第52話:まだダメ
翌日。俺は机に突っ伏していた。ここのところ吐きすぎである。気も失うし。もしかしたら貧血なのだろうか。
……なんて、本当は既にいくらか心当たりがある。あったことを、思い出している。俺は、一体どうしたのだろう。なんで、こんなことで。
「――じ、賢治やーい」
「…………」
夏向がこちらを覗き込んでくる。
「……んあ?」
「おお、やっと起きたか。夏休み明けのテストが返されてるぞって」
「あ、お、おう」
その直後に名前を呼ばれる。地理のテスト。37点。一応ギリギリ赤点ではない。夏休みの宿題の成果が出ていることにほっと一息つく。
……ふと気が向いて隣を眺める。が、見たことを後悔した。
「ん?」
「……チッ。88かよ」
「まあまあ。日頃の行いだなァw」
「テメー煽りやがって」
「事実だろ。赤点回避して欲出てやんの。お前が俺に勝とうなんざ1年は早い」
妙に現実的な時間を示してきたな。
「……本当に欲が出てきたな」
「お、ついに賢治も勉強に目覚めるか?」
「でも壮大な疲労感が既に身を焦がすな」
「ダメだったかー」
そして段々とテストは返されていき、終わりが見えてきた頃、八咫野も呼ばれる。遠目にでも丸しか見えない。
そのまま答案を受け取り、変わらぬ表情で席に戻る。その横顔には昨日の寂しげな灯里の顔が重なって、すぐに消えた。
「どうかしたのか、賢治」
「あ、いや。八咫野はどうせ100点だろうなぁって」
「ははーん。そんなに気になるのか、八咫野さん」
「ま、まあ。関わりがあるし」
「とか言っちゃってまー。目で追うのは色恋の始まりだろ?」
夏向の言葉を理解するとき、途端に、背中を刺すような怖気が走る。指先の血が引く感覚。
「別に、そういう訳じゃない」
仄かな後暗さが胸を締める。
「ふーん?」
夏向は机上の答案に目を移しながら「……まだダメか」と呟いた。
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放課後になり、演劇の練習が始まる。それを今日は三上が取り仕切っていた。
「あ、晴美ちゃんはもっと口角を広げて発声して」
「こ、こう?」
三上のアドバイスに緑川がギクシャクとしながらも応える。
「木下くんはもっと嬉しそうに」
「うれ……しい……こ、こうか」
「それはウザくなっちゃうかな……」
ウザイという言葉を女子から言われ、すぐに落ち込む夏向。
「お、俺はどうなんだ」
「生天目くんは……えーっとね。まずなんだけど、この役のこと、どう思ってる?」
「そりゃあ、疲れるなって」
「そうじゃなくて。この役。小人をどう思ってる? 彼はどんな役割で、どんな展開を持つのか。どんな考えで終始行動しているのか」
「……ほかの小人と同じだろ?」
「それだよ。生天目くんは、演技というか、演技をしていないから。……もちろん、色々あったんだからできなくなっちゃうのもしょうがないかもだけど、演技を頑張るんだったら、この脚本に入り込んで、小人の役を回さなきゃ」
……たしかに今まで、台本を読み上げるのみだった。その時点で間違っていたのだろうか。
「あと、その役結構重要だよ」
「え?」
「だってその役、裏切るもん。魔女との内通者」
「…………は????」
改めて台本を見返す。すると俺の役、ごきげんと魔女のシーンがあった。
「……なに、これ」
俺だって、歌のような細部は知らないとはいえ、あらましはわかるはずだ。……脚本担当、ここぞとばかりに要素を詰めやがって……。
「このごきげんはなんで裏切ったのか。なんてことも書いてある。でも、それだけじゃこの役には入れないから。彼を理解しなきゃいけないんだよ」
「……理解」
俺はもう一度台本に目を落とした。
要約すれば、ごきげんは王女の口にまんまと騙され、白雪姫を助けるために最初に白雪姫を殺そうとする。そしてその後、王子が送るリンゴに毒があることに気づきつつも止められず、白雪姫は昏睡状態に。
ごきげんは何とかして彼女を目覚めさせようとするが、結局王子のキスには敵わない。そして王女を懲らしめるパーティーにいちばん精を出すのだった。
「……やっぱり、改変が甚だしいな」
「そうだね。その分オリジナリティーもあるから、入賞するか酷評されるかだね」
何せ、役決めと脚本制作はほぼ同時進行で決まり、脚本家のやつが書きまくることで成立したこの劇。俺がこんな役になるなんて思いもしなかった。しかし、ここまで来た以上やるしかない。
俺はとにかく台本を何度も読み返す。それを見て、三上はいつの間にか俺の近くを離れていた。
作中でごきげんは、まさかの2人目の主人公のような扱いを受けている。もちろん観客は白雪姫に、王子に感情移入して、王女に悪感情を向けるだろう。しかしこのごきげんは両方を受ける資格がある。そして成就しない想いを抱いている。
……俺は「ごきげん」として、白雪姫である氷織を守る人物にならないといけない。こいつのアイデンティティは陽気であることだった。それを捨て、思い悩んでいくこいつ。こいつのことを、でも誰も非難できないだろう。
脚本家の野郎、随分と神様が降りてきたらしい。俺は、こいつになりたい。
こいつの役割は、きっと俺自身とは違うもの。だけどこいつがすることは嘘に思えなかった。今まで、俺にとって演技はイコール嘘だった。けど、俺がこいつを演じるのは嘘だろうか。少なくとも、文字の中に生きるこいつは、嘘をひとつもついていない。
ただ羨ましい。1人のためにそんなに悩んで、振り回されて、後悔して、悔しさを孕んだ祝福をできることが。
俺は、お前になりたい。
お前を演技させてもらうぞ。そして、教えてくれ。
「よし」
俺は立ち上がって小人役の稽古に戻る。
「あ、生天目くん、もう大丈夫?」
「ああ。なんとなくわかった気がする」
そういうと三上は満足そうに、しかし眉を下げて言うのだった。
そして時間は経ち、
「ヤ、ヤッター。僕のナイフがかわいい子に使われたー」
「「「……」」」
「なんだよ」
「いやー。やっぱ棒だな」
やはりどうしても最初のセリフは感情移入できなかった。こいつ、ごきげんじゃなくてヘンタイに名前を変えるべきじゃないか。
「まあでも、その先とかはだんだんぽくなってきたし、大きな進歩じゃん」
緑川が胸を張る。お前は何もしてないぞ。
と、その時、ドアの方に石井が見える。
「そっちは順調」
「うん。だいたいは。生天目くんもまあ……素人レベルになったから」
三上が彼に答え、石井が俺を怪訝な目で見る。
「なんか文句あっか」
「いや、まあいい。というか、王子役とは言え出番が多いわけでもないから、お前らの方が大変だろ。脚本的に、特にお前」
相変わらず何を考えているか分からない石井。だが、彼にそう言われると途端に腹の中で沸くものがある。
緑川が割って入る。
「本番までまだあるけど、明日の2時間目の数学が練習になるから、そこで1度、キャスト全員で通してみましょう」
その言葉にその場全員が頷いた。
俺はこの掴んだ感覚を逃さぬように拳を握りしめる。今まで逃げてきたものと向き合うように。もう一度文字に生きるごきげんを目で追った。




