なんのその
夜中、ざわざわと刺すような静かな緊張感が肌をひりつかせ、レアは目を覚ました。
ガウンを羽織って扉を開けてみれば、一階のエントランスに軍服を隙なく着たヘラルドがいる。
────行くんだ。前線に。
何を言われたわけでもないのに、耳鳴りがするほどの緊迫した空気に悟り、急いで部屋を飛び出した。
履き物を見つける手間すら惜しんだから、今のレアは幼子のように素足だ。それでも、とにかく急ぐ。
「ヘラルド様」
駆け寄ったレアに、ヘラルドは一瞬驚いたように目を見開く。
口を開きかけたヘラルドを遮るように、大切に握っていた組紐を差し出した。
黒と白金とラズベリー色の守り紐。
安全を願うそれは、レアが内職した小遣いで買った糸で、時間をかけて編んだものだ。
「────ご武運を」
振り返ることなく、心を残すことなく、この方は行かなければならない。
だから、その時には毅然と見送ると決めていた。
ただひと言だけを告げたレアの手からお守りを受け取ったヘラルドは、わずかに黒の瞳を細めて、頷きだけを返した。
足早に背を向けた婚約者を、彼女は静かに見送っていた。
辺境で大規模な魔物のスタンピードが起きたという報は、瞬く間に王都中へと広がった。
遠く離れた土地柄、王都はどこか他人事のような空気があったが、レアはここぞとばかりに動き出した。
軍人の妻たちを一人ずつ訪ね、交流を深めて人脈を築き、総帥の婚約者として物資支援を取り付ける。
伝手を辿って社交界にも顔を出し、辺境付近の貴族たちとの縁つなぎに奔走した。
とはいえ、言葉ほど簡単なことではない。
総帥の婚約者と言えど新参者、しかも実家の後ろ盾もない元公爵令嬢。
最初は、誰もがそっぽを向き、陰口を叩いた。
少しずつ夫人方の信頼を得、当主や他家へと話が伝わり、方々からの支援を取りつけ、商会との交渉をするまでになったのだ。
レア自身の努力だけでなく、周囲の助力と環境も大きかった。
慣れないドレスもヒールもコルセットもつらいし、決して生易しい逆風ではない。
でも、魔物から国を守るヘラルドを思えば、これくらいの困難は屁でもなかった。
そうしていつしか、軍への支援が主な国とは別に、レアや夫人方は巻き込まれているであろう一般人への食料や医療品などの物資支援を担うことになる。
王都の民まで知れ渡ったことで、裕福な平民たちも支援に参加するようになった。
ある程度討伐が落ち着き、混乱が収まり、復興に注力できるようになったのは、半年ほど経った頃。
そして、傷つき被災した場所に駐在していた軍人が一部帰還できるようになるまで、さらに時間がかかった。
気がつけば、ヘラルドが出立して二年が過ぎていた。
短い手紙は送れるようになったものの、レアは必ず『返信不要』と書き添えた。
たかが婚約者、それも押しかけて数ヶ月共にいただけの自分が、ヘラルドの負荷になってはいけない。
誠実な彼は、多忙でも懸命に応えてくれると知っているからこそ、ほんの少しも負担になりたくなかった。




