三 試験開幕
その日の朝、シェリルはすっかり熱も引き、いつも通りの顔で寝台から起き上がっていた。
「――もう平気?」
「ええ、あなたが看病してくれたおかげね」
「よかった……ほんとに心配したんだから」
身支度を整えるアノリスを、シェリルは静かに見つめていた。
「今日ね」
「うん」
「事実として、あなたはもう、私が教えられることを全て吸収したわ。あとは、自分の力を信じるだけよ」
その言葉に、アノリスは一瞬言葉を詰まらせた。姉らしい、飾り気のない激励だった。
「――行ってきます、姉さん」
「行ってらっしゃい」
宿舎を出て、試験会場へ向かう道すがら、アノリスは自分の手のひらに、いつになく力がこもっているのに気づいた。
(――そういえば)
ふと、思い出す。シェリルが上級試験に合格したのは確か自分よりもずっと幼い頃だったはずだ。
十五で特級、上級は……確かまだ大陸最南の祖国・オルネスに居た頃だった。上級試験はオルネスでは受験することができず、馬車で北へ向かいそこで受けたのを思い出した。十二歳の頃だ。大変な話のはずなのに盛り上がっていたのはごく僅かだった。姉がどれだけ凄いことをやったのか、当時八歳のアノリスには分からなかった。その重みを知るのは、そこから少し経ってからのことだ。
(――私は、シェリル・アリアシストの妹だ)
その事実の重みを、今更ながらに噛み締めた。姉の名に泥を塗るような戦いは、したくない。恥ずかしくない戦いを、今日はする。
拳を握りしめ、アノリスは会場へと足を進めた。
試験会場は、リーヴィン大学の第一講堂だった。
普段は講義に使われる場所だ。整然と並んだ机、朝の光が差し込む窓。その光景はいつもと変わらないのに、今日だけは異様な緊張感が漂っていた。
受験者たちが、次々と会場に集められていく。
アノリスはその数を数えた。――三十人。年齢層は様々だった。まだ十代と思しき者もいれば、三十を超えていそうな者もいる。誰もが一様に、これまでの研鑽の重みを背負っているような顔をしていた。
その中に、見知った赤毛があった。着崩した衣装を、着崩したままで様にしている。ミレイが、いつもの調子で軽く手を上げた。
「――あんたも来たんだ」
「当たり前でしょ」
二人は互いに小さく頷き合うと、それぞれ指定された席へと向かった。
会場の隅には、他にも目を引く受験者がいた。整った顔立ちに、隠しきれない闘志を宿した赤髪の青年。落ち着き払った様子で佇む、年嵩の男。一人静かに目を閉じている女性……廃洋館の戦役で一緒になったエルナが居る。
そしてもう一人、窓際の席に、妙に印象に残る女性がいた。黒髪を短く切り揃え、青を基調にした衣装。整いすぎているほど整った横顔なのに、近づきたいとは思わせない。涼しげ、というより――そこだけ空気が冷えているような、そんな気配があった。
それぞれが、それぞれの理由でこの場に立っていた。
やがて、試験官が壇上に立った。
「――これより、上級術師昇格試験、第一段階、筆記試験を開始する」
その声と共に、会場全体の空気が、一段と張り詰めた。
筆記試験はそのまま講堂で行われた。三十名が同じ部屋に座った。
問題用紙が配られた。表紙に注意書きがあった。
「最終三問は選択式とする。算術、及び感術のいずれかを選択せよ。両者は同一の配点とする」
感術、という呼び名は、ここ一年ほどで使われ始めたものだ。魔法算術論が持ち込まれた際に、それと対になる言葉が必要になった。師団長アルヴァンと副団長ベルナルトが決めたと聞いている。
どちらが上でも下でもない。ただ、答え方が二つある。それだけのことだと、そういう説明だった。
アノリスは表紙をめくった。前半の十五問は共通問題だった。
【第一問:あなたが上級術師を志す理由を端的に述べよ】
ペンを持ったまま、アノリスは少し止まった。
姉に追いつきたいから。恥ずかしくない自分になりたいから。理由ならいくつも浮かんだが、どれも自分の話ばかりだった。
どうしても、あの偉大な姉と自分を重ねてしまう。
でも、と思う。姉を追いかけるために、ここに来たわけじゃない。
少し考えてから、書いた。
「今の私では守れない人がいるから」
【第二問:術式の起動から発現までの過程を三段階に分け、それぞれの名称と役割を記せ】
これは基礎中の基礎だった。起動、構成、発現。魔力を練り上げ、術式として組み、外に現す。それぞれの役割まで含めて、迷わずペンが動いた。
【第三問:味方の術式が制御を失い、暴走の兆候を見せている。周囲に非戦闘員が複数いる場合、取るべき初動を百字以内で述べよ】
これは判断の問題だった。理論ではなく、経験が出る設問だった。
アノリスはペンを止めて、少し考える。すると、エレシア王国に入る前に冒険者ギルドにいた時のことを思い出した。暴走範囲の把握、非戦闘員の避難誘導を最優先に。安易な術式介入はかえって暴走を増幅させる。封じ込めと退避誘導の並行――そこまで書いて、次の頁へ進んだ。
【第七問:術式の消耗を抑えつつ、複数方向からの攻撃に対応する防御術式の基本構成を述べよ】
これは実戦でシェリルが何度も言っている。球体展開を最小限の時間で。ただし引きつけすぎれば間に合わない。術者の実力に応じた展開時間の設定まで含めて、迷わず書いた。
【第十二問:術式の展開速度と精度のどちらを優先すべきか、状況に応じた判断基準を述べよ】
答えは一つではない。ただ、自分なりの答えは既にあった。初動の遅れが致命的になる場面では速度を、防御に転じられる場面では精度を。そして、その判断そのものが術者の資質として問われるのだと。
共通問題を解き終えて、アノリスは最後の頁をめくった。
選択欄があった。
□算術 □感術
アノリスは少し迷って、算術に丸をつけた。
【第十六問(算術):円形防御幕を、複素数を用いた一本の式で設計せよ。強度分布と向きの分布をどう分離するかを含めて説明せよ】
これは姉の講義で聞いた内容そのままだった。アノリスは覚えている範囲で書いた。
【第十七問(算術):三角関数を用いた術式設計の利点と問題点を、積分とtanの危険性を絡めて、具体的な術式を一つ示せ】
エレシアに入る前、これも姉の講義で聞いたことがある話だった。tanの発散の危険性は示せても、その回避方法としての術式はうまく書ききれなかった。
【第十八問(算術):ある未熟な術師が誤って指数関数術式の広域展開を発動してしまった(底は1より大きいものとする)。あなたが取るべき行動を示せ】
最後の設問、非常に危険な状況であることはすぐに理解でき、退避誘導を行うところまでは書けた。だがそこから先が続かない。押さえ込む手立てが、どうしても思い浮かばなかった。アノリスは書けるところまで書いて、ペンを置いた。
斜め前の席で、ペンが止まらない受験者がいた。赤い髪が視界の端に見えた。ミレイだ。手元を見なくても分かるくらい、迷いのないペンの動きだった。
一方、感術を選んだ受験者の机には、まったく違う設問が並んでいた。
【第十六問(感術):円形に展開する術式において、「均等に広がっている」という感覚を、言葉で説明せよ】
【第十七問(感術):術式が渦を巻きながら外へ広がっていく現象について、なぜそれが有効な妨害になるのか、体感に基づいて説明せよ】
【第十八問(感術):術式の展開が「どこか歪んでいる」と感じるとき、それは何を意味しているか。実戦での見極め方を含めて述べよ】
赤幟党の戦役から帰ったカイルは腕を組んで、しばらく天井を見上げていた。数式が書けないことは分かっていたので感術を選択。
(やはり俺はこっちだな)
感覚を言葉にする方が彼には合っていた。これまで積み重ねてきた実戦の記憶をたどりながら、ペンを動かし始めた。
終了の合図が鳴った。
講堂を出ると、廊下は既に受験者たちの声で騒がしかった。
「算術問題、全部埋めた?」
声の主はミレイだった。試験開始前より高いテンションで、アノリスの隣に並んできた。
「基本のところまでは」アノリスは答えた。「具体的な術式までは書けなかったかな」
「あそこ配点高そうだったよね」ミレイは笑った。「私はあそこが一番書けた。得意分野だったから」
「ミレイは算術派?」
「うん、バリバリ算術派」
その頃、受験者の一人、ソニア・ドルッセは、屋敷への帰路を一人歩いていた。
得意魔法は氷、それと師団の中でも扱うのが一割……いや、五分も居るかどうか、という神経魔法の使い手だった。
黒髪を短く切り揃えた頭を、わずかに俯けて歩く。青を基調にした衣装に身を包んだその佇まいは、道行く人が思わず振り返るほど整っていたが、同時にどこか近寄りがたい冷たさを纏っていた。感情の起伏をほとんど表に出さない、静かな横顔。その冷ややかさは、あのエーテラリス以上だと評されることさえあった。
筆記試験の手応えは、お世辞にも良いとは言えなかった。特に選択式の後半、感術に基づく感覚の記述問題では、言葉にすることの難しさに終始苦しめられた。
(――今回は、駄目かもしれない)
沈んだ気持ちのまま屋敷の門をくぐると、玄関先で一人の男が待ち構えていた。
「――お帰り、ソニア。試験はどうだった」
義父のエイン・ドルッセだった。恰幅の良い体格に、やや過剰なまでに上等な仕立ての服を纏っている。整えられた口髭の下で浮かぶ笑みは、一見人当たりが良さそうに見えて、目の奥だけがどこか計算高く、油断のならない光を宿していた。上級術師という肩書きに相応しい貫禄はあるはずなのに、その笑みには、どこか粘つくような不快感があった。
「……普通です」
ソニアは短く答え、それ以上言葉を継がなかった。エインと必要以上に話したいとは思わない。物心ついた頃からこの男の纏う空気には、常にどこか薄気味悪いものを感じていた。
「そうか。まあ、お前の実力なら心配はいらんだろう」
エインは軽薄な笑みを浮かべたまま、そう言った。中身のない激励だった。ソニアはそれに応えることなく、屋敷の中へと足を進めた。
(――気持ち悪い男)
昔からそう思っていた。今更、その感情が変わることもない。
背後で、使用人たちが小声で何か囁き合っているのが聞こえた。
「――最近旦那様、随分と羽振りがよろしいようで」
「ああ、新しい馬車を新調されたとか」
「一体、何がおありになったのかしら」
ソニアはその噂話に、特に興味を持たなかった。エインが何をしていようと、自分には関係のない話だ。
それよりも今は、明日の結果発表のことで頭がいっぱいだった。
(一次試験通過者は、上位四割)
筆記試験の出来を思い返しながら、ソニアは小さくため息をついた。ギリギリ入っているかどうか、正直なところ、自分でも判断がつかなかった。
自室に戻り、寝台に身を投げ出す。天井を見つめながらソニアはしばらく、何も考えずに時間を過ごした。明日になれば、否応なく結果がわかる。それまでは、ただ待つしかなかった。




