第60話:忘却メズマリズム
黒板には「進路希望調査」と、でかでかと書かれていた。
「お前ら。進路は早めに決めておくに越したことはないからな。決まってないなら高めの所、それと職種も、決まっているのなら書いてもいいからな」
そしてプリントが配られてくる。この学校は無駄に進学実績に貪欲だ。巻き込まれるこっちの身にもなって欲しい。
後方に空席を見つける。
――あれから数日、彼女は来ていない。
心にぽっかりと穴が空いている気がするが、だからこそ洞窟のように雨風を凌げるのだと。
チャイムが鳴った。教師が教壇を去ってクラスの空気が一気に緩む。
夏向が俺に耳打ちしてきた。
「なあ、お前、八咫野さんのこと、なんか聞いてないか?」
胸に染みる鈍痛。それを無視した。
「さあ。何も聞いてないな。LIENでもしてみるか」
夏向の面前だ。形だけでもLIENを開いて見る。……俺が今送ったところで、彼女はどう思うだろう。
――ちゃんと記憶は消えているのだろうか。
もし記憶が残っていたらどうしよう。
想像が掻き立てられ、手に汗が滲んでいく。
「どうした賢治」
「……なにが?」
「いや、ちょっと息乱れてないか? 具合でも悪いか」
「少し教室が寒いかな」
俺は演じた。いつも通りの自分をイメージすれば、演じるというのは案外できるものだ。ただ他人ではなく自分の、特定の感情を隠すだけならば。
「そういや賢治お前、結局進路どうすんだっけ」
「正直、まだ決まってない。なりたいものも、なくて」
「……そっか」
夏向はまた前を向き、分厚いテキストを取り出した。よく見れば難関大レベルに合わせた参考書だ。
こいつは医者になるんだっけか。あっちの、隅にいる石井と同じく。
石井もなんか厚い参考書を見ている。……あいつもすごいんだったな。
そのころ俺は、先日のことを引きずって。
「俺、何してんだろ」
そう口から漏れ出た頃。教室の後方にざわめきが起きた。ちょうど石井の席のあたり、ドアの方。
その姿を確認して、顔をそらした。
「八咫野さん大丈夫?」
「みなさん、ご迷惑をおかけしました」
「体調は?」「何か病気?」
「え、ええと。頭痛が少し。でももう大丈夫です」
氷織は自分の席まで移動して、次の授業の教科書を机の上に広げる。
周りで心配そうに聞く周囲に大して一人ひとりに応えているうちにチャイムが鳴り、次の授業が始まる。
**
放課後になって、ぞろぞろと帰り始めるなか氷織はそのまま水泳部へ向かっていった。
それを見た夏向が不思議そうな顔をする。
「なんか八咫野さん、お前のこと無視してね?」
「……そういう日もあるんじゃないか」
「にしてはなんか……、お前なにか知ってたりしないのか」
「知らないよ、何も」
今度は廊下を駆ける音がした。
「せんぱーい!」
乙音が急ブレーキをかけながらその体勢から教室に入って来る。
「あれ。生天目先輩、氷織様どこ行きました?」
「あいつは、水泳部に行ったんじゃねえか」
「チィッ! 行き違いは愛の所在! ボク、行くっす!」
駆けだす格好を取る乙音。すると、思いだしたように手を伸ばしてくる。
「どうせなら先輩も行きましょ」
「……俺はいいよ」
「何でっすか。氷織様も、先輩がいたらやる気出るっすよ。あ、でも水泳中は灯里か」
「灯里……」
ふと唇にあの感触がよみがえる。
あいつは、結局、どうしたのだろう。
「そもそも俺は男なんだし。行ったら覗きだろ。俺は行かんぞ」
「えー」
「その代わり、灯里によろしく頼むな」
「えーっと、は、はい。わかりまし、た?」
顔を傾ける乙音。それを見送りつつ、俺も帰宅の準備をした。
そして冷蔵庫を開くと、いくらかキャベツと豚バラ、もやしなど。それと万能中華調味ペーストもあった。
「……野菜炒め、か?」
俺はそれらを組み合わせて、刻み、とりあえず塩コショウと調味ペーストを適当に噴射して煽ってみる。
意外に煽るというのも行けるものだ。
踊るキャベツの一つ一つに感動しながら、やがてさらに盛る。
しかしご飯を忘れていた。あとみそ汁。
パックご飯を温めながら、みそをだしパックをぶち込んだ鍋に溶かしいれる。
えーと。みそ汁ってぼこぼこした方がなんか出汁取れそうだよな。うん。
などなど、八時を回るころにようやく箸を持った。
野菜炒めをつまむ。
「……しょっぱ」
調味ペーストを入れ過ぎただろうか。そんなに失敗要素は見当たらなかったのに。
次にみそ汁。すするが、しかし何か物足りない。例えばそう、味噌の香りが死んでいるような。
……あれ。
俺はスマホを起動し、LIMEを開いて氷織の連絡先を開く。訊こうと思って打ち込んで、ハッと気づいた。
「……何やってんだ俺」
AIでも訊けばいいのに。
ふむ。味噌は沸騰で風味が死ぬのか。思っていたより繊細なものだったんだな。
と、その時。インターホンがなる。冷や汗をかきながら確認すれば、顔が蒼い乙音だった。
「どうした」
「……ちょっと、訊きたいことがあって。いいっすか」
いつもの活気もない乙音に戸惑いながらも、鍵を開けてしまうのだった。
「すみません、夜分遅くに」
「全然大丈夫だ。俺も俺で、自力の料理に四苦八苦してたから」
「……」
俺の軽口にも反応できない乙音。とりあえず、ということで乙音を座らせた。
「んで、どうした」
「……今日、氷織様のところに行ったっす。それで、先輩の言う通り、今は灯里っすかって言ったら、キョトンってされて。……『何を言ってるんですか』って、感じで。先輩に言われたんですって言ったら、『木下さんのことですか?』って」
どういう、ことだろう。
「氷織様が、先輩のことを、忘れちゃったんじゃないかって……氷織様、どうしちゃったんですか? 先輩はなにか知ってるっすか!?」
いや、そんなことよりも。
「氷織は、灯里のことまで忘れたのか」
「た、ぶん? 言っても心当たりは無さそうで……」
「そう、か」
灯里というのは、俺と氷織が見た幻想だと、彼女自身が言った。そして別人格のように記憶を独立して持っている。……消失で、それにまつわる出来事が無くなっていても不思議では無いのだろうか。
二重人格もののラストはいつも、どちらかが消えて決着と喜び合う。
でも。
氷織自身はそんなこと望んでいなくて。
人格統合の治療なんてしてなくて。
だからこれは……。
タイムリミットなんじゃないかと、思ってしまった。
俺が灯里を選ばなかったから?
いやもっと言えば、俺の命令が灯里にまで侵食した?
分からない、分からない分からない分からない――。
「――ぱい、先輩!」
「ッ! ……ご、ごめん。なんだっけ」
「なんだっけじゃないっすよ! 今先輩、息がすごく荒くなって……」
目の前の乙音が涙目になる。……俺が倒れた時のことを思い出しているのだろうか。
……こいつだって、なんで俺に構うのだろう。
俺になんて、構う意味がないだろうに。
――こいつにもやってしまおうか。
目の前で泣かれ、俺の空間にこんなにも侵入してくる後輩。こいつは元々氷織目当てで来たはず。俺のところにいる理由なんて、ないだろうに。
とたんに目の前の人物が目障りになってきた。
だから俺は――。
スマホを掲げた。




