十 下着と魔力
就任式を数日後に控えた、ある日のこと。
「――ドレスを用意しておけ」
ディルゴから唐突にそう告げられた時、ラフィスは正直、面食らった。将軍就任という重責を前に、まさかそんな指示を受けるとは思っていなかった。
だが、考えてみれば当然のことだった。国王臨席の就任式は、単なる儀礼の場ではない。華やかな衣装を纏った出席者たちが、こぞって顔を揃える場でもあるのだ。
それはシェリルとて同じことだった。ラフィスは高貴な血がそうさせるのか儀礼には華、という思考が少なからずあったが、シェリルはファッションについて全く知見が無い。今着ている紫のローブも姉妹で入った店でアノリスが選んだものだった。顔には出さないが、シェリルはそれを気に入って着ている。ドレスなんてものは選んだこともない。
「ドレス? やっぱり要るの?」
「まぁ、お前も師団でそこそこの立場になるんだし、そこは女の嗜みってことで一つ持っておくと良い。お前は自分で思っている以上に、結構いい女だぞ」
ということでラフィスとシェリルは連れ立って、リーヴィンの高級商店街へと足を運んでいた。
アノリスは同行していない。既に手持ちのドレスが三着あり、勝負の日はいつもの緑を選べば済む話だった。今頃は、共に試験を受けた仲間たちと飲んでいるはずだった。
店内に入ると、二人はそれぞれ別々の方向へと、自然に足を向けていった。
ラフィスの足は、迷うことなく高級ドレスコーナーへと吸い寄せられていく。並んだ品々を一通り眺め、幾つかを手に取っては、素材や仕立てを吟味していった。
やがて、一着に目が留まった。
深いロイヤルブルーの生地。身体の線を美しく強調する、大胆な裁断のドレスだった。
試着室で袖を通し、鏡の前に立つと、ラフィスは満足げに頷いた。
濃紺の長い髪と、ロイヤルブルーの生地。互いを引き立て合うようなその色合わせに、鏡の中の自分の姿は、普段の凛とした佇まいとはまた違う、華やいだ美しさを湛えていた。
「――これで、いい」
迷いのない即決だった。
一方、シェリルは、色とりどりのドレスを前に、途方に暮れていた。
(――色のことなんて、正直よくわからないわね)
紫を手に取ってみるが、すぐに戻す。
(――これじゃ、いつもと変わらないもの)
次に、金色のドレスに目をやる。
(――なんだか、品がない気がするわ)
銀色も試してみたが、背中の開き具合が、思っていた以上に大胆だった。
(――背中が開いていると落ち着かない)
消去法を繰り返し、最終的に手が止まったのは、黒いドレスだった。
「……結局、これかしら」
ラフィスが選んだものとは対照的に、ゆったりとした織りの、控えめな一着だった。
そこへ、選び終えたラフィスが合流した。
「ああ、それがいいと思う」
「そう?」
「何だかんだ言ってお前は、紫か黒が似合う」ラフィスは、値踏みするようにシェリルを眺めた。「――可愛いものだな」
「可愛い、って……」
アノリスから冗談のように言われたことはあっても、ラフィスからそんな反応が現れるとは……とシェリルは少し戸惑った。褒め言葉として受け取っているのかどうかも、判然としない反応だった。
ただ、少し時間が経つと、悪い気はしないと思えてきた。
「――ついでに」シェリルがふと言った。「下着も、選んでみようかしら」
「下着?」
「いつも、この辺りはアノリスに任せきりだったの。……たまには、自分で選ばないと」
その言葉に、ラフィスは軽く頷いた。二人はそのまま、下着売り場へと足を向けた。
あぁでもない、こぅでもない、と選んでいるうちに、いつしか売り場の奥、扇情的な意匠の品々が並ぶ一角にまで辿り着いていた。
アノリスの店で働く女たちが着ていそうな、際どい作りのものばかりが陳列されている。
「――え」
ラフィスは、その一角で足を止めているシェリルの姿に気づき、思わず覗き込んだ。
「シェリル。……こういうの、着るのか」
透けている生地、布面積が明らかに小さいもの、そこに宝石をあしらっているもの、隠すべきを隠していないもの、売り場の奥に行くほどに際どさは増していく。
「これね」
シェリルは、その中の一着を手に取った。ラフィスがそれを見た瞬間、思わず息を呑んだ。
素材と作りがあまりにも扇情的だった。一瞬、目を覆いたくなるような――激しい夜を想像させる代物だった。
「――シェ、シェリル。……男でも、できたか」
明らかにラフィスは狼狽えている。頬がわずかに赤らみ、視線をどこに置けばいいのかわからないといった様子で、あちこちに彷徨わせている。
この女と、男が隣り合っている姿が、どうしても像を結ばない。
対するシェリルは、いたって平然としていた。
「魔力の巡りが、良さそうだと思って」
「……はぁ?」
あまりの落差に、ラフィスはしばらく言葉を失った。
(――やっぱり、この女、ズレている)
真顔で告げるシェリルには、色恋の含みなど微塵もなかった。むしろ、このような煽情的な意匠のものでさえも純粋な機能性の観点から選んだつもりでいるらしい。
「――アノリスにも、見せようかしら」
シェリルは特に気負う様子もなく、そう呟いた。
「私にも、見せてくれ」
思わず口を突いて出た言葉に、ラフィスは自分でわずかに動揺した。
(いや、単純な興味だ。他意はない)
だが、口にしてから、その言い方の危うさに気づく。
(――これでは、まるで私がシェリルの男みたいではないか)
誰にともなく、内心で慌てて言い訳を並べながら、ラフィスは咳払いで誤魔化した。
最後に、ドレスだけを試着することにした。
シェリルが黒いドレスに袖を通すと、ラフィスはその生地を、指先で丁寧に確かめた。
「――これは」
「何?」
ラフィスは答えず、シェリルの周りを半周した。それから、少し離れて立ち止まる。
「動いてみろ」
「動く?」
「歩けばいい。二歩でいい」
言われるまま、シェリルが歩を進めた。裾が揺れ、窓からの光がその表面を滑っていく。
黒が、変わった。
正面から見ていた時は、光を吸い込むような沈んだ黒だった。だが角度が変わった瞬間、織り目に沿って青みがかった艶が走り、次の一歩でそれが消えて、今度は濃い灰の階調が浮かんだ。
「――やはりな」ラフィスは満足そうに頷いた。「これは、一色ではない」
「黒だと思っていたけれど」
「黒だ。だが、織り方で光の返り方を変えている。安いものは、どの角度から見ても同じ黒にしかならない」
ラフィスは再び生地の端を指でつまんだ。
「糸の撚りが均一だ。手を抜いた織りは、必ずどこかで光が濁る。……これは、濁らない」
シェリルの選んだドレスの素性の良さを、ラフィスの目は、しっかりと見抜いていた。
「そう? よくわからないけれど」
当のシェリルは、その価値を特に理解しないまま、涼しい顔で頷いていた。
買い物を終えた二人は、王宮の門をくぐった。
「――では、また」
「ああ」
ラフィスとシェリルは、それぞれの宿舎へと別れていった。
アノリスが戻ってくるまでには、まだ少し時間がありそうだった。シェリルは自室に戻ると、早速、買ったばかりの黒いドレスに袖を通した。
(――せっかくだもの。合格祝いに、これを着て迎えてあげましょう)
鏡の前で、軽く裾を整える。慣れない衣装に身を包んだ自分の姿を、少し不思議な気持ちで眺めた。
「ただいまー!」
しばらくして、アノリスが上機嫌な様子で部屋に飛び込んできた。だが、シェリルの姿を見た瞬間、その足がぴたりと止まった。
「――え」
しばし、言葉を失ったように立ち尽くす。
「姉さん、それ……自分で選んだの?」
「ええ」
「すっごく、いいよ! 似合ってる!」
アノリスは目を輝かせながら、シェリルの周りをぐるりと一周した。
「なんか……私のお店にいそうな雰囲気あるかも」アノリスはにやりと笑った。「今度、挨拶に行った時、みんなに紹介しちゃおうかな」
「それは、遠慮しておくわ」
シェリルは淡々と答えたが、その返しに、アノリスはますます楽しそうに笑った。
「最終試験の疲れ、流してくる!」
そう言い残すと、アノリスは軽い足取りで、共用の風呂場へと向かっていった。
しばらくして、湯上がりのアノリスが部屋に戻ってきた。
「ただいまっ」
声をかけたが、返事がない。部屋を見回しても、シェリルの姿が見当たらなかった。
(――もう寝ちゃったのかな)
そんなことを思いながら、アノリスは特に気にも留めず、髪を拭きながら寝台の方へ視線を向けた。
「――え」
その瞬間、動きが止まった。
寝台に横たわっていたのは、シェリルだった。だが、その姿は先ほどとはまるで違っていた。着ていたのは今日、下着コーナーで手にした一着――あまりにも扇情的なそれだった。
「――え、姉さん、それ……」
「これも、私が選んだの」
シェリルは、いたって平然とした調子で答えた。
アノリスは、しばらく呆然と、その姿を見つめていた。それから、堪えきれなくなったように、盛大に噴き出した。
「――ぶっ、あはははは!」
「何がおかしいの」
アノリスは腹を抱えて笑いながら、涙目でシェリルを指差した。
「いや、だって……! 私が男だったら、秒で抱いてるってば!」
「どういう意味?」
シェリルは心底不思議そうに首を傾げた。その反応に、アノリスはさらに笑いを深めた。
姉の色恋への鈍さは、今日もまったく変わらないままだった。




