第27話:将来の夢、胃が痛くなってくる響きですね。
あの事件から数週間たって、大半が夏服に換わった。教室の中まで、冷房をつけるほどじゃない暑さがはびこる。こんな気温だと、さすがの俺でも授業中は寝てしまうぜ。
「いつもの通り寝てんじゃねえ」
「あだっ」
席替えで隣の席になった夏向が頭を冊子で叩くが、それは見覚えのない冊子だった。
「なんだそのプリント」
「お前……聞いておけよ。この夏休みから、先生自作数学演習冊子が配られるんだよ」
俺の血の気が引き始めるが、見たところ40ページ程度。まだ、すっぽかしても良さげなボリューム感。
「ちなみにこれは三角関数用。あと6冊来るぜ」
「ひぇっ!?」
教卓の方を見ると数学教師の母野がこころなしか満足げな顔をしている。この教師は平気で東大過去問を定期テストに出してくる鬼畜教師。それが喜んでいるならきっと、この冊子の中身も実になりそうなものぞろいなのだろう。俺は数学の成績を諦めた。
この学校はそれなりに頭のいい学校だ。つまり学校側も留年を出したくない。つまりは、俺が留年する確率も少ないのだ。俺は大義名分ができたことを喜びつつ寝る。
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「お前留年な」
「…………へぁ?」
母野に職員室に呼び出され開口一番がそれだった。
「ええと、まだ2年生なって半分も経ってないっすよ?」
「そりゃそうなんだけどな。お前一年のころの平均評定は?」
「知らないです」
「2.6だよ! 普通にやってりゃ3以上のところを2.6、しかも2を出した先生も『留年は可哀想だったので』だ。実質1みたいなもの、そして1を取ったやつは留年確定。そして、現在のお前の数学の前期評定は……」
彼女は一本指を笑顔で立てる。
「いち、だ」
そして下種顔。極上の喧しさを持つ嘲笑、いや侮蔑、一周回って慈愛。ディ◯ニーのヴィランですらこんな顔はしない。常軌を逸した極上のゲス。母野という女性教師は33にして貰い手のいない悲しきものである。そしてその性格の悪さからつけられたあだ名は、『ゲスクイーン』。その名の示す通り、教師の矜持は持ち合わせない。数学嫌いからの反感を買いまくる教師である。
「もし悔しけりゃ、一か月後の数学の定期テストで赤点を回避してみ? ……まあ次のはMARCH以上の過去問で固めるけどなwww それかいい男紹介しろ。」
マチアプの男はやっぱりやめるべきなんだなぁとぼやく母野に、だからだよと言いたい衝動を抑えた。
「あ、あとこれ。ちゃんと記入しろよ」
「進路希望……ですか」
「まだ早いって思うかもだがな、考えること自体が早いに越したことはない。高校のうちに決まってしまえば、最悪大学に行かなくていい。お前の嫌いな勉強とおさらばするのも早くなるかもな」
お、なら芸術系に進んでしまえばいいのか? と胸を胸を踊らせるもすぐ指を眼前に置かれる。
「ただし、そのためには勉強しなきゃダメだ。勉強に意味がないってのは、勉強した奴だけが言うのを許されるんだぞ」
「先生……」
「……まーたtwetterのバズまとめっすか?」
「あ、バレた」
――――
「というわけで、海行こうぜ」
in the 俺の家。当たり前のように俺の家に居る氷織と乙音に俺はかしこまっていう。
「どうしたんですか突然」
「キモチョイス。選択肢それしかないあたりオタク出てるっす」
「実は、俺、留年しそう」
「そうなんですね、では生天目後輩とお呼びします」
「おうおう焼きそばパン買ってこいよ賢治」
「まだだっつの!」
氷織は「冗談です」と言うも乙音は舌打ちする。こいつめ。
「まあ留年の条件とは別に、他人を巻き込んだご褒美を作ればやる気出るかなって。んで夏だし海というものを、波打ち際でパシャパシャするあれを現実で見たい」
「それはたしかに、いいかもですが」
「ちなみに留年回避条件は、数学の定期テストの赤点回避だ」
「……」
「……」
「あれ、二人とも?」
「焼きそばパン買ってきてください」
「氷織サン!?」
暗にお前には無理だと!?
「何言ってんすか八咫野先輩、センパイのような人だと、留年することによる馴染めないストレスで学校辞めてしまうんで、もはや同級生でも下級生でもないっすよ」
そんなわけ……ないとは言えないっ。
「だーもう! それじゃお勉強会だ! ラノベで見た! 乙音も氷織に教えてもらえるチャンスだぞ!」
「……生天目さんがいいなら、いいのですが」
含みある言い方が引っ掛かりつつ、氷織の了解も得た。よし、これで俺も赤点回避だ。
――――
そして一週間後の土日、学校の図書室にて。
「では生天目さん。宿題にしていた、母野先生の冊子5ページ分、やりましたか?」
「おうよ。この通りだ」
俺はカバンから例の冊子を手渡す。ちゃんとこたえを書いてるやつだ。
「ちなみに思考時間は」
「3分考えて答え写した」
そういうとため息を吐く氷織。ちゃんと答えを書いてあるだろう。嘘ついてない。
「まあさすがにできるとは思っていなかったですが、ここまでだとは。一ページ目は大問1くらいの難易度ですよ」
「……へー。これが大問1か」
「まずはこのテキストのA問題から。そうでないと話になりません」
そうやって差し出されたのは三角比の問題。ⅠAという区分である。ぶっちゃけⅡBより簡単みたいな面しておいて普通に難しいのである。俺は隣の乙音がペンを動かすのを見つつ気合を入れる。乙音の方も、母野冊子ほどではないにしても夏までをおさらいする冊子が出ている。数学教師はどいつもこいつも。
よし。まず最初の問題は……えーとあれだ。余弦定理だ。えー。C^2=A^2+B^2+2AB×cosCみたいな……。あれ。どれがAでどれがBだ? てかこれじゃあ角出なくね?
すると隣の席の乙音がシャーペンを伸ばしてくる。
「あー生天目先輩。それ正弦定理ッス。外接円あるし。その結果出たsinを二乗して1から引いてcosにするんすよ」
「ほへー……。あれ」
乙音はすでに3ページ進んでいた。俺が一問解いている隙に。と見ている間にまたもう一つ。こいつさては勉強できる?
前を見ると同じく宿題をする氷織。なんとなくの強迫観念で俺も書き進める。
「あ、そこ違うっす」
「それ違う単元の公式です」
「それはそうじゃなくてこっち」
「面積の公式を忘れたんですか?」
「第一四分位数は奇数個のとき中央値を含まないっすよ」
「相関係数は1を越えません」
……お昼になるころには、もはや二人は俺のテキストを見ていた。一対二の個別指導が爆誕していた。生徒側が一人な事例は聞いたことないんだけど。
自分で言いだしておいて居たたまれない状況にむず痒さ。
悶々としているところに、本を二冊抱える夏向が俺らに気付く。
「あれ、賢治? と、八咫野さんに榎本さんまで。どうしてそんな構図になってんだ」
……これはチャンスか? 俺の唯一の友、木下 夏向。彼は俺と同じ思考回路を持つ、いわば同志。つまり彼をひきこめばこの気づまりな状況は打開される! 俺は無言で手招きし、彼をこの場に加わらせた。
……。
「そうじゃありません問題文を見てください」
「字が汚いっす」
「その変形はちがうだろ」
なんだ。鬼が三人増えただけか。そういえばこいつクソ頭良かったわ。この高校で上位30パーくらいだもんなお前。俺が浮かばれないだけじゃねえか。
乙音がもはや一学年上の内容を網羅してくる。それとわからないところは導入を読んで、それだけで理解してしまう。いつの間にやら鬼はもはや乙音だけになり、八咫野と夏向が談笑をしている事態。悠長な二人に怒りも湧いてくる。
「八咫野さんはどうしてこいつを?」
「彼、留年回避のために頼んできたんですよ」
「うっそだー。こいつ女子と話せないヘタレだぜ?」
「まあそうですけど」
なんて笑いあってんのが目に毒だが。夏向もテンションが男子なだけで顔と外面がいいんだよな。こいつらでも絵になるの勘弁しろや。また第十一話の屈辱を味わえと?
と、夏向が思い出したようにいう。
「あ、そうだ。八咫野さん、ちょっと話したいことがあるんだけど、一回来てくれる?」
「ええ、まあ。私でよければ」
二人が席を外してしまう。俺は気になって目で追うと乙音のチョップが頭にくる。クソ。めっちゃ気になる。よし。出し抜こう。
「すまん乙音、トイレ行ってくる」
「五分で済ませてくださいね」
俺はもちろん、トイレに行くふりをして二人の後を追いかけた。あいつら……というかやっぱ夏向も氷織が好きなのだろうか。ふと思った考えも、別におかしくない。氷織はぶっちゃけ見た目よし器量よしの優良物件だ。気が強くて人格が変わることを除けば、だが。
こいつらはおなじ水泳部。なんらかの感情があってもおかしくない。
そういえば一年前、夏向に「なんでそんなに勉強してるんだ」と訊いたとき、「目標があるから」と言っていたことを思い出した。もしや成績上位者の氷織を追ったのか!?
俺が一人で思索を続けているうちに氷織が口を開いた。
「それで、話ってなんでしょうか」
それにあくまで軽い調子で答える夏向。
「ああぜんぜん、難しい話を言うつもりはないよ。ただ一つだけお願いがあってさ」
俺は厚い英字本棚の裏で耳をそばだて、わくわくしながら続きを待つ。夏向に恋バナをさせる為にも応援してやらねば。
そしてやがて、重く口を開いた。
「定期テスト終わったらさ、賢治にかかわるのをやめてほしいんだ」
俺はハリーポッターの本をかき分け、彼を凝視してしまう。氷織はたじろぎ、夏向は真剣なまなざしだった。
そうして俺の、俺と氷織の夏は始まる。




