第41話:夏にさよならを、言えると思ったら大間違い
親父の言葉に戦慄した。母親が来ているなんて。
『……』
「べ、別に来ているだけだろ? なにか危害を加えてくるわけでもないんだ」
『お前がいいなら構わない。だが、まだ記憶に新しいだろう。会いたくないと、思うかもしれない』
感情の起伏が少ない声は、何故か腹を煮立たせる。
「アンタに、その気遣いがまだ残っていたんだ」
『……1年半も、経てばな』
重く言う親父に言葉が出ない。おれは黙って次を待つ。
『……すまない。会社の連絡が入った』
「ああ、おう」
『また……いや、良くないな。じゃあ』
「ん」
プツと切れた電話を見つめてしばらく動けない。
……俺は、両親をこんなにも嫌っていたのだとつくづく思う。両親だとは言うが、2人ともLIENの連絡先はないからな。
と、その時LIENに新着メッセージがあったことに気付いた。
『生天目さん、よろしければ明日会いませんか』
氷織からだった。何気ない誘いのつもりだとはわかるが、心臓が急に跳ねる。
……氷織に会えば、さっきまでの鬱鬱とした気持ちは消えるだろうか。
なぜだか、氷織といると安心することが多い気がする。しかし同時に居心地の悪さも感じて。この感覚に、名前は、あるだろうか。
「……何言ってんだ俺」
時計を見ればもう9時だった。屋台で腹いっぱい食べられたわけでもない。卵かけご飯でも作って食べるかな。
**
そして翌日。
「お邪魔しますね」
「おー」
俺はドアを開け、氷織を招き入れる。無論、部屋はちゃんと片付けている。これも俺の進化だ。
「生天目さん? なぜ醤油が棚に出ているのですか?」
……卵かけご飯でしまい忘れた醤油。俺はまだまだだったようだ。全速力で片付けつつ、麦茶を入れて氷織に出す。
「粗茶ですが」
「お構いなくです」
氷織は、俺の出した麦茶に一口つけてからまっすぐ俺をみてくる。その時、自分の心臓が大げさに跳ねる。
「今日お邪魔させてもらったのは、ほかでもありません」
居住まいをただした氷織。荒れる心臓は収まらない。
いったい何をだろうか。俺は生唾を飲み込む。
「生天目さん、シませんか……?」
「えっ……」
する、とは、まさか!?
「生天目さんの、夏休みの宿題」
「………………………………ナニソレシラナイ」
俺は思いっきり目をそらす。
「逃がすわけがないでしょう。私は予定通り明日くらいで終わります。ですが。どうせ、生天目さんのことですし。終わっていないんじゃないかと思いまして」
「なんでいま『どうせ』を強調した」
「事実でしょう?」
「そうですけどねぇ!」
夏休みに入る前に配られたあの冊子テキストは図書館以来開いていない。学校が作ったとかいう社会の基礎問題システム? そんなのもあった気がしなくもなくもない……かも?
ともかく進捗は無だ。
「はぁ。……まあ、この夏休みにあなたと遊びすぎた私のせいが若干ある気がしますので」
「面目ねえや」
「ほら、早く始めますよ。どこにテキストがあるんですか?」
「ああ、それは確か。……あれ、どこだっけ」
「……生天目さん!?」
確かにこの部屋は片づけたばかり。つまり、その俺に記憶がないということは。
「……な、なくしてる可能性も、というか捨ててる可能性も視野に入れてくれ」
「生天目さん!?!?」
俺は静かに自分の部屋の本棚をあさり始めた。
そして経つこと二時間。ようやく、物置のなかにあることを発見し、待ちくたびれて買い物に行っていた氷織に謝罪とともに報告する。そして氷織は帰ってきてすぐにため息を吐いたわけだがそれはもうおいておこう。
彼女は俺のテキストを見ながら、一つ一つ教えてくれた。
「ではまず、この二次関数からですね。わからないところなどありますか?」
「あー。二次式なら、基本問題からわかんないのは……なんか解が最初に与えられてるやつだな」
「それは解と係数の関係から……」
と、それから日が暮れるまで勉強を教えてもらった。夏休みの終了まであと二週間。まだ宿題は量としては依然多いが、それでも、まあ、ちゃんとみっちりやれば終わるかな……? 程度の計画と進捗になった。わからないときは氷織に聞くことになっている。あとは俺がさぼらないことだけを守ればいい。
「……さぼってはいけない……かぁ」
「当然でしょう? ツケというやつです」
「で、でも? 大学入試って内申は関係ないっていうじゃん? 宿題って全部終わらなくてもよくないか?」
「そんなことを言っているから、今に至るまで性根がひん曲がっているのですよ? 恥を知ってください」
「語気強くなぁい?」
「それに、生天目さんって留年ギリギリなんですよね? これで夏休みの宿題をすべて白紙で出したら……生天目後輩とおよびすることに」
「頑張りまぁす!!!」
俺は声高に宣言する。と言っても、今日のノルマはもう終えてるし、もういいかな。うん。
「ところで、余裕のある今日のうちに、やっておくといいことがあると思いませんか?」
「……やります」
すごい。明言しない圧がすごい。
「そうですね。ではこの範囲まで終わらせましたら、ご褒美に今日のご飯を少し豪華にしてあげましょう」
……なぬ?
「では。宿題を終わらせることができたら、さらにトクベツなご褒美をあげましょう」
「トク、べつ?」
「ええ。飛び切りのご褒美ですよ」
そう言われてわくわくが起こる。
「ちなみに、そのご褒美ってのは……?」
「秘密です」
バッサリと切り落とされる。しかしそれはそれで楽しみだ。氷織のご褒美……なんだ、何をくれるんだ。厚かましいとは分かりつつよだれが出る。
「……なぜよだれなんです」
「おっと失礼」
俺はよだれを拭いつつ、手元のテキストを進めにかかる。開かれているのは三角比の中盤。俺もまあまあできるところだ。氷織の力は極力借りずに必死に頭をこねくり回す。
「もし五分経っても全くわからない問題があれば、わたしを頼ってください。答えを見ると力がつきませんし」
「おお」
俺はなんとか応用問題を自力で解いた。しかし時間がかかりすぎて、背伸びしたころには氷織が「もうすぐできますよ」と声をかけていた。俺はいそいそと片づけを始める。
そして眼前の机に皿が差し出される。その皿に乗るのは、鶏肉の照り焼きだった。
「……普通に旨そう」
「普通にとは何ですか。もっと持ちうる言葉すべてを使ってほめてもいいんですよ」
氷織も変わっただろうか、最初の頃は「大袈裟ですよ」と言って遠慮していたのに。……なぜこんなにも、尻に敷く属性が強化されているんだ。俺ってそんなに尻に敷かれ適正高いですか。
「「いただきます」」
ふたりで声を合わせて手を合わせる。
俺はナイフで鶏肉を切る。あふれる肉汁、そしてタレが纏わりつき光沢を湛える。頬張れば、思いのほか薄いタレの中に潜むダシが鼻に抜けて、後を追うように醤油がやってくる。つまるところ……。
「尋常じゃないくらい旨い」
「さすがに言いすぎです」
「氷織が言葉を尽くせって言ったんだろ」
「やっぱり気恥ずかしいので撤回します」
「本当のことしか言ってないのに……」
俺はみそ汁とご飯と照り焼きを食べ進めていく。たまにご飯をタレに付けてみてもまた旨い。
「本当に旨いなこれ」
「ふふっ。まあ、一応私も研究したので」
「研究?」
「ええ。理由は……」
氷織は俺を見つめながら続きを飲み込む。
「さて。私はこれを食べたら帰ります。分からないところはLIENなどでもいいので」
「え、あ、おう」
俺も氷織もあとは無言で鶏肉を食べ進める。
そしてご馳走様をしてから、氷織が帰った後に手持ち無沙汰になった俺は、また1問だけ数学に取り組んだ。氷織の言っていたご褒美とやらが気になるからだろう。小学生男子のような単純な脳みそだと自分でも思うが……。
と言ったふうに、おれは次の日も次の日も、宿題を進めた。今まで使っていなかった頭を使っていくうちにだんだん机にかかる苦しみが和らいでいく。それでも依然苦しくはあるが。
そして1週間後。夏休み終了まであと3日。
「も、もう嫌だ……宿題いずふぁっく…………」
俺は、突如やる気が0になってしまうやる気滅殺期に苛まれていた。
次回、留年の未来はすぐそこに。




