第61話:馬鹿野郎
俺は、スマホを掲げた。
——こいつの記憶も……。
「先輩? どうし——」
乙音の瞳がとろけた。催眠待機状態。
「乙音。俺のことを、もう忘れ——」
そう続けようとしたとき。乙音が、不意に乙音がシャツに手をかけた。呆然としている隙に一つまた一つとはだけさせて……。
「何やってんだお前ェ!!!!」
「……リラックスするとき……脱ぐ」
「何やってんだ馬鹿野郎め!」
どうでもいいことを思いだした。こいつ、催眠をかけると脱ぐんだった……!
俺は必死に乙音の手を抑えるが、それでは何も解決しないことに気づいて、電源を切る。
直後、彼女の動きが止んだ。
「……あれ。ボク何して……ハッ。先輩の部屋、はだけた服……事案っすね!?」
「お前が勝手に脱いだんだよクソ!」
乙音がそれを聞いて、思いだしたように顔を神妙にした。
「なんか、こんなことが前にもあったような。……先輩、もしかして、そういうことっすか」
「ッ……」
俺は、弁解の言葉を持たなかった。
「……先輩、確か、『俺のことは忘れろ』って、それ、」
乙音は何も続けなかった。けれど必要もなかった。
俺の下手くそな晩飯だけがそこにとどまっていた。
腹が鳴る。けれど欲することはなくて。その腹を労わるような空気はどこにもなくて。
乙音が顔を上げた。その時に俺を見る目は——間違いなく怨嗟の目だった。
俺は息を呑むばかり。乙音の見たこともない顔にまた、目をそらす。
そのまま、数分経っただろうか。その時に、すするような声が、聞こえてきた。
「……ざけないでよ……なんで。……あなたは、まだ、知らないふりを……」
まるで彼女がしないような言葉遣い。
思わず、見てしまう。
ぽつぽつと、顔から滴らせる乙音の顔があった。
「伝わらなかったんですか。私たちの、気持ち……。見なかったんですか。あの人の、表情……。聞かなかったんですか。私たちの、言葉……」
後半に連れて、もはや聞き取りづらくなるほどにしゃくりあげている。呼吸すらままならないくらいに、泣きじゃくる少女がいた。
彼女は、俺が目を背けたかったことを、羅列していた。
「……せんぱい」
乙音が俺にうつむいて言う。
「一発殴っていいっすか」
「なんで!?」
「なんとなく。というか今更殴られずに許されようとか思わないでほしいっす。普通にやってることド屑っすからね!? むしろ刺さないだけましっすから! 目ェ潰してえっすよ!」
「お前マジで……わかったから!」
「じゃ、遠慮なく!」
乙音が勢いよく腕を振りかぶり、
「オラァ!」
——鳩尾に一閃した。
「おっ……ごァ……」
痛いというよりも気持ち悪さがせり上げてくる。……あ、しかも飯食ってたから……。
あ、吐く……。
**
「……ふぅ」
「いい気味っス」
俺はトイレから出、一息ついた。
正直今の体調でまずい自作晩飯を食べるきにもならない。
捨てるのもはばかられて、とりあえず冷蔵庫に押しやった。
「この先をとやかくは言わないっす。ボクの役割じゃないっすから」
「……ほんとに帰るんかい」
「そりゃそうっすよ。……ちゃんと然るべきことをして、叱られてくるっすよ」
「やかましいわ」
クソギャグを吐き捨てて帰るところは、こいつらしいちゃらしいのだろうか。
すぐにドアがガチャリと閉まり、また俺は部屋に一人になる。
さっきの騒がしさで紛れた孤独感が一層大気に充満している。
ここ数日は、毎日といっていい程もう一人いたのに。
でもそれを拒絶したのは俺自身で。
——あいつの手を取った先にある景色は明るい水面下なのだろう。でも、俺はそんな光を知らない深海の人間なわけで。
きっと目が潰れるだろう。
きっと潜水症のように、その生活に耐えられないだろう。
好意を持つのも、持たれるのも、そんなに不確実なものを差し出し続けることなんて。
ただ、今のまま、氷織のいない生活というのも嫌だ。
……もう一度、声だけでも聴きたい。
だから。
俺は、アプリを開く。
氷織を催眠していることを表す「催眠:八咫野氷織:記憶消去」と書かれたタグのバツボタンを押した。
……向き合おう。彼女と。
俺はスマホを握りしめて、明日の準備だけして寝た。
**
そして翌日。
手汗がやっばい。緊張し過ぎて、いつもギリギリの時間だったのに。朝のHRの40分前に学校にいる。相変わらずわかりやすすぎるだろうか俺は。わかりやすいな、うん。
そんな中、ドアの開く音。氷織かと思って体が瞬時に向いて——。
「……」
「……」
登校してきた石井と目が合った。
「……何見てんの」
「い、いや、石井だったか、と」
「……八咫野じゃなくて悪かったな」
「そ、そそそそそういうわけじゃないが???」
「わっかりやす。せめてもっと隠せ」
「うっせえな」
石井は席へ戻り、俺はまたそわそわを再開する。
そして、HRまで10分といったとき。後ろの扉から見覚えのある人物、氷織が見えた。
……が。今度は緑川と三上と一緒で。どうしても話しかけられなくて。
俺は、体を椅子と机の間に収めて、時間をやり過ごした。
そして昼休みになり、二人がトイレにでも行っただろう頃を見計らって、近づいて。
……俺は、言わなくちゃいけない。
「氷織、その、言いたいことがあって、」
氷織はきょとんと眼を丸くした。
「その、今更、なんだって、思われるかもだけどさ。あの、俺——」
「すみません、どちらさまでしょうか」
ただ乾いて、俺のなかに響いた。
「……へ?」
間抜けな音を漏らす。
————ドチラサマデショウカ。
その意味を掴み損ねる。
「ええと、すみません。クラスメイト、ですよね? なのになぜか、わからなくって。もしかして私が休んでいる間に転校されてきたんですか」
「え、あ、……へ? いや……」
——なんで?
「なんでも、ない、です」
俺は、あたまをまっしろにして、
とぼとぼと席についた。
なんで、なんだ?
なにがあった?
あいつは、催眠で忘れてただけで。
忘却は、状態で。
だから、解けば、治るはず。
なん、で。なんで。
「……はっ、ははっ……」
乾いた笑い。笑いなのかも怪しい。自嘲が腹からこみあげてくる。
そのとき、灯里の顔が浮かんだ。そして同時に、ふと昔プレイしたゲームを思いだした。
——もしかしたら、いままで氷織に催眠が効き辛かったのは、灯里が守っていたからだろうか。
今になってアプリを超えて効くなんて。
それともこれは、あいつへの返答を、心の中で先延ばしした罰だからだろうか。
それとも演じた罰だろうか。
それとも俺のねじ曲がった性格のせいだろうか。
それとも俺の顔のせいだろうか。
それとも俺が何もしてやれないからだろうか。
それとも俺が生まれてきてしまったからだろうか。
それとも俺という存在が酸素を吸って無駄にして吐く息にきもちわるい情報を載せて空間にいる全員に不快感をもたらして俺という存在が万人に不幸を及ぼしてこの場の全員の人生に汚点をつけて回っているからだろうか。
それとも——。
圧迫する思考が、頭に伝わる衝撃で抑えられた。
頭を上げると、夏向がいた。
「おまえ、大丈夫か」
「……ぇ?」
「顔」
……やっぱり俺の顔はそんなにおかしいだろうか。
「なんで、……笑ってんだ」
その言葉を聞いて、ようやく、俺の表情筋が攣りながら上げられていることに気づいた。
なんで笑っているのかわからないのに、胸中がおもしろくて仕方がなかった。




