第36話:暗がりに身を任せて
俺はホテルの女子部屋をノックする。女子部屋とは言うが、乙音が気を利かせて男子部屋にいるためこの部屋には氷織ひとりだ。
ライフセーバーさんにキツく夢を否定されてからずっとこのまま。乙音と夏向にも心配はされたが何も語らない氷織に二の句をつげなかった。
もう一度ノックする。
「氷織。……あー。もうすぐドッキリグランブルー始まるぞ。全員でリアタイしようぜ」
「…………」
まあそりゃそうだわな! 華のJKがドッキリグランブルー観ねえわな!
「……あの人のことは気にしない方がいい。あんなんただの意地悪だ」
「…………」
内側の部屋からはなんの反応もなかった。今日はもう出直そうかと思って踵を返す。その時、扉の内側から声がする。
「賢治。ちょっとまってて」
「…………あれっ。灯里?」
呼び方に既に違和感を感じるたが、すぐに人格チェンジがあったのだと察する。
すぐに扉が開く。
「ごめん。待たせた」
「……さっきまでのは灯里だったのか」
「ええ。氷織の記憶が流れてきて、ちょっとね。でも、今は多分大丈夫。あの子も、きっと頑張ってるから」
「そ、そうか」
俺はただそう頷くのみ。まさかこっちに代わってるなんて思いもしなかった。
その時灯里が俺の手首を掴んだ。
「賢治。ちょっと付き合ってよ」
「デジャブ?」
灯里はニィと笑って、昼に氷織がしたように手を引いた。
**
もう外は暗くなっている。俺たちはホテルロビーのトイレで水着に着替る。
先に出てきた俺は場違い感で悶えそうになっている。
そして背後に気配があって振り返る。
「………………」
「…………何よ。なにか言いなさいよ」
あの日試着室で見たオフショル水着の灯里。なのに違って見える。恥じらって身をよじる灯里が妙に色っぽくて思わず目を逸らす。
「……見なさいよ」
「お前だって右下向いてんだろ」
ホテルのトイレ前で、水着で、こんなこと……ッ!
「あれ、なんか水着カップルいるよ?」「初々しーい」
周りから声が聞こえてくる。
「……外行くか」
「え、ええ」
**
そしてホテルから歩いて、昼も来た海へ帰ってくる。
「なんでまた海」
「別に〜? あ。あの辺りいいわね。あそこ座るわよ」
海は漆黒で、打ち寄せる波は墨汁のよう出会った。氷織でなくとも、あの光景に飲まれたらきっと俺でも震えが止まらなくなるだろう。
波は満潮なのか、昼夜手前に海岸線がある。
「ふー。綺麗ねぇ」
「……何も見えないが」
「考えるな、感じろ」
「そういうもんじゃねえだろブルース・リーは」
ケチねと拗ねる灯里。
「本当にあんたも馬鹿よね。あん時試着室で、あたしも来いなんて言ったから今連れ回されてんのよ」
「……ああ。本当に言わなきゃ良かった」
「死ね」
「おごっぉ久しぶりの鳩尾ぃ!」
理不尽である。
そして拳を引っ込めた灯里は向こうの波を見つめ言った。
「昼間、さ。あんたはどう思った」
「どうと言われても。あいつのことは気にすることないと思った。きっと意地悪なイタズラだ」
隣を見るも灯里の表情はよく見えない。ホテル付近の光源は既に向こうだ。
「あの子には、芯が無いって。あんたはその後なんか言われた? 大丈夫。あの子には言わないから」
「あいつは……俺の方が芯が有るとかほざいてんだぞ。適当だって」
「たしかに。あんたの方がわかりやすいわね。……そっちの方がいいのかもね」
「真に受けんなって」
俺はもう、慰め会話デッキがなかった。自分の対人関係の弱さを改めて呪う。
「……あの子さ。心当たりがあったんだよ。ライフセーバーになるって目標は、中学生の頃だったかな。勉強に、あたしの部活、友人関係に評価の維持、それを保ち続けることに意識が向いて、『なんで』の部分、なくなっちゃったみたい」
灯里は体育座りのまま墨汁の荒波を見つめる。何かを待つみたいだった。
だが小中学生の夢なんてそんなものだろう。意味もなく何かを志せるくらいに無垢で無謀で、有り余るエネルギーの使い道をいつも探している。そしてある日その熱が急に覚めて、つまらないガキになったり新しい何かを志すガキになってをしてやがて思春期を迎えていく。その中で、意志力だけが突出して何かを目指し続けるやつだって、何も悪くない。
彼女は俺を見て言う。
「だからさ。作ろうよ。泳ぐ理由」
俺は咄嗟のことでなんと返すか決められなかった。
「作るって……は?」
「あの子はさ。泳げないってことを、本能的に逃げてる。きっとあの人が言ってるのはそういうことだよ。あの子はもっとあんたが必要なんだから」
止まらず話し始める灯里。とめどない彼女の言葉は何かを隠すようでもあった。海に何か黒いものを託しているようだ。
「あんたはこれからあのこと一緒に支え合って、あのライフセーバーさんのことをギャフンと言わせて、それで」
その時、海が光った。波の中に細かい光源が溢れ、灯里の顔を照らした。
その顔は濡れていた。
反射で彼女の腕を取ると、その瞳をさらに潤ませる。
「お前。さっきから何言ってんだよ」
「何って。見返す話を」
「泣きながら何言ってんだ」
見てるこっちの方が辛くなる泣き顔。俺は視線を動かせず。
「答えろ」
「……な、何よ。それ以上でもそれ以下でもないっての。あんたは氷織がどうなってもいいの!?」
「そうじゃねえだろ。俺は短絡的だからな。それよりお前がそんな面してるほうがよっぽど嫌だっつの」
すぐ横の幻想的な風景を無視して灯里の手を握ることに精一杯だった。今にも海に飛び込む自殺志願者にも似た身投げの姿勢のような。知ってる表情だった。
「……」
「………………うん」
「何が『うん』よ」
「いや、この後どう続けよっかなーって。うん。俺に代替案を出せるほどの知能はないからな」
ああそうだ。俺は馬鹿だ。だからきっとこれ以上のことはできない。
「お前が何考えてるかはしらんが、そんな死にそうな顔してんじゃねえ」
「あんたに何がわかんのよ」
「何もわからない俺に、お前が頼むはずないだろ」
お前はアプリですぐに心を漏らすんだ。お前は強がった癖してすぐにボロをだすんだ。お前は、強がって氷織の傍にいないとダメなんだ。
「何しようってんだ。言え」
責めるように俺は言った。
「あ……あたし………………」
より一層涙を流して、歯を食いしばって、口角を、無理やり上げた。
「あ……あたしは、あの子のために、頑張らないと」
泣き笑いだった。……絶対にこれは本心じゃない。心が告げている。けれどもうこれ以上言えない。こいつはもう、これ以上を掘れないほどに心がすり減っている。言えない。
「…………もう、戻るか。体が冷える」
俺はホテル向かい歩い始める。彼女は黙って着いてきた。
その時、一際激しく波が立った。
黒い海は煌めくカーテンとなって。
轟音で。
「賢治、好きだよ」
灯里が言った。
俺は……。
「んあ? なんか言ったか」
ちょうど耳をほじって聞こえなかった。
「ううん。なんでもない。早く晩御飯食べないと。明日は帰るんだから」
「ちゃんとその水着も乾かしとけよ」
「わかってるってば。賢治よりあたしの方が生活力あるんだから」
灯里は小走りで距離を詰めて並び立つ。ようやくホテル付近の灯が彼女を明確に照らしたとき、もう涙は吹かれていた。
灯里は部屋に戻り、着替えにかかった。俺は男子部屋で夏向に驚かれながら風呂の準備とチェックアウトの準備を進めた。
そしてあの時のことを思い出して頭に熱が登って。
らしくもない、見当違いと自意識過剰も甚だしい聞き間違いを、振り払うため。
「……チッ」
俺は舌打ちするので精いっぱいだった。




