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忘却メズマリズム~清楚なお嬢様に催眠をかけたはずが、ヤンキー人格が出てきて尻に敷かれた件~  作者: 春代 羽羽


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第8話:貧血かもしれない

 今日は散々だった。お昼を我慢したせいで、休み時間だれも見てないところで倒れ。夏向に見つけられたから良かったものの、普通にこのまま死ぬんじゃないかとも思った。

 しかし家に帰って来れればこっちのもんだ。今日はゼリー飲料を流し込んで早く寝……。

「ダメですよ生天目さん。ゼリー飲料じゃ栄養バランスがダメダメです」


 冷蔵庫からゼリー飲料を取り出そうとした手を、八咫野氷織(やたの ひおり)に掴まれる。

「……あのー八咫野さん? なんで俺の部屋に居るんでしょう」

「それはもちろん。倒れた生天目さんが心配でついて来たんですよ」

「……ホントのところは?」

「この関係性はあまり大っぴらにしたくないのに、生天目さんがこれだといつ広まるか分からないので。体調は万全にしてもらわないと」

「さいですか……」

「一緒に帰るって、言いましたよね?」

「本当に一緒に来るとは思わないだろ。」


 八咫野は時折打算的というか、タダじゃないところがある。無論、無料でなにかして欲しいという訳ではない。だがその打算の分だけ、灯里よりも接しにくくはある。……あいつはあいつで能力的で嫌だけど。


「まあ、その気になれば普通に合鍵で入ってくればいいので、生天目さんの抵抗は無駄ですよ」


「……犯罪ってやつじゃないかそれ」

「何言ってるんですか。生天目さんはちゃんと入れてくれるんですから。不法侵入じゃありませんよ」


 そう軽口を交わしつつ、彼女はすくっと立ってキッチンへ向かう。制服のまま、引き出しからフライパンを出す。慣れた手つきで冷蔵庫を開ける。


「……生天目さん。本当に何も買ってないんですね。以前と冷蔵庫の中が変わってないです」

「調理できないやつにはな。人参はうさぎの食いもんだしじゃがいもは毒物だ」

「人参は調理してないだけ、じゃがいもは放置してるだけじゃないですか」


 大きくため息をつき、彼女は冷蔵庫ではなく冷凍庫を見る。

「仕方ありません。今日は時間も多くないですし、こんなこともあろうかと買っておいた冷食で食べましょうか」


 何?! そんな楽なものがあるなら早く言ってもらわないと! レンジは使ってないだけで有るし、全然楽ではないか!

 言葉にする代わりに目を輝かす俺。それを見て同じくにこやかになる氷織。女神……! と思ったのもつかの間、彼女は含みを持った笑いでこちらを見る。


「ええ。どれも楽なものばかりです。『焼くだけ』の餃子や、『煮込むだけ』の煮物など、保存も効いてすぐに着手できるものばかり。これなら生天目さんでも、簡単に出来ますね」

「あれ。レンジでチンするだけじゃないの?」

「もちろん、そんなズボラなものは買ってませんよ。生天目さんはそれだけになってしまうでしょう? 料理の大変さは、ちゃんと見てもらわないと」


 ……いやまあ料理を買ってもらえるだけでも、作ってもらえたりするだけでもありがたいのだけど。楽にさせてくれよと思いつつ黙るしかなく。

 彼女にさせっぱなしは気が悪くて、食器を出したり手伝いをする。

 煮物をもはや炒めている氷織。そこから水を加えると一気に煮物と言えるような見た目になる。煮物にコーティングされていたであろうごま油の香りが広がる。気詰まりだったこの部屋が幾分か明るくなったように感じる。

 彼女は手際良く、さらに隣のフライパンに広げていた餃子を、羽の色が完璧になったタイミングで皿にあげる。羽の形は崩れておらず、豪勢な雰囲気が漂う。

 続いて八咫野はまた煮物を突っつく方に戻る。八咫野は氷織のときにはセミロング、灯里のときはポニーテールの髪型だ。しかし料理のため、今は氷織状態なのにポニーテールでいる。どっちがどっちか分からなくなってしまう。しかし繊細な指で(たお)やかに煮物を動かす彼女は、この部屋にとても馴染んで見える。部外者のはずなのに。


「生天目さん。あと少しで煮物もできちゃうので、先にパックご飯を準備してください」

「ああ……おう」


 彼女の流れる動きに見とれてしまって時間を忘れていたようだ。時刻は19時31分。もう晩御飯には遅くなり始める頃合。

 程なくして卓に皿が並ぶ。インスタントの味噌汁。お茶碗によそったパックご飯。右手に鎮座する煮物。真ん中には大皿に餃子が乗っている。四角いテーブルの真ん中で旋回しているような大きな真円の羽が開いている。


「……これはすげえな」

「冷食で楽をするのもいいですね。さて、食べましょう」


 いただきますと声を合わせ、共に餃子を突く。羽が崩れていないために、取り分けても一回り大きく見える餃子。一息に口に入れる。


 だが、しかし待っていたような味がしなかった。羽のパリパリを高らかに鳴らしているのに。たしかに肉を噛んでいるのに。


「……生天目さん? お口に合いませんでしたか?」

「あ、いや。めっちゃうまい。こんな餃子は食ったことない」

「冷食なんですから、誰が作っても同じですよ」


 ……目の前で困ったように氷織が笑う。その姿を見て、ようやく餃子に味が戻ったように感じる。


「……ああ。うまい。めっちゃうまい」

「あの、もうわかりましたから」


 氷織があしらうように言う。本心なのに。

 ……にしても、まだアレが残っていたか。もう消えたと思っていたのだが。ひとまず目の前のご馳走を味わうしかない。

 ふと、氷織が口を開く。


「実は、私泳げないんです」


 芯のある声はこの狭い部屋に響く。水泳部エースが、泳げないだと?


「……お前冗談下手か? てか突然なんだよ」

「今日は賢治さんの弱みを見てしまったので。私も弱みを言いたくなりました。これでおあいこです。」

「いや、別にお前がわざわざ言う必要ない……ってか、泳げないってどういうことだよ」


 彼女は箸を置いてかしこまる。

「私、幼稚園くらいのとき、海水浴に行きました。そのとき海で溺れかけたんです。水は流れるだけだと思っていたのに。逆らえない離岸流に流されて、もう無理だって思っていたんです」


 淡々と、ただ淡々と話す氷織。


「でも、そこをライフセーバーのお姉さんに助けて頂き、泳ぐことに憧れを持つようになりました。ですが同時に、離岸流を知った私に、水はとても恐ろしく映りました」

「まさかとは思うが、もしかして灯里って……」


 馬鹿げていると一蹴してしまうような結論を妄想してしまう。なのに彼女はむしろ笑う。


「ええ。彼女は私の代わりに水の中を自由に動き回りました。私は彼女を見守り、その感覚をもらって。ですから私は、まだ泳げないままなんです」


 八咫野は体育の成績も良い。スポーツをするなら別に他のでもいいはずなのに、水泳をする理由。灯里が居る理由。まさかそんなものだったとは。


「ですから、これからも催眠アプリでの協力、お願いしますね」


 あ。そこに結論が行くんだ。


 俺は餃子を再び食べ始める。学校ではなんでも出来そうだと持ち上げられている彼女。氷織がそんな人物だとは知らなかった。でも納得が身に染みていく。その感覚を反芻する度、餃子に旨みが戻っていった。

 そうだ。この餃子は冷めた餃子でもないんだ。


「……てか、氷織はなんでこんなにしてくれるんだ」

「これは交換条件ですよ。最初に言ったじゃないですか」

「いや、にしては手厚いというか。もっとしごき倒すもんだと……」


 氷織は「灯里じゃないんですから……」とため息混じりに言う。

「お前は、俺をどう思っている?」

「どう……とは?」

「いやその、最初の行いからしたら、軽蔑一直線コースだろ」


 やっと納得したようで、彼女は穏やかに言う。


「それは本当にそうです。着替え中を覗き、あまつさえ無かったことにしようとするなど。最低です」

「うぐぉっ」

「ですが、なんだかんだで協力的ですし。何より、灯里があなたを気に入っているんですよ」


 ……。灯里、それはサンドバッグとしてってことか?

 氷織は煮物を頬張り、咀嚼した後飲み込んでからまた続ける。


「それに、私の秘密を知られてしまいましたし」

「それはお前が……」


 勝手に言っただけだろう。と、言いかけて何とか踏みとどまる。

 いつの間にやら俺たちの間には、太い糸、いや縄ができていたのだろうか。あんまり人と関われなかった俺が、なんでかコイツとは話せるのも。灯里に殴られてから変わって。

「……ありがとな」

「まあ、学校ではこれからも接触は控えて欲しいですが」

「アッ、ハイ」


 俺たちは少しだけ冷めた餃子と煮物をまた食べ始めた。それでも不思議と旨みは変わらなかった。

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