一 帰還、そして噂
リーヴィンからドルヴェナ岬へ、そして再びリーヴィンへ。
往路は龍や怪鳥ヴァルクロスに幾度となく襲われ、天候にも祟られる日が多かった。けれど復路は、拍子抜けするほど穏やかだった。
「拍子抜け、というのは正確じゃないわね。往路で相当悪いクジを引いたから、復路は引きが良かったと考えるのが自然だわ」
シェリルがそう言ったのは、リーヴィンの城門をくぐった直後のことだった。荷物を背負い直しながら、アノリスが「そういうこと言うから調子狂うんだよなぁ」と苦笑する。ラフィスは何も言わず、ただ空を見上げていた。灰色がかった雲の切れ間から、五月の光がわずかに差し込んでいる。
三人が旅立ったのは二月末。ドルヴェナ岬でのカルナヴィアを終えて、リーヴィンとの間を往復するだけで、休み休みとはいえ二ヶ月半を費やしたことになる。
別れを予感しながら最北を目指した行程は、結局何も変わらぬ三人のまま、王都へ収束していく。
「とりあえず、宿ね」
シェリルの提案に異論は出なかった。懐に困っているわけではない。むしろ四ヶ月半のリーヴィン滞在で貯め込んだ分は、道中ほとんど手つかずのまま残っている。今後リーヴィンに腰を据えるにしても、いきなり長期の住まいを構える段取りなど整っているはずもない。まずは慣れた宿で数日、身体を休める。それが三人の共通認識だった。
「部屋、一緒でいいよね?」
念を押すように、アノリスが言った。
「別に構わないけれど。……何、急に」
「いや、だって。旅の間はずっと一緒だったのに、リーヴィンに戻ったらまたバラバラじゃん。それがちょっと、寂しいなって」
わずかに視線を落としたアノリスに、シェリルは何も言わなかった。ただ、小さく頷いた。ラフィスも同じように頷き、それ以上は誰も何かを言わなかった。
「はぁー……歩いた歩いた。もう足の裏が足の裏じゃない気がする」
宿の部屋に荷を下ろすなり、アノリスは寝台に大の字で倒れ込んだ。ヴェントラーゼを壁に立てかける仕草にも、いつもの俊敏さはない。さすがに堪えているらしい。
「今日は休みなさい。明日以降もしばらく休みなさい」
「わかってるって。……でもさ」
むくりと起き上がったアノリスの目には、疲労とは別の光が灯っていた。
「月華亭、顔出してくる。ドレスも預けたままだし」
「今日?」
シェリルが片眉を上げる。ラフィスも窓の外を見ていた視線をこちらへ戻した。
「今日。だって、セレナさんにも何ヶ月も会ってなかったし」
止める間もなく、アノリスは軽い足取りで――足の裏がどうとか言っていたはずなのに――部屋を飛び出していった。残された二人は顔を見合わせ、どちらからともなく小さく息をついた。
「相変わらずね」
「ああ」
月華亭の扉をくぐった途端、アノリスの姿を認めたセレナが、接客中だったことも忘れて駆け寄ってきた。そのまま両腕を広げて、そっと包み込むように抱きしめる。
「……おかえりなさい。ずっと、心配してたんだから」
「ただいま、セレナさん」
抱きしめ返しながら、アノリスの声が少し震えた。旅の無事を確かめ合うように、二人分の涙がしばらくの間止まらなかった。ようやく身体を離した時、セレナは目元を拭いながらアノリスの顔をまじまじと見つめる。
「……なんか、一段と可愛くなったんじゃない?」
「はぁ? 何それ、今それ言う?」
アノリスが笑いながら涙を拭う。旅の間に張り詰めていたものが、この店の匂いとこの人の声で、ようやく緩んでいくのがわかった。
グラフェル堂の店先に、真新しい紙の匂いが漂っていた。中級編の校正刷りが積まれた作業机の脇で、編集者のドラウが顔を上げる。
「シェリル先生! お戻りでしたか」
「昨日ね。中級編の進み具合を見に来たわ」
刷り上がったばかりの紙束を手に取り、シェリルは目を通していく。三角関数の展開図に添えた説明文――誤りはない。念のため二度読み直したが、やはりない。
「順調そうね」
「ええ、印刷所も予定通りです。それより――」ドラウが少し声を落とした。「先生、師団の方がいらしてましたよ。入れ違いになってしまって」
「師団?」
「ライアス副団長です。先生の帰還を聞きつけて、様子を見に来られたとかで」
ドラウが言い終えるより早く、店の外に見覚えのある人影が立っていた。ベルナルト・ライアスその人だった。
「戻ったと聞いて来てみれば、本当にいた」
「ベルナルトさん。ちょうど良かったわ」
「無事の帰還、何よりだ」ベルナルトはいつもの調子で軽く笑う。「して――講義の件だが。中級編の刊行に合わせて、また受けてもらえるか?」
「もちろん。事実、それが本業だもの」シェリルは即答してから、わずかに間を置いた。「ただ、帰ったばかりで色々と落ち着いていないの。日程が定まり次第、伺うわ」
「構わない、こちらも急いではいない」ベルナルトは頷き、それから何気ない調子で付け加えた。「――ところで、アルヴァン団長がお前に会いたがっていたぞ」
「アルヴァン師団長が?」
「ああ。ここを発つ前に会っていたとは思うが、改めて噂の『エーテラリス』とやらに、もっと深く話を聞いてみたいそうだ。中級編の内容にも興味があるらしくてな」
シェリルは少し目を細めた。師団長アルヴァン・セルス――上級γ、七十二歳。二ヶ月半前、ここを発つ際に少し話をしたことがある。その時に、アノリスが上級試験を受けるということを密かに告げた。それだけのやり取りだった。
「会うわ」
「早いな」
「事実、興味があるもの」
ベルナルトは肩をすくめ、それから真顔に戻った。
「なら早速だが、近いうちに師団まで来てくれ。団長も忙しい人だ、都合を合わせよう」
「わかったわ」
シェリルは校正刷りを机に戻すと、窓の外に目をやった。リーヴィンの空は相変わらず灰色がかっていたが、五月の光は確かに強くなっている。旅の疲れが抜けきらないうちから、また新しい変数が一つ、式に加わろうとしていた。
宿の一室、ラフィスは一人、寝台の脇に立てかけた紋章剣を見つめていた。
柄に施された彫刻は、幼い頃から幾度となく目にしてきたものだ。カリティスディア王家の紋章――今はもう、その国自体が地図の上から消えている。
(この剣を、もう振るべきではない)
そう思い定めたのは、ドルヴェナ岬でのカルナヴィアの儀式が終わった時だった。国王と王妃だった両親の魂を送り届け、本当の別れを告げたあの瞬間から、この剣に対する気持ちが変わった。振れば必ず、過去を背負う。滅びた国の王女が、滅びた国の剣で戦う――その構図そのものが、もはや自分には重すぎるように思えた。
だが、と思う。
剣を置いて、何が残るのか。
二十年近く、自分を形づくっていたのは一本の線だった。国を失い、両親を失い、それでもいつか二人の魂を然るべき場所へ送り届ける。その一点さえあれば、他は何も要らなかった。孤児院の冷えた寝床でも、道場の土間でも、国境の戦場でも、その線だけを頼りに立っていられた。
果たしてしまった。
果たしたのだ。何ひとつ悔いはない。悔いはないはずなのに、胸の内側には、埋めようのない空洞だけが残っている。目的を失ったのではなく、目的が「終わった」。それは喜ぶべきことのはずなのに、終わった後に自分が何であるのかを、誰も教えてはくれなかった。
父上は言った。復讐は意味を為さない、と。
その言葉を守り通した。憎しみで剣を振ったことは一度もない。ならば――自分は何のために振ってきたのか。復讐でないなら、守るためか。しかし守るべき国はとうにない。義務でもない、命令でもない。
王女、と人は呼ぶ。
だが玉座も、民も、国境線すらない王女とは、いったい何を指す言葉なのか。名乗るたびに、実体のない称号を掲げているような、後ろめたさに似たものが胸を掠める。かといって「ラフィス・ミラセシル」という音だけを取り出してみても、そこには何も残らない気がした。血筋を引き算した後の自分に、名前以外の何が付いているのか、自分でもわからない。
剣を置けば王女ではなくなる。
剣を振れば、滅びた国を引きずり続ける。
どちらを選んでも、選び損ねたもう一方が背中に残る。
答えの出ない問いだった。剣を見つめたまま、しばらく身動きが取れなかった。
窓の外から、遠く街の喧騒が届く。アノリスは今日も月華亭だろう。シェリルも、出版社から魔法師団の方へ足を運んだだろうか。二人ともすでに、次の一歩を踏み出している。行き先を、自分で決めて。
(――私は、何をやっているんだ)
苦い笑いが漏れた。自室で剣一本を前に立ち尽くしている場合ではない。まだ騎士団に顔すら出していないのだ。帰還の報告もせずに、これでは示しがつかない。
紋章剣を鞘ごと腰に佩き、ラフィスは部屋を出た。答えが出たわけではない。ただ、佩かずに出るという選択が、今はまだできなかっただけだ。
騎士団本部の門に近づくと、見知らぬ顔の門衛が二人、槍を携えて立っていた。数百人はいる騎士団員全員の顔を、さすがに一人一人覚えているわけではない。誰であっても不思議はなかった。
だが、向こうはこちらをすぐに見分けたらしい。ラフィスが門に足を踏み入れるより早く、片方が背筋を伸ばし、声を上げた。
「ラフィス小隊長!」
呼び声に、もう一人の門衛もはっとしたように姿勢を正す。ラフィスは足を止め、わずかに目を見開いた。
「……私を知っているのか」
「もちろんです! 国境の反乱討伐の話は、団の中でも語り草になっていますから」
若い門衛の声には、緊張の中にも隠しきれない敬意がにじんでいた。ラフィスは一瞬言葉に詰まり、それから小さく息を吐いた。
「そうか」
短く応じただけだったが、内側では何かが静かに揺れていた。自分がいない間にも、この場所では時間が流れ、自分についての物語が積み重なっていたのだ。誰にも問われなかった答えを、この門の内側では、他人が勝手に決めてくれている。小隊長。それは称号でも血筋でもなく、ただ果たした働きの名だった。
「バレンツ副団長が、お戻りになったらすぐにでもお通しするようにと」
「バレンツ副団長が?」
「はい。もう何度も、まだかまだかと」
門衛が少しだけ笑った。ラフィスは頷き、門をくぐった。剣の重みが、腰に確かにある。まだ答えは出ていない。だが少なくとも今は、目の前の一歩を踏み出すしかなかった。




