七 狡猾と実直の狭間
二戦目は、アノリスとトーマの組み合わせだった。
試合開始前、トーマがふと口を開く。
「君は、法剣使いだと聞いている」
「はい」
「ただこの場では、剣による試合は少々フェアではないと思っていてね」トーマは穏やかな口調のまま続けた。「剣がなくても、魔法は使えるんだろう?」
試合前から、随分と食えない申し出だった。剣を封じることでアノリスの主戦力の一角を削ぐ狙いは明白だった。だが同時に、それは正々堂々とした申し出のようにも聞こえる。断れば、こちらが器の小さい人間に見えてしまう。
(何て狡猾な男だ)
そう思う一方で、アノリスの頭には、既に姉の顔が浮かんでいた。
(ああ、これ、姉さんが織り込み済みだったやつだ)
シェリルが体調を崩した日、アノリスへの指示はまさに、ヴェントラーゼを使わずに指先の魔法だけで組み立てる、であった。あの時の言葉が今になって重みを持って蘇る。実地試験でも武器を封じられる可能性がある、と言っていた姉の助言は、まさにこの瞬間のためだったのかもしれない。
「いいですよ」
アノリスは静かに頷くと、腰のヴェントラーゼを外し、傍らに置いた。その様子を観客席から見ていたシェリルが、目を細めた。
(やっぱり、こういうことになったわね)
トーマの側にも、三度目の受験という譲れない事情があった。
一度目の受験で実地試験にすら進めなかった屈辱は、今も鮮明に覚えている。あの頃より確実に力はついた。
それでも上級という壁は、思っていた以上に高かった。今度こそ、掴み取らなければならない。妻と、まだ幼い子がいる。年齢を重ねるごとに、その焦りは静かに、しかし確実に大きくなっていた。
(今回、逃すわけにはいかない)
穏やかな物腰の裏で、トーマは静かに闘志を燃やしていた。
「始め」
合図と共に、両者は動かなかった。
最初の五分間、互いに攻めることなく、じりじりと間合いを測り合う。筆記試験の一位と二位による対戦は派手さこそないものの、実力者同士の駆け引きが張り詰めた、玄人好みの展開だった。
試験場の窓辺には、一つの水槽が置かれていた。何かの生物を飼っているわけではない、ただの水の入った容器だった。
(トーマは、水と雷の複合術式)
アノリスは冷静に状況を分析していた。水と雷、その組み合わせは極めて危険だ。あの水槽程度の水量でも、存在さえしていれば、術式によっていくらでも増幅できる。だが、この試験場内で本気で水量を増幅すれば、観客席にまで危険が及びかねない。
(だから、まだ動かない)
トーマも、その懸念を考慮しているのだろう。互いに、相手の出方を慎重に見計らっていた。
だがその均衡は、トーマの側から破られた。
「では」
次の瞬間、その姿が、掻き消えた。
「え!?」
アノリスは思わず狼狽えた。目で追えないほどの速さで、姿が消える。
背後――息のかかるほどの距離に、いつの間にかトーマが立っていた。
「失礼」
背中に触れられた瞬間、強烈な電撃が全身を貫いた。
「っ、ああ……!」
声にならない悲鳴が漏れる。だが、アノリスはまだ立っていた。
(今の、何……!? 全然、気配に気づけなかった)
背中に触れられた感触が、まだ生々しく残っていた。不意打ちを受けた動揺と、それ以上に実力差を見せつけられたような屈辱感が、胸の奥で入り混じる。
アノリスは咄嗟に風を纏って身体を前に投げ出し、間合いを取る。
「何、触ってるのよ……!」
デリカシーのない相手に悪態をつきながらも、思考は止まっていなかった。間合いを取りながら、アノリスは即座に風を纏わせた拳と蹴りの連撃を次々と繰り出していく。特訓で培った、剣を使わない戦い方だった。
トーマは軽く目を見開いた。
「剣がなくても、ちゃんと出るじゃないか」
その声には、意外そうな響きがあった。
だが、賞賛は長く続かなかった。トーマの姿が、再び消える。
観客席で、ラフィスが小さく眉をひそめた。
「何とも面倒な戦い方だ。私は好かん」
その呟きが終わるより早く、上空からトーマが現れ、圧縮された気弾を連打した。
「くっ!」
避けきれず、一発がまともに命中する。吹き飛ばされたアノリスはなんとか受け身を取って立ち上がったが、そこに追い打ちの雷撃が降り注いだ。
防戦一方の展開が続いた。
(このままじゃ、押し切られる)
攻撃の起点が、まったく読めなかった。相手の姿が消えるたびに、次はどこから来るのかまるで予測がつかない。
アノリスの中で、焦りが、じわじわと形を帯び始めていた。
その時、トーマの視線が、一瞬だけ窓辺へ向いた。
(まさか)
アノリスが気づいた時には、既に遅かった。
「失礼する」
水槽の水が、宙へ吸い上げられていく。ほんの一抱えほどの量だったはずのそれが、空中で膨れ上がり、みるみるうちに人の背丈を超える水塊へと変わっていった。
観客席がざわめいた。
「おい、あれは」
「あの量を、雷と合わせる気か」
水は導く。人の身体もまた、水でできている。触れられたが最後、電流は逃げ場を失って全身を巡る。先ほど背中に受けた一撃とは、比較にならない。
トーマ自身、それを分かっていた。
(やりすぎだ)
頭のどこかで、そう告げる声がある。試験場の広さ、観客席との距離、万一の飛沫。すべてを計算に入れても、安全とは言い切れない。
だが。
(三度目なんだ)
その一言が、躊躇いを押し流した。
「――撒け」
水塊が弾け、細かな飛沫となって降り注ぐ。同時に、トーマの指先に青白い光が集まっていく。
既に試験を終えているミレイが、冷めたような目でトーマを見た。
「散々ゲリラ戦やった後にアレやるの? こんなの、あんたの嫁には見せられないじゃん」
アノリスに対しては特に心配していなかった。あの娘の実力なら普通に大丈夫っしょ――くらいに思っていた。
そしてその実力、アノリスは考えるより先に身体が動いていた。
「球体防御空間……展開」
アノリスを中心に、薄い光の膜が広がる。半径は身体の輪郭に沿うほどの、ぎりぎりの大きさ。無駄な空間を一切含まない、極限まで切り詰めた球体だった。
その刹那、雷が走った。
空中に残った飛沫を伝い、無数の稲光が試験場を白く染める。降り注いだ電流は球面に触れた瞬間、その表面を滑るように流れ、地面へと逃げていった。
膜の内側には、一滴の水も届いていなかった。
光が収まった時、アノリスは何事もなかったかのように立っていた。
トーマは、その光景を呆然と見ていた。
(あの一瞬で、あの精度で組んだのか)
防御術式は、大きく張るほど魔力を食う。かといって小さすぎれば間に合わない。あの娘は、飛沫が届くまでの時間、自分の身体の輪郭とを、瞬時に計算して張った。しかも水を弾くのではなく、電流の逃げ道を作る形で。
攻めても崩れない。守らせても、崩れない。
トーマの喉が、乾いた音を立てた。
観客席では、シェリルが小さく息を吐いていた。
(あの子、ちゃんと書けていたのね)
筆記試験の設問と、寸分違わぬ答えだった。
表情には出さなかったが、シェリルは静かに拳を握りしめていた。魔力さえ切らさなければ、この子は負けない。
試験開始から二十分が経過する頃、攻め続けるトーマの側にも、わずかな疲労の色が見え始めていた。
(しぶとい。実に、しぶといな)
トーマは内心、舌を巻いていた。これだけの猛攻を受け続けて、なお立ち続ける精神力は、並大抵のものではない。
その舌打ちのような感嘆が、そのまま焦りへと変わっていく。焦りは、トーマの攻撃を次第に大振りなものへと変えていった。
(戦場で一番大事なことは、何か)
アノリスの脳裏に、姉の言葉が蘇っていた。
――魔力切れを起こさないこと。それが、何よりも大事よ。
体力こそ消耗していたが、魔力そのものはまだ十分に残っていた。連日の特訓で鍛え上げた術式効率の良さが、ここにきて生きていた。
アノリスの動きに、再びキレが戻る。
その変化に、トーマは焦りを滲ませた。電撃を放ち、気弾を連打する。だがいずれも掠るだけで、決定的な一打にはならない。
(くそ、当たらない……!)
内心の焦燥が、動きにわずかな乱れを生み始めていた。
試験開始から二十五分。
「私にも、雷は使える」
アノリスは静かにそう告げると、雷撃を連打した。トーマはそれを何とか防御するが、その隙を突いて、アノリスは風の局所展開を仕掛ける。
狭い範囲に凝縮された風の渦が、トーマを中心に巻き起こった。逃げ場を封じられたところへ、アノリスは指先に光を集める。
凝縮された光の塊が、渦の中心へ撃ち込まれた。閃光と炸裂音が同時に走る。
竜巻が収まった時――
トーマは、大の字になって倒れていた。
いくつかの傷から出血していたが、目はしっかりと開いていた。命に別状はない。
「――前回は、実地で落ちた」トーマは天井を見上げたまま、静かに呟いた。
「今回は、最終でダメだったか……」
その声には、悔しさよりも、どこか諦観に似た穏やかさがあった。
「――アノリスの、勝ち」
試験官の宣告が響き渡った。
試合が終わると、アノリスはすぐにトーマのもとへ駆け寄った。
「大丈夫ですか」
差し出した手を、トーマは思いのほか素直に取った。介抱されるまま、ゆっくりと身体を起こす。
「ああ、平気だ」トーマは苦笑しながら、傷の具合を確かめた。「にしても……そうか。君の姉さんは、凄い人だったんだな」
「え?」
「あの、法剣を封じられても崩れない立ち回り」トーマは肩をすくめた。「完敗だよ」
その言葉に、アノリスは少し戸惑った。試合前、随分と狡猾な申し出をしてきた男だと思っていた。だがこうして負けを認める姿には、変な粘りも言い訳もなかった。
ふと、アノリスは先ほどの感触を思い出した。背後から、いきなり肌に触れられた、あの瞬間。
「そういえば」
「なんだ」
「あんな風に、女の子の背中に触れて、今まで何人口説いてきたんですか」
からかうような口調に、トーマは一瞬言葉に詰まった。
「いや、あれは戦術上」
「今日ばかりは、相手が悪かったですね」
アノリスがにやりと笑うと、トーマは観念したように、深いため息をついた。




