二 風使いの距離
上級試験二日前の朝だった。
(――あれ)
いつもなら、先に目を覚ましているのはシェリルの方だった。
寝坊したのだろうか。そんな姉は見たことない。慌てて身体を起こし隣の寝台に目をやる。
シェリルはまだ横になっていた。
「姉さん? もう起きる時間だよ」
声をかけても、返事が鈍い。訝しく思いながら顔を覗き込んで、アノリスははっとした。
「――あれ、なんか熱っぽい」
シェリルの頬が、いつもよりわずかに赤い。呼吸も、心なしか浅い気がした。
「姉さん?」
「……ん」
シェリルはゆっくりと目を開けた。それから、緩慢な動作で身を起こそうとする。
「――今、何時?」
「え、そんな場合じゃ……起きられる?」
シェリルは頷いて、寝台の縁に足をかけたが、立ち上がった瞬間、明らかにふらついた。
慌ててアノリスは横から、不安定なシェリルの肩を支えた。
「――駄目だ、これ」
シェリルは珍しく素直に支えられるままになっていた。それだけで、いつもとは違う不調が伝わってきた。
「寝てて。今日はもう、休んだ方がいい」
「……でも、あなたの稽古が」
「そんなの後回しでいいから」
アノリスは有無を言わさずシェリルを寝台に戻した。
連日、自分の特訓に付き合わせていた。単発はあっても継続的に、そして対面で何かを教えるということをシェリルは普段まずやらない。それが数日続けて、しかも妹相手となれば、本人が思っている以上に熱が入っていたのだろう。合理的に負荷を管理していても体調を崩す時は、崩すものだ。
「――大人しくしていてね」
念を押すように言うと、シェリルは弱々しく頷いた。その様子にアノリスは少し胸が締め付けられる思いがした。いつも冷静で、揺らぐことのない姉が、こんな風に弱っている姿を見るのは久しぶりだった。
「あなたは……訓練、行ってきなさい」
「え、でも」
「試験は待ってくれないわ」シェリルは掠れた声で続けた。「今日は、ヴェントラーゼを使わずに、魔法だけで組み立てる稽古をしてみて。……武器を持ち込む術師なんて、そうはいないもの。当日、何を言われるか分からないわ」
アノリスは口を噤んだ。法剣使いという在り方が、この国でどれほど例外的なものか。それは自分でも、薄々分かっていることだった。
「――そんな状態でまで、私の心配してるの」
「事実、必要な助言だもの」
弱っていてもなお、こちらを気遣う言葉を絞り出そうとするシェリルに、アノリスは何と言えばいいのかわからなくなった。ただ、じんわりと胸の奥が温かくなるのを感じた。
「――わかった。ちゃんと言われた通りにするから、姉さんは寝てて」
「ええ」
水差しと軽食を枕元に置き、アノリスは後ろ髪を引かれる思いで部屋を出た。
訓練場に着くと、既に先客がいた。
「――あ、あんただ」
ミレイだった。一人、風の術式を繰り返し練習している最中だったらしい。師団に籍のある者なら訓練場は解放されている。早朝の空いた時間を狙うあたり、考えることは同じらしい。
「あんたとは何よ」
むっとした表情を作ってみせてから、アノリスは笑った。
「ごめんごめん、今日は一人?」ミレイが不思議そうに尋ねた。「いつも姉貴と一緒にいるのに」
「姉さん、熱出しちゃって」
「へえ、あの『エーテラリス』様でも熱出すんだ」
「そりゃ人間だもん」
アノリスは苦笑しながら、少し離れた場所で構えを取った。ヴェントラーゼには手をかけない。シェリルの言葉を思い出しながら、指先の魔力だけで組み立てる型を、一つずつ確かめていく。
「――なんか、今日は雰囲気違うね」
ミレイがこちらを見ながら言った。
「そう?」
「うん。いつもより、必死な顔してる」
アノリスは手を止めず、答えた。
「姉さんが、私のために色々考えてくれてるからさ。……その分、ちゃんとやらないとって思って」
その言葉に、ミレイは少し意外そうな顔をしたが、すぐにいつもの調子で笑った。
「――ふぅん。いいじゃん、そういうの」
「――そういえば」ミレイが手を止めて、腰に佩いている剣を見て言った。「その剣、今日は使わないの?」
「ヴェントラーゼ? 今日は封印中」アノリスは肩をすくめた。「姉さんの指示で、魔法だけで組み立てる練習してるの」
「へえ。……ねえ、じゃあさ」
ミレイは風の魔力を纏った拳を、軽く上に突き出した。
「あたしと、ちょっとやってみない?」
「打ち合い?」
「そう。剣なし、魔法だけ。試験の練習にもなるっしょ」
アノリスは少し考えてから、頷いた。
悪くない提案だった。実際、武器なしで実力を測る機会は、これまであまりなかった。
「――いいよ。手加減なしで」
「望むところ」
二人は数歩分の間合いを取り、向かい合った。
「――いくよ!」
先に仕掛けたのはアノリスだった。足元から生じさせた小さな旋風で地を蹴り、一気に間合いを詰める。ヴェントラーゼの型を素手の動きに置き換えた踏み込みだった。
「そう来るか!」
ミレイは軽く身を捻ってそれを躱すとすかさず反撃の風刃を放った。アノリスは咄嗟に身を沈めてそれを避けたが、髪の先が僅かに切り裂かれる。
「危な!」
「油断しすぎ」
ミレイの口調は軽かったが、繰り出される術式には遠慮がなかった。連続して放たれる風の刃を、アノリスは体捌きだけで避け続けた。
(――速い。でも、読める)
シェリルとの特訓で培った、踏み込みのタイミング。ミレイの攻撃の起こりを見切りながら、アノリスは反撃の間合いを計っていた。
「――そこ!」
旋風を纏った拳を、真っ直ぐに突き出す。ミレイは驚いた様子で身をひねったが、完全には避けきれず、風の余波が頬を掠めた。
「――っ、やるじゃん。拳、行けるんだ!」
「そっちこそ」
二人はそれから何度も攻防を繰り返した。魔力の風が幾度となく交錯し土煙が舞う。
決着らしい決着はつかなかったが、互いの実力を測り合うには十分だった。
「――そろそろ、とっておき見せるよ」
ミレイがそう言った瞬間、周囲の空気が変わった。
「――え?」
足元から風が巻き起こり、渦を巻きながらミレイを中心に広がっていく。目にも留まらぬ速さで、いくつもの風の刃が円を描くように展開された。
「これが――」
アノリスが言い終える前に、その風の輪が動いた。
一方向からの攻撃ではなかった。円形に配置された風刃が、次々と角度を変えながら襲いかかってくる。防御しようにも、次の一撃がどこから来るのか読み切れない。アノリスは防戦一方になりながら、必死に躱し続けた。
「くっ……!」
躱しきれなかった一撃が、腕を掠める。体勢を崩したところへ、追い打ちの風がアノリスの足を払った。
「――あ」
バランスを崩し、地面に手をついてしまう。顔を上げると、目の前にミレイの拳が、ぴたりと止まっていた。
「――はい、そこまで」
「……くっ」
アノリスは悔しそうに歯噛みした。
届かなかった。速さでも、手数でも、自分の方が上だと思っていたわけではない。ただ、あそこまで一方的に組み立てを崩されるとは思っていなかった。読み合いの土俵にすら、上がらせてもらえなかった。
「今日のところは、あたしの勝ちー」
ミレイは手を引っ込めながら、勝ち誇ったように笑った。
「な、なにその技! ずるくない?」
「ずるくないし。あたしの得意技」ミレイは肩をすくめた。「風を高速で円形に展開する術式。読まれないように、攻撃の起点をずらし続けるの」
「……絶対、試験でも使うつもりでしょ」
「もちろん」
アノリスは悔しさを滲ませながら立ち上がり、汚れた服を払った。だが、その表情にはどこか清々しさもあった。
「――今度は絶対、見切ってやるから」
「へえ、楽しみにしてる」
ミレイは楽しそうに笑い返した。
風魔法の残滓が、早朝の訓練場にしばらく漂っていた。
持ち場に向かう前に、アノリスは一度宿舎へ戻った。
シェリルは横になったままだったが、目は開いていた。枕元の軽食は、半分ほど減っている。ちゃんと口にしたらしい。
「――どう、熱は」
「少し下がったわ」
シェリルはそう答えてから、アノリスの方へ視線を向けた。それから、わずかに目を細める。
「――負けたのね」
アノリスは、思わず自分の格好を見下ろした。服の裾が土で汚れ、頬にも擦れた跡が残っている。稽古で汚れることは珍しくもない。だが姉は、それだけで結果まで見抜いていた。
「……うん。負けた」
言い訳も、前置きもなかった。
その返答に、シェリルはわずかに目を見開いた。以前のこの子なら、まず「惜しかった」とか「次は勝てる」とか、そういう言葉が先に出たはずだった。
「相手は」
「ミレイ。風魔法が得意で、同じ試験を受ける子。……風だけで、あそこまでやるんだ」
アノリスは寝台の脇に腰を下ろした。
「私、たぶん、まだ足りてない」
シェリルはしばらく黙っていた。それから、静かに言った。
「――本番じゃなくて良かったわ」
慰めるでもなく、励ますでもない。ただ事実を述べる口調だった。
アノリスは少し笑って、頷いた。
「……そうだね。事実、そうだ」




