第51話:更ける
たちどまる。そんな俺に合わせて、灯里も止まった。
秋が近づいている。気づけば街灯が灯っていた。
「な、え?」
「……」
困惑する俺に、灯里は何も言わない。俺が何かを言うまで、何も進まない。そんな気がした。時間が止まったように、けれど少しずつ影は伸びていく。
何かを言わないと行けない。「何か」が今すぐ必要だ。でも、足すら動かせない。
灯里が、消える?
「……ぁ、」
声を漏らせど、進まない。何か、間違っていてもいい。笑い飛ばして欲しい。
「なんで、そう思うんだ」
灯里は少しびっくりして、それからしょうがないというように笑った。
「……なにそれ」
「いや、分からないだろ。原理、そう、因果関係がない「あるよ」
一言、被せられた。灯里は道の先を見ている。
「あたし、最近気付いたの。『灯里』って存在はいないかもしれないって。氷織とあんたが見てる幻覚なんじゃないかって」
「なに、言ってんだよ」
灯里はゆっくり歩き始めた。待ってはくれないようで、追いかけるように俺も歩み始めた。
「ほら、あたしらの関係って、あんたの持ってた催眠アプリが始まりじゃん。でも効きが悪かったり。……それって、あたしのせいだったんだなーって、何となくわかったんだ」
まだ空気は冷える時期じゃない。けれど俺の表皮は冷や汗ばかりを流す。
「あたしがなんでこんなに、泳げて、大雑把で、気性荒いか。分かる?」
俺はそんなに多くを知っている訳じゃないし、会った時間も少ない。それでも、ひとつ心当たり。それを口にする前に遮るようにまた始まる。
「ライフセーバーの、あのお姉さん。海の家で良くしてもらって、仲間とコミュニケーションに小突いたりしてたって。そしたら、私も、そうなりたくなっちゃったのかな」
灯里は自分の手のひらを見つめる。
「だから、そう。そうなりたいって思った理想。それがあたし。……って、こんな私を理想にしてどうすんだって思ってる」
自嘲気味の笑みだと、後ろ姿でわかる。
何か言わねば。そして、ふと、二重人格モノの王道ラストを思いつく。
「そ、そうだ。これが二重人格じゃないってんなら、お前の気質も、氷織が受け持って、お前の記憶も氷織がもらって、そんで……き、消えるなんてことあるもんか」
灯里は俺の顔を見て、困り顔。
「……最近さ、氷織、強くなったよね。昔からっちゃ昔からだけど。でも、あたしみたいに。……もう、必要ないんだよ。氷織は私に託した理想を自分で得た。だから、あたしは要らないんだよ」
「……おい、誰がそんなん決め
「あたしだって」
「…………ッ」
「んじゃ、賢治はさ、」
灯里が俺の目の前に立った。
「あたしを選んでくれる?」
「……は?」
5センチ、顔が近づく。
「賢治だって、今大変でしょ。お母さんのこと。賢治自身の胸の中のこと。あたしは、受け止めるよ。だから、一緒に逃げよ?」
なんで、俺はこいつから目を離せない。なのになんで、こいつを見たくない。
「ねえ賢治、」
やめろ。これいじょう、なにもいうな……見ていられない。やめろ、やめろ……。
手が伸びてくる。それは、俺の頬を撫でる。
「あたしを、ひとりにしないで」
息が、止まった。時間も止まった。なのに手のひらばかりが濡れていく。やけに冷たくなった頬の指をどかす気にもなれない。ずっと、こいつの目から離れたいのに。離れるための意思が、欠如していた。
そして、脳裏に浮かぶのは、浮かんで欲しい声はきっと。
「……ざっけんな。ふざけたこと言ってんじゃねえ!!」
更ける道に俺の声が反響する。
「……賢治?」
「お前が居ない? 自己催眠? 真似? そんなわけが無え、自分自身をそんなに慈しめるやつがいるわけねえだろ。そんで、お前が俺の部屋の漫画を勝手に明後日行く日々、そんなの氷織は絶対しないね。氷織にはまだあの図太さをもっと持っていくべきだ。お前が出涸らしを気取るにはまだ足りないんだよ」
呼吸は、大きく深く。
「水泳部のエースはお前だ。俺のベッドに初めて寝転んだのもお前だ。俺の次に多くレンジを使ったのもお前だ。……氷織の近くに1番いたのは、お前だ。お前が1人になんてなれるわけ無え。俺が許さねえ」
灯里が一歩たじろぐ。俺は思わず、その体を抱きしめる。
「ちょ……賢治?」
「お前が消えるとか、そんなのは分からねえよ。……でも、バカな俺を殴ってくれるお前を、消したりしない。俺が絶対にお前を離さない」
「――賢治」
「……でも、お前を選ぶことはできねえ」
灯里が息を飲む。
「俺は、お前が好きだよ」
好きの種類は、分からない。
「好きなんだ。氷織を大切に思っているお前が。氷織を大事にしつつ、守るために俺を殴る。それがお前だろ」
「お前が氷織を裏切ったら、俺が見ていたかったあの日々が、なかったことになっちまう。お前が、なかったことになっちまう。だから、選べない」
「賢……治……」
灯里は、赤子のように大粒の涙を、顔を歪ませながら流していた。灯里の腕が、俺の背をつつんでいた。
そして次の瞬間。
――俺の口に、柔らかいものが触れていた。気づいたら灯里の顔が目の前にあった。甘い匂いが鼻を通った。
唇の微かな震えが唇を通して伝わってくる。少し液体が口内に入ってきた。しょっぱかった。
「――!」
「っぷは」
そして離れる柔らかいソレは、今まで空気の感覚をシャットアウトしていたらしいと、気付く。
「……灯里、おまっ」
「ふう。さて。帰るわよ、賢治」
「は、はあ? 何言って」
「いいから。離さないんでしょ。早く、トリートメントともしなきゃ。あ、家からトリートメント持ってこよっと」
「……お前なぁ」
急に力が抜けた。
そしてようやく家まで着く。やけに長かったように感じられた。
「んじゃ、あたしお泊まりセット持ってくるから」
「マジで泊まる気なのかよ。……はいはい」
そうしてバタンとドアが閉まるのを聞いて、どっと疲れが来た。
ふと思い出して、自分の唇をなぞる。
「……俺、あれ、キス……だよな」
灯里が、唐突に俺にしてきたキス。それの時間は一瞬で。全ての感覚を覚えているのにその感覚が今はないという寂しさが邪魔をして完全では無い。
俺、誰かとキスをするなんて初めて――――。
『――り、絶対――らな』
あ……、れ?
こんなこと、あったっけ。
俺がそんな、今までにしたことなんて……。だって俺は、っ。
俺……は。そんな好意を寄せられる人物じゃなくて、誰かを好きになるとか、そん……な。
というかそんな暇がなかっただろう。春から夏前にかけて、そして海の家、今や文化祭準備。緑川に三上が主導して……。
なんで、アイツらと親しいんだっけ。俺たちに接点って、なかったよな。
俺は、なんで石井を許していないんだっけ。何かとてつもないことをしでかしたような。
――いや、した。俺はそうだ。口をつけたことがあるんだ、氷織の口に。なんであんなに助けたかったのか。
どうしてあいつは平然としていられる? 俺としたんだぞ? あいつが? 俺を……?
ありえないだろそんなこと。ありえない、ありえない。ありえないありえないありえない。
ありえないんだよ。
その言葉がやがて胃を溢れて。
「……オエッ」
胃酸と一緒に口から出た。




