第57話:訣別のまえに
冷蔵庫のタッパーにあった余り物を、レンジで温め直して食べる。氷織はまだしばらく、演劇の後処理だとか文化祭の雑務だとか後夜祭の約束だとかで帰れないそうだ。
外はもう暗い。けれど俺は、なんだ憑き物が落ちたような感じだった。いや実際に落ちたのかもしれない。
麻婆豆腐を皿によそい、脇にご飯を並べ、その逆に味噌汁を。そして手を合わせる。
「いただきます」
スプーンで餡をすくって口に運ぶ。うん。美味い。
味わう傍らで、思い出していた。
あの母親は、どうして俺を育てられたと思ったのだろう。俺のような無知の馬鹿でも、これが母親だとは思わなかった。不倫したことそのものよりも、愛されるべき人から愛されていなかったことを知ってしまったから、俺はあの人が嫌いなんだ。
それまでは、あの人は、完璧な母親出会ったのかもしれない。それでも、裏切られたのは事実だった。
「……ごちそうさまでした」
氷織が作ってくれた麻婆豆腐を完食し、皿をシンクにおいて、洗剤をぶっかけ、スポンジで擦る。見よう見まねだが、家事も案外やっていけるものなのかもしれない。
ふと、窓の外を見る。あっちには氷織が居るのだろう。俺は1人の空間で胡座をかく。
スマホにも手を伸ばす気がなかった。なのに、バイブレーションが机を細かに叩いた。それも、——何度も。電話だと気づいて、体が強張りながらもスマホを覗く。相手は、父親だった。
思い出した。俺の家族は、まだ終わっていなかったのだと。
指をスライドさせ、耳にスマホを当てる。
「……もしもし」
『もしもし。賢治だな』
「ああ。なんの用」
体全体が警戒の音を鳴らしている。
『その、演劇、みたぞ』
「っ……」
『遠目だったが、いい演技だったと感じた。まるで舞亜を観ているようだった。いや、舞亜のようといったら、舞亜に怒られるだろうか』
俺は、ただ呆れた。母親の名前を出すことは、古傷を抉り出すようなものであるのに。今は彼女を後ろに置き去ったことでようやく吐かずに済むほど。そんなにすぐに胸の中で解決など出来るものではなかった。
『学校は、どうだ。いじめられていたりはしないか。高校生のいじめは顕在化しづらいともいうからな。もしすこしでもそう感じたなら、迷わずいうんだぞ』
ああ。この人はいつもそうだ。
『独り暮らしは順調か。その、食習慣とか』
遅い。遅すぎる。今更独り暮らしを心配するなど。もう1年と半年は経過しているのに。……いじめのことなら、俺が中学生のころに気にするべきだったろうに。この前電話した時よりも明るい声色なのは、許されたと思っているのだろうか。
「あんたは、今でもあの人を好きなのか」
義務的な物言いの父親を押しのけるように言った。
『……好きだよ。嫌いになんてなるものか。裏切られること込みで、私は彼女の誘いに乗ったんだ』
息を呑む。てっきり、あいつがこの人をたぶらかしてまんまとはまったのだと思っていたのに。
『舞亜は売れない役者だった。けれどそれは時間の問題で、変幻自在で実在感のある演技は私の心を強く惹いた。まるでその台本の人生を本当に生きたように。だから彼女に誘われた時、思ったよ。この人はまた、新たな人生を歩んだことにして、その経験値でまた檀上に立ちたいのだと。ファンとしてこれに乗った。そして時間は流れ、彼女は、不倫をした』
最小限の説明をこなし、彼は一呼吸を置く。すこし父親の声が震えた。
『……本当の人生を、舞亜は歩み始めたんだ。役を無視して結ばれたい人と出会ったんだ。だから私は、彼女を責めることはできない。嫉妬はするけれどね』
彼が話し終えて張り詰める静寂。俺はもちろん遠慮なく裂いた。
「それが、俺に関係あったか」
『……賢治?』
「ああ、思い出したよ」
……俺はこの人の息子じゃなかったんだ。彼は今に至るまで、息子よりも妻を愛していた。息子という存在を見ていなかった。
それなのに、俺はこの人の息子だった。こうやってひとりでに話始めるところも。一人でかってに諦めるところも。無器用で愛し方を知らないことも。誰からも愛されないところも。
「知らねぇよ。子供の成長には母親の愛情が必要だって、教わらなかったのか。不倫をされていいような関係が、夫婦だと本気で思っているのか。そもそもお前らは本当に夫婦だったのか」
今までに胸のなかにあった言葉が、ふつふつと熱を帯びていった。
『け、賢治?』
「知らない、知らないんだよ。お前らの物語は。俺にっ、なんの関係があったんだ! てめぇらの独りよがりな御託に俺を巻き込んでんじゃねえ!」
もう、電話口からくる声は耳に入っていなかった。
『賢治、お前の言うこともわかる。しかし私も——』
「わかってない! わかってるやつが保身に走って言うものか。わかっているやつがこれでいいなんて、言うものか」
俺は、自分がこの人たちを親と思っていなくてよかったと思った。けれどどうしても、この人の息子であるという生物学的な事実は変わらない。
「さようなら。父さん。もう2度と、あんたを父さんとは呼ばないよ」
『お、おい! 待ちなさい!』
ブツン。そして彼の連絡先を消した。彼からは電話ができるだろう。しかし俺からなんて、してやるつもりはない。
けれど、そうだな。
「……俺は、そういう人間のもとに生まれたんだった」
これが、俺にとっての、家族の形だった。家という場所で繰り広げられた相関図だった。それが当たり前だったんだ。
目を覆って、天井から照らすまぶしい灯りから目を背ける。久しぶりに電気を消して、自分の部屋に籠ろうか。そう考えた矢先、スマホが鳴った。今度は一度の振動。メッセージだ。億劫になりながら開くと、氷織だった。
『ご飯、もう食べてしまいましたか。』
『麻婆豆腐食った』
『すまん』
『いえ。では私は打ち上げの方で食べてから寄りますね。』
え。打ち上げなんてものがあったのか。いや、でも俺は一応けが人なのだから、誘われていないのはむしろ心配された結果……。
「さみしいな」
口から洩れた言葉に少し驚きつつ、スマホを閉じようとする。そこでカレンダーが目に付く。そういえば来週末は氷織に誘われたんだっけ。確か夏休みのご褒美みたいな。一体なにをされるのだろう。何が起こるだろう。
ふと、嫌な気配がした。
「まさか、な」
氷織に限って、それはない。あいつはアイツで、俺をちゃんと貶してくれるやつだ。俺が舞い上がりすぎないようにしてくれるだろう。
……ただ、俺はスマホを眺めた。
**
そしてメッセージを受けてから思ったよりも早く、インターホンが鳴った。
「賢治ー来たわよー」
「……なんでまた灯里?」
「ふふ。その、タイミングが悪かったのよ……」
……突発的に入れ替わるやつ、打ち上げ中に発動したのか。難儀なものだなこの効果。
「んじゃ、ちゃちゃっとこの食材冷蔵庫にぶち込んじゃうから」
「お前だって疲れてんだろ。そんぐらい俺がやるっての」
「ダメよ。あたしは確かに疲れてる。けれどあんたはけが人よ。寝なさい」
有無を言わさぬ瞳で睨まれ、引き下がるしかなかった。
「というか、何で来たんだ。食材だけか」
「なによ。用事がなきゃ来ちゃダメなの」
「いや、なにかしら用事がないと、そもそも男の部屋に上がるなんてイレギュラーだろ」
「そんなの今更じゃない」
確かに。って、すぐに論破されるとは。
「んで、いつまでいるんだ」
「うーん。帰るの面倒くさいな」
「なら来なくてよかったんじゃねえのか」
「うるさい。肩もみの刑に処すわよ」
「ええ……?」
灯里が寝転んだ。俺はそれを見てため息を吐いたが、自然と不快なものではなかった。
そのとき、灯里がむくりと立ち上がった。
「ねぇ賢治」
「どうした」
「デコピンしてくれない」
「氷織に替わるのか。そりゃ、またなんで」
そういうと、灯里は口を横に結んだ。
「気づいたんだ。やっぱり好きなものは、二つ同時に手にすることが、できないんだって」
「……??」
俺がはてなを浮かべる間に灯里が俺におでこを差し出す。
「ん」
「ほ、本当にいいのか」
「早くやりなさい。あたしの気が変わらないうちに」
そういうので、とりあえず灯里にデコピンをする。これも何か月ぶりだっけ
「あだっ!」
そうして、目の前の少女は体から暴力性が抜け落ちた。
「ひ、久しぶりの感覚です」
「痛かったか」
「ハイ。本当に痛すぎて涙が……あれ?」
「氷織?」
「わたし、なんで、泣いて?」
氷織が呆然と涙を流すので、とりあえずティッシュを差し出した。
なぜ彼女は泣いているのか、……誰の涙なのかもわからなかった。
俺はふと、スマホに移ったカレンダーを見つめ直す。何かが終わるような、そんな予感だけが強烈に胸を支配した。




