第62話:氷織という"温度"
6時間目、移動授業で。
次の日、休憩時間で。
下校のとき、廊下で。
なんども、すれ違って。
でも彼女は、何も言わなかった。
彼女は極めて普通だった。
いつも通り教師の発言に答えた。
友人との雑談に花を咲かせた。
なのに、俺という存在が入る余地がなかった。
曲りなりにも半年は関わったのに。
その事実を前にしても、鳩尾に集まるのは愉快さだった。
気味の悪い笑みを漏らした。
……おれ、なにしてんだろ。
そう胸がつぶやいたとき、そのおかしさで空気がしゃくるように抜けていく。頭がアルコールに浸かる。可笑しい。ああ、なんて可笑しな人間なのだろう、俺は——。
「——おい! 賢治」
俺の顔が掴まれ、夏向の眼前に持ってこられた。
「おまえ、マジで大丈夫か」
「……ぁ、……ふひっ」
漏れた笑いは気色の悪いものだった。
「いったん落ち着け賢治。お前今、やべえぞ」
「別にやばくない」
「やばい。はっきり言う。お前は今壊れかけだ」
深呼吸をしてみる。一つするごとに、脳みそに新鮮な空気が送り込まれるようで、だんだんと沸騰していた脳みそが覚めていく。
「……俺、なんでこんな疲れてんだっけ」
「知らねえよ。でも、落ち付くんだ」
そう言う夏向の顔も、強ばっていた。
「……悪ぃ」
「何があったんだお前」
「俺の、せいだから」
「何言ってんだお前……」
俺は夏向の手を軽く払って、トイレを目指した。
そうだ。元々俺が望んだことだった。
俺は、愛される人間じゃないと、好意を持たれるような人間では無いと確信して来たのに。それがいざ目の前で崩される現実を拒絶して。なのに離れれば俺はこんなにも取り乱して。
「…………何やってんだろ、俺」
でも、何故だろう。このどろりと愉快な汚物に居場所を見出している自分がいた。
このままトイレではなく学校を回るようにフラフラとしていると、電話がなった。画面には非通知と示されている。
怖くなって無視をするも、何度もかかってくる。いい加減しつこくなって、出てみた。
『賢治か』
「……」
父親の声。
『連絡先を消して、あまつさえ無視をするとはどういう了見だ』
「……」
『答えなさい、賢治』
「……この期に及んで、父親気取りか」
『なんだと?』
心臓近くの血管を絞るような感覚。なのに、それ以外は澄んでいるようだった。
「俺は、知らない人の電話は取らないようにって、漫画から教わったんだ。じゃ」
『お、おま――』
切った。
胸の愉快さが溜まる。
そういえば、俺はこいつの遺伝子を持っている。不倫されるような劣等遺伝子を持っている。この人間のようにボンクラでいられる長所も持っている。
母親に似た演技の力と人の気持ちを解さない劣等遺伝子を持っている。けれどだからこそ見捨てられるという選択肢を取ることができる。
その遺伝子を持つ俺だ。
初めから愛情なんてなかったんだ。
無から有は生み出せないのだから。
だから、これでいい。
……今更、自分を疑うのか。
そんなダサいことは、しないさ。
じゃあもう、乙音も夏向も、いいや。
**
俺は、避けた。夏向と乙音と氷織を。なんとおあつらえ向きに席替えが実施され、夏向との距離が離れた。氷織とは近づいてしまったが、あちらが覚えていないのなら問題は薄い。
だから、このままでいい。
俺は息を殺して過ごした。誰とも接さない空気のように。忘れろという催眠をかけなくてもいいくらいに。
無で。
俺は無に浸った。
その日を終え、俺は冷蔵庫を開けた。
食材は無くなっていたが、冷凍庫の奥にチャーハンが残っているのが見え、取り出した。
炒めてもいいタイプのチャーハンだが、フライパンを振るのも面倒だ。レンジで温め、皿に盛り、1人分のスプーンを持って、すぐに掬い始める。
……あれ。チャーハンってこんなにベタっとしていたっけ。いや冷凍なのだから、出来たてと同じとは言えない。いいんだよ、これで。
でもこんなにも単調な味だったっけ。
……料理はどうせ満遍なく味が着くのだからどこかで飽きが来るのは普通だろう。
「――っ」
しゃっくり。その拍子に米粒の塊が喉につまる。必死に胸をたたくが、ちょうどよくハマったのか取れない。水を求めるがそういえばコップを用意していなかったと気づいた。
咳を激しくしながら、よろめいて、水を取りに行く。ようやくたどり着いて、水を飲んでやっと胃に収まった。
体が嗚咽の反応をしたからだろうか。食べすぎでもないのに気持ち悪い。
誰もいない部屋で、味の悪くない冷凍食品を勝手に詰まらせて、勝手に気持ち悪くなっているという絵面。監視カメラでもあれば、どうしようもなく惨めに映るだろうか。
でもこれさえ選んだことだから。全ては俺のせいだから。
……でも。
一人居てくれるだけで、咳と嗚咽が残響する部屋が愉快になっただろうか。
「……すること、何も無いや」
**
そうして、気づけば朝になっていた。
日が昇るまでぼぅっとしていた。
この空間に浸れるのが楽しかった。
楽しくて、3日はした。何も考えず脳みそを溶かすことに自分を委ねていた。
少し眠くなってきた。今日は、もう休んでもいいか。
俺は横になった。
そして眠りに落ちて、しばらくしただろうか。7割寝た状態で、いた時、インターホンがなった。
覗くことすらせず、俺は無視をしたが、しつこくなるそれに顔を近づけた。
すると、思わぬ人物がいた。
『よっ』
「…………石井?」
『不真面目な生天目に、俺がプリントを届けに来たんだよ』
「なんで、お前が」
『悪いか』
「……」
俺はとりあえず、ドアを半開きにする。と、そこに足を掛けられた。
「上がるぞ」
「お前……」
結構な力で開けるものだから、すぐに俺は諦めて、彼を中に入れた。
「……一体なんの用だ」
「だからプリントだよ」
そう言って紙袋を押し付けてきた。中にはたしかに、秋の連絡事項プリントや授業プリント。
「……用事が済んだなら、早く出ていけよ」
「生天目は、礼は言うきちんとしたやつだと聞いていたんだが、聞き間違いだったのか」
「どういう意味だ」
「そのままの意味だよ。お前、今年初めの頃は空元気で生きてたようなやつだったのに。俺が復帰する頃には人に囲まれて、随分マシな人生送ってただろ」
ため息と共に言う石井にふつふつと怒りが湧いてくる。代わりに俺は黙った。
「俺も似たようなもんだが、同じじゃない。だからこそ、お前はもっと人に囲まれてるもんだった。……そのくせ、今のお前はどうだ。惨めだぜ」
「ああ。そうだな」
だから放っておいて欲しい。
「……ふう。さて。長居は無用だな」
俺の念が通じただろうか。とりあえず安堵の息を漏らす。
「あ、そうそう。八咫野と喧嘩してんならすぐ謝れよ。そうじゃないと、孤独死しそうだって八咫野に告げ口してやる」
「勝手にしろ」
「ふーん。女から言わせる男って、世紀末レベルでダサいけどな」
「ほっとけ。どうせあいつは俺の事……」
「ま、いいけどさ」
そう言って彼は立ち上がり、ほんとに帰り支度を始めた。そして、彼は本当に帰ってしまった。
そうして、また安心する居心地の悪さが襲ってくる。
それを感じてから、寝るよりコーヒーを飲んで、生活リズムをひとまず治すことにした。
**
そうして、水曜日には学校にまた来ていた。けれど、居心地が悪いのは家以上だった。
夏向を避け、乙音を避け、石井を避け。三上を避け、緑川を避け、母野を避け。今は知人と会うことが毒のように感じられていた。
一人で居た。
忘れてしまった数年前のように。
だから、このままで。
そうして昼休み。何もすることがなくなって、うろつく。
廊下の反対から、氷織が歩いてくる。緑川と三上と話しながら。
俺は下を向いて存在感を消して、そのまますれ違おうとした。
――その時だった。
「ちょ、ちょっと氷織?」
「……な、なんです?」
「いや、なんではこっちのセリフだって。なんで泣いてんの」
「――え?」
俺は去る。去らなきゃいけない。今この空間にいれば、何かが壊れると脳が警鐘を鳴らす。
壊してはいけないこの居場所を、守らねば――。
「……待ちなさいよ」
刹那。声が響いた。
その声は緑川でも、三上でも――ましてや、氷織のものでもなかった。
彼女はキッと俺を睨んだ。強く、怒りで、哀しみで、憎悪で。
氷織ではない彼女は力足をいっぱいに踏んで迫っていくる。
逃げなければと、そう思った時には既に胸ぐらを掴まれ固定されていた。
「逃げる気?」
「……」
「逃げるのかって聞いてんでしょ! 賢治ィ!」
――名前。久しぶりに聞いた気がする。胸ぐらを掴まれているのに、何故か、逃げる気が失せていく。
「あんたは、自分が何したかわかってんの」
「――ああ。殴りたきゃ殴れよ。嫌いたきゃ嫌えよ」
一縷の望みのような彼女に嫌われれば今度こそ俺は――。
「そんなの、無理に決まってんでしょ! あの子は、あんたのことが好きなんだから」
――そんなわけ。俺のような人間を。
「あんたはバカ! 大バカよ。何がって、あたしたちがあんたを、この期に及んで嫌いになると思ってること!」
――俺は嫌われて当然で。
「今更あんたの馬鹿みたいな行動ひとつ見たところで、嫌いなんてない! むしろそれ含めて向き合うって、ずっと前から決めてた。……なのに、他でもないあんたが! 水に慣れるより前に抱いた感情を! 他でもない賢治が否定するな! あたしたちをバカにするなぁ!」
彼女の顔は、もうめちゃくちゃだった。めちゃくちゃに泣き腫らして、もうわけがわからなくなっているようで。
「あたしは、もうあんたを殴れないから、だから……賢治のバカぁッ――!」
泣き崩れる灯里を受け止め、呆然としている緑川と三上に一礼してから、灯里を借りて、一度場所を移す。
「バカ。バカバカバカバカバカ」
「……いつまで言うんだよ灯里サン」
「言い足りない。バカ賢治」
灯里は俺にパシらせた焼きそばパンを、泣き腫らした顔で貪る。
「……氷織の記憶はしばらくは戻らない。これは状態じゃなくて、本当に脳が自分から封じてるから」
「どういうことだよ」
「告白する時、あんたが、実質的に、こっぴどく、最悪の形で振ったからよ。バカアホマヌケ」
読点ごとに俺の額に指を押し付けてくる灯里。それに抵抗をする資格が俺にないのは、明らかだった。
「そんな最悪の拒絶で忘れたがったの。それを催眠アプリがサポートした。だからまじで忘れちゃったの。あんたのことをね」
「……そう、か」
「んで、どうするつもり。稀代のバカの賢治は」
「……俺、は」
つまりは、氷織のあの温度を得られる日はないということだろうか。その事実で、体の芯が消えるような心地がした。
「ふう。あたしはすっごく恥辱を晒したんだから、あんたもちゃんとやんなきゃダメだからね。……ちゃんと、腹を括りなさい」
そう言った彼女は立ち上がり。
「……時間っぽい」
「お、おい。どこ行くんだよ」
「そりゃぁ、元いたところに? 教室に戻さないと混乱しそうだし。これで私の出番は終了」
灯里は飛ぶように距離を取って。
「さようなら。あたしの分まで、幸せになってね」
そう言い残して、走り去って行った。
その背を眺めても俺は追うことも出来なくて、ただ俯いた。
だから俺は、独り立ち上がって。
一人、覚悟を決めた。




