第7話:昏倒
さっきは災難だった。催眠アプリの件で詰められるし、変なやつに絡まれるせいで購買のパンは売り切れてるし。まあなんにせよ。今日の俺は、本当に、腹が、減っている! あとは5,6時間目を残すのみとは言えど、腹の虫は容赦なく体力と集中力を奪っていく。せめて自販機でクソ甘いやつでも買って糖を補給しようか? しかし今日はあまり金も持ってないし……。
ええい、こうなったらやけだ。男は根性! 我慢で今日を乗り切る!
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「それで、生天目さんは保健室に運ばれたんですね」
「あはは……あのバカが迷惑かけてすまねえな、八咫野さん」
6時間目前の休み時間。私、八咫野 氷織は、生天目さんに頼んで灯里に変わる準備をしようとしていたところ、木下さんに彼の所在を聞かされました。
まさか、彼が空腹のあまり倒れるとは。運動部でもないのに。いえ、そういえば彼は私が呼び止めたから、彼はお昼を食べられなかったのでしょうか。お見舞いくらいには行きましょうか。
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あと5分しか休み時間も残っていないため、私は覗く程度にしておきましょう。
ちょうど目の前に保健室のドアがありますね。ガラガラと引いてササッとお見舞いをしてしまいましょう。
「失礼しま……」
と呑気に入ったのもつかの間、保健室は穏やかな空気ではなかった。保健室の先生らしき女性の声が、焦燥のままに声をかけている。
「生天目くん! 大丈夫!?」
……生天目さん?
呆気に取られる。彼は空腹で運ばれただけでは? 先生が焦ることって一体……。そうだ。彼の様子を見なければ何も分からない。
急に覚束無くなった足を小走りに動かす。小綺麗な保健室の空気を吸い込んで吐く。
ベッドを仕切るカーテンを分ける。
そこには、ただ虚ろな目で空気を見つめ、脂汗をびっしょりかいた生天目さんがいた。先生の声にまるで反応がなく、ただただ何かに脅えている。吸気は締められるように、呼気は無声で叫ぶように。その異様さを見てしまう。
「なばため……さん?」
漏れた声に反応した先生がようやくこちらに気づく。
「あ、八咫野さん、彼についてなにか知らない? 目が覚めた瞬間、過呼吸になったり、何が何だか……」
私まで視界が転ぶような気に飲まれながら視界を巡らす。空腹とは関係なく、身体的な症状ではなさそう。しかし脂汗と気の動転が著しい。ストレス性、トラウマ。
友人関係? 彼の交流は私と木下さん程度。
家庭?……数日前、彼の部屋での会話が思い出される。
『……去年までは母親が来てたんだけどな。色々あって離婚して、親権を持ってる親父も、ここに来るような性分じゃねえから』
家庭環境、その答えがハマってしまう。しかしあの時、彼は自分からそれを言って、何ともなかったのに。
彼は一体、何と戦っているのだろうか。
彼に触れることすら出来ぬままでいることに、私は何を思っただろうか。気付けば勝手に彼の汗に手を伸ばし……。
しかしチャイムが阻む。
「八咫野さんは帰りなさい。暫くはこのままだろうし」
「……わかりました。ですが、せめてこれだけ」
私は彼の手をこねくり回し、デコピンの形を作る。それをおでこの前まで持っていき、ほぼ小突かせるようにデコピンをさせた。――そして『私』になる。私は手をおでこに当て、ボソリとつぶやく。
「……やっぱバカじゃん」
「あの、八咫野さん?」
「それじゃ、また来るんで」
先程までよりぶっきらぼうな言い方に驚いただろうか。保健室の先生は語調の変化に何度か見返していた。綺麗な2度見3度見だった。
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保健室のベッドでまた目が覚める。伸びをしてから、カーテンが外の光で朱色となっているのに気付く。もう夕方か。
……ああ。あれを思い出してしまったのか。もう、捨てたはずなのだが……。
そういや、さっき八咫野の声がしたような気もする。どっちだかは分からないが。
……帰るか。保健室にバッグも運ばれている。俺は鈍る体を起こし、重りのような体でベッドを発つ。こんな気持ちのまま帰ることになろうとは。時計はもう既に6時を刺している。
八咫野の部活も終わる頃か。人格切りかえは出来ただろうか。いや、俺がこれじゃできないだろう。あいつに迷惑をかけてしまった。
保健の先生はもう帰ってしまったのか。本当に誰もいない空間だ。
廊下から駆け足が聞こえてくる。まさか、部活が終わってすぐにあいつが来たのか? 俺は少し身構え……。
「賢治~大丈夫か?」
「……夏向かよ」
「悪かったな。八咫野さんじゃなくて」
体から力が抜ける。そこはせめて夏向じゃないだろうと嘆息する。
「……アレか?」
「ああ。不甲斐ねえ」
「まあしょうがないさ。それより、結構八咫野さん心配してたぞ」
「……そうか」
「お前、変わらないな。催眠好きも変わらないのかよ」
「多分無理だな。これ以外じゃダメだ」
「……ま。俺は確認に来ただけだ。帰るわ」
「おう。サンキュ」
「気にすんな。友達みたいなもんだろ」
そう言ってから、夏向は手をヒラヒラさせて去る。そしてその数秒後。廊下を荒々しく踏み駆ける音。それはだんだん近づき、やがて八咫野の顔が保健室に見える。
「ハァハァ……あ」
「あ、よう」
「……あ、生天目、その、奇遇だな」
「ダッシュで来といて奇遇はないだろ」
「うるさい。水着は着脱がちょっとめんどくさいんだよ」
また少しため息をついてから、彼女は語調を整える。
「お前、もう大丈夫なのか」
「おう。直った」
「……そっか。」
いくらか安堵が見える。
「それはそうと、お前いつの間に灯里になってたんだな。1人で行けたのか?」
「あー……。いや。あんたの指で無理やり」
「へー。そうか」
少しホッとした。……? あれ。なんだよホッて。
灯里はなんだか少し、申し訳なさげに俯いている。
「あ、その、賢治。これの原因ってあたしたちだったりする?」
「……は? 何言ってんだお前」
灯里ってこんな馬鹿みたいなこと言ったっけか。灯里がこんなにしおらしいのは落ち着かない。俺は何かしてやろうかと思い、少し目を逸らしてデコピンをする。
「あだっ」
「お前は変な雰囲気を出してんじゃねえ」
といいながら向き直る。って、あれ。そういえばデコピンって……。
「うぐぅ、痛いですよ生天目さん。いきなり変えないでくださいよ……」
「あっ、すまん」
「まあ、その、何はともあれ、大丈夫そうで安心しました。灯里も心配してたので」
「あいつが心配って……」
「ダメですよ生天目さん。あの子だって女の子ですよ」
人差し指を突き出して俺の頬に刺してくる。こいつもこいつで距離感バグり始めている気もするが。
「ごめんな。心配かけて」
「素直でよろしい、ですっ」
氷織はにこやかな表情に戻り、地面に置いてあった鞄を持ち上げる。そして……。
「では生天目さん。帰りましょうか」
「ああ……おう」
氷織が差し伸べる手を思わず取り、清潔な堅苦しさを残す保健室を出る。夕暮れの日が彼女の安堵を紅く照らす。そのさまがあんまりに美しくて……。
俺には少し、気持ち悪く見えた。
投稿作業の不手際で、なろうに第六話を更新することができなかったため、第六話と第七話を同時投稿しました。




