四 副団長、立ちはだかる
翌日の午後、リーヴィン大学の掲示板前には、既に人だかりができていた。
「――行こう、姉さん」
「ええ」
アノリスとシェリルは、人混みをかき分けながら掲示板の前まで進んだ。貼り出された紙には得点順に名前が並んでいる。合格者は十二名。
アノリスは、震える指先で一番上の行を辿った。
(――アノリス・アリアシスト)
一番上に、自分の名前があった。
「……え」
「一位ね」
シェリルの声が、静かに耳に届いた。アノリスは何度も目をこすり、同じ場所を見返した。見間違いではなかった。
確かに、自分の名前が一番上にある。
「私が……一位?」
「事実よ」シェリルは短く答えた。
その声には、これまでにない温度があった。アノリスが視線を上げると、シェリルは隠すことなくはっきりと笑っていた。
普段の淡々とした表情からは想像もつかない、屈託のない笑みだった。
「――姉さん、笑ってる」
「あら、そう?」
シェリルは気づいていなかったように、少し驚いた顔をした。それから、すぐにいつもの調子に戻す。
「ただ、筆記はまだ通過点よ。ここからが本番」
「わかってる」
アノリスは頷きながらも、胸の奥に温かいものが広がるのを感じていた。
姉があんな風に笑ってくれた。それだけで、これまでの特訓の日々が報われた気がした。
改めて掲示を見返す。
二位――トーマ・ライ。
(――誰だっけ)
名前だけでは、すぐには顔が浮かばなかった。試験当日、落ち着いた様子で問題を解いていた、年嵩の男の姿を思い出す。何度目かの受験だと聞いていたが、その実力は本物らしかった。
三位にカイル、四位にエルナと続く。カイルの名前を見て、アノリスは少し意外に思った。有力候補だという話は聞いていたが、あの豪快な印象からは筆記が得意なようには見えない。実際には堅実に得点を重ねているらしい。
六位にミレイの名前があった。
(――やった、あいつも通ってる)
どこかで見ているだろうかと辺りを見回すと、少し離れた場所で、ミレイが両手を突き上げて喜んでいる姿が目に入った。目が合うとミレイはにっと笑って、こちらに向かって親指を立てて見せた。
そして、十位に、ソニア・ドルッセの名前があった。
(――ぎりぎりだったんだ)
試験の帰り道、沈んだ様子で歩いていた彼女の後ろ姿を思い出す。あの様子では、本人もあまり自信がなかったのかもしれない。
それでも、なんとか滑り込んだらしい。
「実地試験は、二日後よ」シェリルは静かに続けた。「準備、怠らないように」
「もちろん」
アノリスは掲示板をもう一度見つめた。自分の名前が、確かにそこにある。だが、喜びに浸っている時間は、そう長くはなさそうだった。
実地試験当日、師団の広大な訓練場には、緊張した面持ちの受験者たちが集まっていた。
十二名は既に六組に分けられている。組み合わせを決めたのは、受験者本人たちではなく、試験官側だった。
「――今から、組み合わせと担当試験官を発表する」
壇上に立った試験官の一人が、淡々と名簿を読み上げていく。
「第一組、アノリス・アリアシスト、ソニア・ドルッセ。担当、ベルナルト・ライアス」
名を呼ばれ、アノリスは思わず隣を見た。少し離れた場所に立っていたソニアが、こちらに視線を向ける。二人はまだ、言葉を交わしたことがなかった。
「――よろしくお願いします」
アノリスが声をかけると、ソニアは短く頷いた。
「……よろしく」
最低限の言葉だけが返ってきた。感情の起伏がほとんど見えない、静かな声だった。
声だけなら、姉に似ている。だが姉のそれが平坦なのに対して、この人の声には、触れると切れそうな硬さがあった。緊張が高まった。
続けて、他の組み合わせも発表されていく。
「第二組、ミレイ・ハルン、ロイド・ファーナ」
「第三組、カイル・ウェールン、デズ・オルコット」
「第四組、トーマ・ライ、ネイア・ヴィス」
「第五組、エルナ・シルヴィス、ガイン・ソーレル」
「第六組、ライア・ドムス、セツ・カルバン」
最後の組が読み上げられ、六組全てが出揃った。三名の試験官が、それぞれ二組ずつを担当する形式だった。同じ試験官が全ての組を相手取れば、後の組ほど手の内を知った状態で臨めることになる。それを避けるための割り振りだった。
発表を終えた試験官が付け加えた。
「――第一組から、順に始める。まず、アノリスとソニアの組だ」
その言葉に、周囲の受験者たちがざわめいた。トップバッターという重圧が、二人の肩にのしかかった。
訓練場の中央、他の組から少し離れた広い空間で、二人はベルナルトと対峙していた。
副団長としての姿しか知らない受験者たちにとって、彼が試験官として立つこと自体、意外に映ったらしい。周囲の受験者たちの視線が、この一組に集中していた。
「――俺が相手だ。手を抜くつもりはない」
いつもの飄々とした調子とは違う、抑えた声だった。
「二人一組で、俺を相手に十分間耐えること。それが合格条件だ」
「十分……」アノリスは息を呑んだ。
「短いと思うか? やってみればわかる」
耐える、という基準に明確な線があるわけではない。判断するのは試験官の目だ。加えて、二人一組という形式である以上、連携の巧拙も見られる。もっとも配点の重心は、あくまで個々の力量に置かれている。
ベルナルトはそう言うと、静かに構えを取った。それだけで、空気が変わるのがわかった。
「――始め」
合図と同時に、炎の奔流が二人を襲った。
「――っ!」
アノリスは咄嗟に横へ飛んだが、炎はすぐさま形を変え、複数の光弾となって追撃してくる。避けたはずの一発が、頬をかすめた。
「熱っ……!」
息をつく間もなく、今度は足元から竜巻が巻き起こった。副団長という肩書きが、決して名ばかりのものではないと、二人は瞬時に理解させられた。炎、光弾、風――属性を自在に操りながら、間断なく攻め立ててくる。それも一つ一つの威力が、これまで戦ったどの相手とも比較にならないほど重かった。
「――氷結、展開!」
ソニアが即座に反応し、迫る光弾に向けて氷の壁を立てた。だが、その壁ごと光弾が撃ち抜き、爆発が起きる。
「壁だけじゃ、防ぎきれんぞ」
ベルナルトの声には、試すような響きがあった。
(――このままじゃ、押し切られる)
アノリスは瞬時に判断した。地上での防戦は、分が悪すぎる。
「――上!」
風を纏い、アノリスは一気に跳躍した。竜巻の渦を逆手に取り、その上昇気流に乗る形で、宙へと舞い上がる。ベルナルトの視線が、一瞬アノリスを追った。
その隙を、ソニアは見逃さなかった。
「――神経、乱れよ」
静かな詠唱と共に、目に見えない神経攪乱の術式が放たれる。ベルナルトの反応が、ほんのわずかに――だが確かに、鈍った。
「――ちっ」
ベルナルトが小さく舌打ちする。視界がわずかに揺れた。踏み止まれる程度の乱れだが、術式の性質はすぐに分かった。
(――神経系か)
防御を固めた上級術師に、掠らせただけでも影響を残す。まともに受ければどうなるか、考えるまでもない。この娘は、扱いを間違えれば人を殺せるものを、平然と試験に持ち込んできた。
「――今!」
上空から急降下したアノリスが、その一瞬の隙をついて距離を詰める。ヴェントラーゼを構え、渾身の一撃を繰り出そうと踏み込んだ。
だが。
「――甘い」
ベルナルトの手のひらから、圧縮された気弾が放たれた。避ける間もなく、アノリスはその衝撃をまともに受け、吹き飛ばされる。
「――ぐっ!」
受け身を取る間もなく地面を転がり、アノリスはようやく体勢を立て直した。肩で息をしながら、ベルナルトを見上げる。
「――そこまで」
試験官の声が響いた。
ベルナルトは構えを解き、静かに息を整えていた。だが、その表情は最後まで変わらなかった。二人の動きをどう評価しているのか、何一つ読み取れない顔だった。
試験の手応えをここで口にすれば、後の組にまで影響が及びかねない。ベルナルトはそれ以上何も言わず、無言のまま数歩、後ろに下がった。
アノリスとソニアは、荒い呼吸のまま顔を見合わせた。何とか十分を耐え抜いたという実感はあったが、合否の判断は、まだ二人の与り知らぬところにあった。
周囲で様子を見ていた受験者たちの間に、動揺が走った。
「――おいおい、マジかよ」
「……あれをやるのかよ、俺たち」
「あの副団長、あんなに苛烈だったのか……」
トーマだけは、比較的冷静な表情を保っていた。今回で三度目の受験である。初回は筆記まで、前回はこの二次の実地までだった。ただ、この試験を経験している彼にとってみれば、これは完全に予想の範囲内だったのかもしれない。だが、他の受験者たちの顔には一様に、これから自分の番が来るという事実への、隠しきれない緊張が浮かんでいた。
「――第二組、前へ」
試験官の声が響き、緊張の糸は途切れることなく、次の組へと引き継がれていった。
次に呼ばれたのは、ミレイと、相方のロイド・ファーナという青年だった。担当試験官は、先ほどとは別の、寡黙な女性術師だった。
「――始め」
合図と同時に、ミレイの得意技――高速円形展開の風刃が、試験官を取り囲むように広がった。ロイドもそれに合わせて土壁を展開し、援護に回る。だが、相手も上級β、そう容易くは崩れない。氷結の障壁で防ぎながら、逆に反撃の水弾を放ってくる。
「――もっと前、出して!」
ミレイが檄を飛ばすが、ロイドの動きはやや硬い。連携としては、噛み合っているとは言い難かった。それでもミレイ自身の圧倒的な手数が、なんとか場を持たせていた。
十分間、二人はぎりぎりのところで耐えきり、試験官から短い一礼を受けて試験を終えた。だが、ロイドの疲弊しきった表情を見る限り、合否の行方は五分五分に見えた。
第三組は、カイルとデズ・オルコットの組だった。
開始と同時にカイルが前へ出る。雷と炎を織り交ぜた攻勢は、赤幟党の戦場で見せたものと同じ、遠慮のない火力だった。デズも懸命に援護に回り、連携そのものは悪くない。ただ、カイルの繰り出す手数に相方が追いつききれない場面が、何度かあった。噛み合っていないのではない。単に、そこにある力量の差が見えてしまうというだけのことだった。
こうして、六組全ての試験が次々と行われていった。それぞれの試験官が容赦のない攻撃を仕掛け、受験者たちはその都度、限界近くまで力を振り絞った。
全ての組の試験が終わる頃には、日はすっかり傾いていた。汗と土埃にまみれた受験者たちの顔に浮かんでいたのは、しかし充足感ではなかった。大半の者には、そんなものを覚えるだけの余裕が残っていなかった。




