第49話:進める
土曜日の市民プールは思いのほか空いていた。壮年期が終わりそうな男性が、奥の方でスタンバイをしている。手前で母親らしき人と水遊びをする児童がいる。そんななか、場違いなほど、水着を着なれた少女が一人、プールサイドに立ち、伸びをした。
「ふう。生天目さん、プールですよ、プール! ぶるぶるしますね!」
「お、おう」
俺も続いてプールサイドに入る。夏の授業で使ったきりの水泳キャップが、頭頂部でごわごわして気持ちわるい。それと水着も、股間部の謎のずれ防止布がまたむず痒い。そこに居心地の悪さまで、俺の体にかかっているのだ。
「さて。というわけで生天目さん、サポートお願いします」
「……わかった」
そう言われて手を差し出される。白雪姫ならこいつが王子だろ、と思いながら手を重ね、優しく引かれる。絶えず揺らぐ水面に氷織が静かに足を沈み入れる。
すると、氷織はそこで止まってしまう。ただ水を見つめて、無意味に息を吸っては吐いている。
「……八咫野?」
声をかけるも反応に乏しい。ぼうっと水面を、いやその向こうへ吸い込まれるような……。
危機感を感じた俺は氷織の肩を掴んで後ろに引っ張り、足を水から遠ざけた。
「……はっ」
「大丈夫かお前」
「え、ええ。ちょっと緊張してしまいました」
「本当に、水無理なんだな」
氷織は視線を側溝に落とした。
「ええ。足を入れると、体も中身も、全てが飲み込まれる感覚がして……。とどまるので、必死になってしまいます」
傍目からはただ硬直しているように見えたのに。トラウマを想起すると錯覚が酷くなる。それは俺も、身をもって知っていた。
海でも、浅瀬であれば大丈夫だった氷織。きっと浅瀬が遠くまで続いていたことが、安心に繋がったのだろう。しかしこのプールでは、氷織を丸呑みするのに十分な水深。日常動作に入り込む水とはわけが違う。
彼女の手に触れてみると、水に触れていないのに冷たくなっていた。
「……早く克服しないと」
「焦ることでもないだろう」
「私は、今の状況が、嫌なんです。あの人に、言われっぱなしなんて」
氷織はもう一度水面を睨みつける。
「もう一度行きます」
突然すくっと立ち上がり、足を踏み入れようとしている。そんな彼女の手を、俺はおもわずつかんだ。すでに冷たかった。
「ど、どうしましたか」
訊かれるも、反射でやったことだから何も言えない。けれど俺は半ば確信があった。きっとこのままいけば氷織は自力で克服する。でもそれはきっと溺れながら。自分の恐怖に命綱をつけず死の恐怖を連れて。でもこいつは、もう十分だろう。死を乗り越えるなんて大それたことなんてしなくても、報われるべき存在だ。だから俺が言うべきなのは。
「俺が、絶対に助けるから」
彼女の目を見て、真剣に言った。すると氷織は、苦笑する。
「なんですか、もう」
「え、あ、いや? な、なんかいいこと言っとこっかなーって」
氷織は再度「なんですかそれ」と笑って、
「ありがとうございます。もう大丈夫です」
氷織はそのままプールサイドに立ち、右足から階段を下りるように、するりと。気づけば水の中にいた。彼女は顎を上げながら顔だけ浮かばせている。
「生天目さん! やりました!」
「……はやくねー?」
想像の十倍速くケリがついてやがる。長年のトラウマじゃないの? スッて行っちゃったよ。
「生天目さんも、早く来て下さい」
「適応はやー」
俺も水の中に入ってみる。夏の終わりらしく冷ややかな水が、柔らかに体を包む。最初は嫌な感覚だが、次第に心地よくなっていく。
「んで、次は何をするんだ」
「……歩けるように」
「や、八咫野?」
声が震えている八咫野を見ると、プールサイドのヘリを掴んで、足をすくませていた。
「ちょっと、慣れるまで時間が……」
さすがにすぐに克服とはいかなかったか。
「まあ、いざとなれば足がつくし。俺が立ってるから、安心しろ」
「ええ。あ、でしたらあれをお願いします!」
「あれ?」
「あれですよ、手を引いて泳ぐやつ!」
スイミングスクールで小学生がやるやつか……? こいつもしや子供か?
などとは思いつつ、手を取ってみる。その手はやはり震えていた。すぐには緊張など取れるはずもないのだろう。氷織は俺の手を強く握っている。
「ゆっくりから始めるか」
「は、はい」
こいつに言われるがまま手を引いたりして、そして時間は過ぎていった。気づけば昼になっていた。俺たちはプールからあがり、近くの公園に来た。
俺はベンチに座り、
「……疲れた」
ため息と共に深々言った。
「汗も出ないので、疲れが分かりづらいですよね、分かりますよ」
しかしそういう氷織は疲れを感じさせない。からだとしては水を常日頃から感じているのだ。そういう乖離が、彼女のアンバランスな悩みを産んでいるのだと。
「というわけで、なんで公園に来たか分かりますよね」
「……??」
「お弁当ですよ。いい加減察してください」
「まじ、か」
氷織がトートバッグから、ランチョンマットに包まれた弁当箱を広げる。中には鉄板と言うべき、卵焼き、唐揚げ、ほうれん草、そして……。
「ミニ……トマ……ト……」
「おや、嫌いでした?」
「い、いや? 全然?」
「であれば、どうぞ」
俺は目の前に差し出された小さな赤い球体を見ながら息をのむ。この球体の中には黄色い駅と種があって、赤いぐじゅぐじゅの果肉が口を噛むと一気に口の中を侵食する、ミニトマトとはおぞましい兵器である。
俺は生唾を飲み込む。
「どうかしましたか?」
しかしせっかくだから食べねばならない。俺は意を決して、否、小さく口を開けて、
「えい」
「おごゅ!?」
気づいた時にはトマトを口内にぶち込まれ、そして口を手で覆われてしまった。
「はい。食べてください。吐いたら……分かりますよね?」
俺は口の中の爆弾を破裂させながら頷く。嫌だ嫌だと体が泣いている。味なんて感じられない。不快な果肉を、しかし目の前の含みだらけの笑顔に急かされて飲み込む。
「く、食えたぞ……」
「全く。なぜそんなに不味そうに食べるのですか」
「トマトは避けてきたんだよ。中学の頃には冷食多かったから、機会もなかったし」
いつからだったか、トマトの画像を見ると食べ物のそれではないと思うようになっていたものだ。
「ちなみにトマトソースは」
「好きだぞ」
「ミニトマトは」
「無理だ」
「……なんの違いがあるのですか」
「トマト嫌い七不思議だ。気にするな」
おそらく全国のトマト嫌いに訊いても同じ回答をするだろう。なぜかトマトは、ソースは大丈夫で球体はダメ。そして理由をこねくり回した結果みな「ソース用のトマトは品種が違うんだよ」と言うまでがワンセット。どうせその品種のトマトでも、加工前を出されれば拒絶するものである。
俺は道中買っていた麦茶で口直しをする、もといのどを潤す。プールにいても汗はかくようで、体に水分がしみわたる。そんな俺を見て、氷織は俺に言う。
「……聞きましたよ。木下さんのことも含め」
「そう、か」
氷織はこんどは、爪楊枝で唐揚げを刺して俺の口元に持ってくる。
「はい。あーん、です」
「ど、どうした?」
「いいから食べてください。重要なことです」
そのまま唐揚げを頬に押しあてられるまで勧められる。ひと口たべると、衣の味が先に来る。塩加減もちょうどいい。そして続いて肉のうまみが流れてくる。比較的大きかったが、気づいたころには口の中にはなかった。それを確認してから氷織は俺の目を見て、真剣さを含みながら訊く。
「おいしいですか」
「そ、そりゃあ旨いよ。いつも通り」
質問の意図が分からぬまま返すと、柔らかく微笑んだ。
「これからも食べたいですか」
「え、ま、まあ。八咫野さえよければだけど」
「それならよかったです。……それさえわかれば」
「どういう意味だ?」
「生天目さんはもう、冷凍食品だけを食べることはないと、そういうことです」
言い放つ氷織。しかし、それではまるで……。
「私が、生天目さんのご飯をつくります。きっと、冷めさせないでいようと思います」
「……えっ、と?」
「毎日行きますね」
「うん!?!?!?」
反射的に、「さすがにそこまでしなくても」と言いそうになったその時、突然口の中に甘酸っぱい……球体が……。トマトだこれ……。
「もご……もごぉぉお!」
口は氷織の手でふさがれ、反論も封じられる。
「生天目さんの言葉はいらないので。ついでにその爛れた生活習慣と成績と見た目を徹底的に叩き直してやりますので、覚悟してください」
「もぐ……もぐ……ごくん……、待て待てなんでそうなってんだよ!」
「今決めました」
「は!?」
「なので、その分、生天目さんは私を助けてくださいね」
「……俺に出来ることなんて、ほぼないぞ」
「さっきまで、プールで私を助けてくれたじゃないですか。それで、それがいいんですよ。居てくれれば」
なんで、どうしてこいつは、俺の存在をこんなにも意味に転換できるのだろう。こいつは一人でもなんでもできそうで、俺がいるべき理由なんてアプリの一点だけで、そのアプリの存在理由すら、今まさになくそうとしているのに。
俺は胸中に湧いた靄に促されるように訊いていた。
「なあ、八咫野」
「なんですか」
「……その、いつまで俺の部屋に来るつもりだ」
するときょとんとした顔になって、しかしもう一度笑う。
「泳げるようになっても行きますよ。もちろんです」
恥ずかしげもなくそんなことを言うのだから、むしろこっちが目をそらしたくなる。本当に、すごいや。むしろ俺の方が、彼女の隣に立っていられないのに。
「ほら生天目さん、こちら卵焼きです」
「……これ、何かかかってると思ったら」
「オリーブオイルに塩です」
「目玉焼き戦争の続きかよ」
「おいしいでしょう?」
「まあ、うまいけど……弁当でやる必要あったか」
「まだまだありますよ」
そうやって、二人で弁当を空にして、午後もプールの練習を重ね、そのまま帰ることになった。氷織はまだ、知識と体が追い付かないようだったが、今日でバタ足をマスターしたのだった。
そして……。
「今日の晩御飯はこちら、ボロネーゼ(ミニトマト追加)です!」
トマトゴロゴロである。だが、ちょっとぐらい挑戦してみようと思った。




