第35話:憧れて
「あのライフセーバーさんが、私がライフセーバーを志したきっかけでもあります」
「……」「……」「……」
一瞬、一斉に沈黙。
「えっ!」「ライフセーバー!?」「夢ぇ!?!?」
俺が1番驚いた気がする。
「聞いてないぞそんなの」
「言ったことありませんし」
苦笑しながら続けた。
「まあ、だから今もこうして泳ぐのを続けてる訳ですが」
俺達は呆気にとられる。でも確かに、夢というところまで迫る人なら、そんな表情にもなるか……。
「……昨日今日と呆然としてしまい申し訳ありません。明日はちゃんとやりますので」
そういって、急いて席を立とうとする氷織に、何か一言いいたくなって。
「本当に、そんだけなのか」
「といいますと?」
振り返らないで氷織は応答する。
「お前が二日間も、何も考えないことがあるか」
俺の漫画の知識を総動員する。こういうときはヒューマンドラマ系のあれだ。
「なにか、あの人に伝えたいことが、あるんじゃないのか」
俺は彼女の背に刺すように言う。……よし。決まった。
「何やってんですかキッッッモ」
「自意識過剰。漫画の見すぎだ」
「もしそうであっても生天目さんに言われたくありません」
揃いも揃って酷い! 火力も高い!
「と、ともかくだ。残り時間も少ないんだ。早めに処理した方がいいだろ」
俺は咳払いをしながら持ち直す。
「先輩は先に夏休みの宿題を処理してください」
「注文処理スピードも上げろや」
「うっさいな外野ァ!」
そばにあった枕で乙音と夏向をはたくフリをする。それに乙音がもうひとつの枕で応戦。枕のない夏向は間で揉まれるようにリンチ。
その光景をただ見ていた氷織が、見えないところで笑っただろうか。後ろを向いたまま氷織は言った。
「……何はともあれ。私はもう寝ますね。明日に響いてもいけないので」
「あ、お、おう」
「おやすみ」
「おやすみなさいです」
バタンと閉まる戸に俺たちは停止する。
「……なんか、柔らかいというか、静かというか。八咫野さん、覚悟決まった感じだったかな」
「氷織様は強いお方なんですよ無礼ですね木下先輩」
「可愛くねえなこの後輩は。賢治、いつもこいつとよろしくやってんの」
「宜しくねえよいっつもコケにされてるわ」
「それはバカで間抜けな先輩が悪いっす」
そんなこんなで氷織を残して俺たちは深夜2時まで遊びまくったのだった。
氷織の心中は、誰にも察することは出来なかった。
**
そして、今日も海の家の激務から解放され、夏向は追加業務で連れていかれ、俺たちは海へと繰り出した。今日は全員要領を覚えて、初日よりかは疲れの色が見えない。普通に疲れてはいるけども。
俺は水着に着替えて海に浸かろうと思った時、氷織が俺の手を引いた。
「生天目さん。少し一緒に来てくれませんか」
上目遣いというよりも毅然とした態度。とても「一緒に海で遊びましょう!」と言わんとする雰囲気でもなかった。
俺はとりあえず頷いてみた。
「あ、じゃあボクも行くっす!」
「すみません。今回はふたりでお願いしたいです」
「……そすか」
先程の元気から一転、落ち込んで1人海岸線を眺める寂しいやつが登場した。
「……海……ちょっと茶色なんすね……」
遠くを眺める乙音。ナンパとか、気をつけろよ……。
そうして数百メートルも離れただろうところで、氷織は手を離す。
俺は考えがわからず、ずっと立ち尽くして氷織の二の句を待つ。
「さて、それでは海で遊びましょうか。浅瀬までですよ」
「あ……え?」
そう言ってまた腕を引いて、浅瀬で離す氷織。この辺りは浅瀬が広いが、しかし氷織はそちらへは行こうとしない。さすがに心理的に難しいのだろうか。
その時唐突に水をかけられる。……しかも顔面の変なところにッ!?
「ぐぉぁッ!?」
「ちょっと生天目さん。油断しすぎです」
そんな雰囲気ではないと思っていたのに、まさかの水かけが始まるとは。
「……こんにゃろう。男女平等スプラッシュを喰らわ……ぶゎぉっ!?」
「ぷっ。だから油断しすぎですって」
腹を抱える氷織、それに若干腹が立つ俺。
こいつが視線を逸らす時、今だ!
「ゎッぷ! やりましたね?」
見事顔面に食らった氷織はまたかけてくる。そして海水が鼻に入る。
「また変なとこ……ってかちょっと臭!」
鼻に入った海水を出しながら海を見るとたしかに海水が若干茶色がかっている。
「……んだこれ」
「これは、赤潮ですね。プランクトンが多いとなるやつです。……では私はパスで」
と言いつつまた顔面にかけてくる氷織。
「仕返しだっ!」
俺は水を手ですくって……。
「ですので、肌が臭くなるので嫌です」
「男女平等ッ!?」
一方的にかけられ続けて男女平等を痛感し、気づけば日が茜色を帯び始めていた。
「もうそろそろ遊泳終了の時間だな」
「そうですね」
そうった氷織はまたもや手首を掴んで引っ張り始める。
「あ、あのー氷織サン? ホテルあっちですよ」
「いえ。さっきも言ったでしょう。少し一緒に来てくれませんかと」
「……え、水遊びじゃなく?」
「そんなわけが無いでしょう」
冷たく言いながら、浜の奥まで俺を引っ張っていく。20メートル歩いた時、氷織は止まった。
その目の前には、アルミ質の脚立のような背高の椅子。そしてそこから降りようとしている、ライフセーバーさんがいた。
「おや。お嬢さん。なにか用事かい?」
キョトンとした顔で、あのライフセーバーさんが問う。
「はい。今、お時間いいでしょうか」
「ああ。ちょうど今終わるところだからね。まあこの付近に人はもう居ないし、少しなら」
ライフセーバーさんは椅子を降り、腰に手を当て構えた。
「それで、なんの用だい?」
氷織は1度俯き、そして顔をあげる時には、熱を孕んだ視線でライフセーバーさんを見つめた。横顔ながら、その瞳に、目が離せなくなった俺が居た。
「……私は、幼少期にあなたに、命を救われた者です」
「へえ。それは嬉しいな」
ライフセーバーさんはただ快活に笑う。ただしかし、そこに会話を続ける態度はない。飄々と終わりを伺っている。俺と同じコミュ障だろうか。
氷織はただ彼女を睨むように見据えた。
「…………私は、貴方に憧れてライフセーバーを目指しています。その覚悟で来ました」
遊泳時間終了のメロディーがなり始めるがそれをかき消すように刺した言葉。
――しかし。
「へー。ねえそこの少年」
「えっあっ俺?」
「ああ。彼女は学校でどんな子かな。ちょっと教えてよ」
唐突に話を振られたコミュ障の俺はキョドりつつも、思い返すように言った。
「ええと……八咫野はクラスで成績も安定していて、スポーツも出来、女子水泳部でも結果を出している人で……」
料理も美味しくて、俺みたいなやつを、初めは利害関係であったのに目をかけてくれて、彼女はいつも強いけれどたまに人間みたいで、そのくせ冷たくて意思が強いし、自分の意見は曲げないし、灯里に変わって面倒くさいけれど。
時折ハプニングとかで、こいつと関わらなきゃ良かったなんて思うこともあるけれど。今の彼女を、強く在る彼女の姿を見られただけで俺は。
「俺は、彼女とこうやって海に来られる関係になれて、本当に良かったと、思います」
「はっはっは! 彼氏さんおアツいねぇ」
「違います!」「誰がこいつと!?」
するとまたライフセーバーさんは笑い始めた。
「……なるほど。君、八咫野さんだっけ? 君は相当優秀な人みたいだね。なら、ライフセーバーよりも稼げる仕事はあるだろうに。命をかけた割には、金は入ってこないよ」
「それでも、この仕事がいいんです」
「なんでだい?」
とライフセーバーさんは言った。その声は酷く冷たかった。氷織は口を開こうとしてすんでで止まる。
このお姉さんは待っている。「人を救う仕事をしたいから」以外の理由を。模範解答を排除しろと無言の圧が迫っていた。
「…………それ、は」
「ちょっと難しかったかな。それじゃあ、君に今、譲れないものは、あるかい?」
同じく、冷ややかに。時折氷織が見せるソレより深く寒かった。
「…………………………ゆずれない、もの」
「即答できないようじゃ、君はこの仕事に向いてないよ。ここである必要もない。水泳で記録を出すなら水泳選手にでもなればいい。君の求める景色は、ここにはないよ」
氷織の目は既に虚ろ。ライフセーバーさんは変わらない目だった。
「君には、芯が無いんだ。見た感じ君たちは高校生かな。今すぐにでも進路希望を書き換えた方がいい」
その言葉が終わる前に氷織は反対方向、ホテルの方へと駆け出していた。目元に輝くものが、見えた気がした。
ライフセーバーさんはすぐ帰ろうとしている。
「ちょっとあんた!」
「どうしたんだ少年。彼女さんを追いかけなきゃ」
「あんた、あんまりじゃねえのか。まだ高校生だぞ。譲れないものなんて、あるはずがねえ。そんなことであいつの夢潰そうとすんな」
俺はただ無性にイラついていた。
「おお。少年。なかなか言うじゃないか」
「泣かすつもりはなかった、なんて言うつもりじゃねえだろうな」
「まさか。泣こうが泣くまいが関係なかったよ」
ああ。この人は、ずっと感情が読めない。申し訳なさでもない。悪辣でもない。意志を持った試練だ、これは。ただ、問うただけだった。
「なんの、つもりだ」
「言ったこと、それ以上でもそれ以下でもないよ。そして本当だよ。彼女には芯が無い」
そう言っていた。彼女の芯が無い? あるだろう。いつもあっただろう。生半可なやつは噛みきれないほど強固なものが常にあるだろう。
「何を言ってんだ」
「おお怖い怖い……あたしとしては、君の方が譲れないものがあるように見える」
「…………俺?」
「うーん。芯、と言うよりか、なんだろうね。呪いみたいな……なにか頑固汚れが、無意識下のナニカ……うん」
俺に、呪い?
その時、氷織をバカにされた時よりもっと粘性ある反吐が腹の底に湧き上がった。
「……お前。言っていいことと悪いことがあるだろ。あまつさえ、氷織をバカにするなんて」
「あれま。こっちに向いちゃったか。まあでも、うん。ただこれだけは覚えておいて欲しいな」
ただ彼女は飄々と言った。
「彼女は、芯が必要だよ。何をするにも。そして君には何かを捨てなきゃ行けない。肝に銘じておきなさい」
俺はもうこの人をただの汚い大人としか思えなかった。吐き捨てるように踵を返した。
ライフセーバーさんはただ、俺の耳の入らないように言った。
「……死ぬなよ、少年」




