上を師団に捧げてきた人物が、時間を割いて自分の顔を見たがる。その事実の重みは、素直に受け取るべきものだと思った。
「畏れ多い、か」アルヴァンは苦笑した。「そりゃこっちの台詞だ、正直な話」
冗談とも本音ともつかない口調だったが、その奥に微かな真剣さがあることを、シェリルは見逃さなかった。
「講義の話も聞いている。よろしく頼む」
「こちらこそ」
短いやり取りだったが、シェリルの中で、この老将に対する評価が一つ、静かに定まった。柔らかい物腰の奥に、静かな敬意と、隠しきれない緊張がある。悪くない相手だと思った。
「さて、この老いぼれの話に、もう少し付き合ってほしい」
アルヴァンは少し前のめりになった。シェリルはそれを見て、老術師の目に少しの若さを覚えた。




