第23話:それは壊れた出会い
私はあの日、離岸流に流されて、溺れかけて。ライフセーバーさんに助けてもらったけれど、それからは水が怖くなってしまった。
コップ一杯の水なら大丈夫なのだ。しかし足がつくプールでも恐怖は生じ、荒療治的に行った市民プールでは、プールサイドですでに溺れる想像が頭を支配し、足が覚束なくなり本当に溺れかけてしまうという事態に。
しかしその時私は、わずかながら泳ぎ、自力で縁へ移動したそうだ。私に記憶はなく、逆に高揚に似た感覚も残っていたというのに。それからだろうか。自分に、自分じゃない自分がいるという自覚が伴ったのは。小学校のプールの授業で、親が受けさせないでくれと言ったらしいのに、私は隙をみて着替え、プールに飛び込んだらしい。私の記憶にはなかったのに。両親は「氷織が水泳を好きになった!」と喜んでいたが、私は依然、プールを見下ろすこともできず、恐怖心はなくならなかった。
それからというもの、私はそのもう一人の自分に話しかけようと頑張った。
「私、氷織って言うの。あなたは?」
「……なにも言わないの?」
私は自分の部屋でずっと空に向かって話し、そしてある日漸く、返事が返ってきたのだ。それは水泳の授業が終わって、また意識が戻ってきたとき。
「私にかまわないで。あなたは私を利用するの」と。
私は彼女に名前を付けようともした。「りんちゃん!」とか、「ひおりから取って、ひりちゃん!」などなど。だけどもはや彼女は何も答えなかった。
それでも泳げないわたしのために、彼女の存在があるという言を本質的に理解していた。そしてある日、お父さんに行ったのだ。
「ねーねーパパ。あのね、私、話しかけたい子がいるんだけどどうしても無視されちゃうんだ」
娘と休日に家で遊びたいという親バカの父は、幹部職を時たま放り出して家に居る。そんな父親は嬉しそうに顔をほころばせて言う。
「そういうときはね、その子の好きそうなものを観察して、それに合った遊びに誘ってみるんだ」
所詮小学校低学年の相談だと思っていたのだろうが、続く言葉で顔をしかめる。
「でも観察できないよ。だって見えないもん」
「見えない? どういうことだい?」
「うーんと。パパも、カメラで私を取る時、パパは写真に写らないでしょ? だからだよ!」
「ちょっとよくわからないかもなー。もう少しわかりやすく教えてくれるかい?」
「その友達って言うのが、私の中のもう一人なの」
私は険しくなる父の顔をよそに私は続けたらしい。
「私が水着を着る時ね、その子が私になって代わりに泳いでくれるの。泳ぐのが大好きで、ピーナッツとかっこいい料理が好きな女の子で……だけど名前を付けてあげようとしても断っちゃうの」
父親が医療系の部門に居たこともあったからだろうか。子供の想像上の友達ととらえるには、『解離性同一性障害』に心当たりがあったのだろう。それは二重人格とも呼ばれ、主に強いトラウマから逃避するためのはけ口が人格として成立する精神障害だとか。
その父親は母親と何度も話し合って、精神病院を受診することを決意した。
結果、その人格は極めて限られたタイミングに表出するが、自我の融合などの危険性が薄いことから経過観察として、定期的に通院することになった。
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そして現在。
目の前で石井がうっとりとした目で私を見る。
「覚えてるか? 八咫野。お前が反抗的な目で俺んちの精神病院に来たこと。俺もそこにいたんだよ! あの廃れた目、お前も壊れた側なんだってさぁ! ~~! いつもは超人みたいにふるまうくせに中身は腐りまくって、とても美味そうで!!」
「私はそんなのじゃありません! 勘違いもほどほどにしてください!」
……確かに、私は廃れた目をしていた時があった。自分に精神疾患というラベルが貼られること。灯里――あのころは灯里と名前を付けられなかったけど、彼女の存在まで否定されているようで、そのことを友達に知られれば。いやそれ以前に、両親が精神病院への提起診察の旅に愁いを帯びた視線になることが耐えられなかった。私は十分幸せなのに両親にそんな顔をさせてしまうなんてと。
私は、何も間違っていない。私は、これで十分幸せなはずだった。
しっかりにらみつけると石井はがっくりと肩を下ろし、ポケットからスマホを取り出す。
「もういいや。じゃあ、八咫野もこれで従順になろうか。『俺の命令に逆らうな』……。気持ちの植え付けができないとか、まわりくどいったらないよな。このアプリ」
――刹那にして頭が強烈な引力でかき混ぜられる。
何回も生天目さんに浴びさせられたアプリの、脱力感、酩酊感、バス酔いのようで布団の中のような。渦巻く感覚に意識が持っていかれそうになる。
『八咫野、俺に抱き着いてみろ』
石井の言葉が頭に直接、鮮明に響く。抱き着く? それって、こうやって……。と頭が勝手に動作を実行し始める。
嫌だ。私はこんな人に抱き着きたくなんて、ない!
『いいね。その拒絶に満ちた表情、最高だ! こころも堕ちてくれたらそれも嬉しいけどなぁ』
1文字ずつ吸収するように石井の言葉が頭になじんでいく。気持ち悪いのに。従うことに頭のどこかで快楽が興る。これもアプリの効果?
逆らう気りょくは、だんだんと、うせていく。わたしはきっとこのひとに……。
諦めかけたその時、脳裏に女の子の声。あなたはたしか、なまえのない、わたしの、……灯里!?
私はそこでなんとか意識を引き戻す。そうだ、出ないと。
少なくとも、彼の催眠は生天目さんが私に使うよりもよっぽど邪悪で、悪辣なもの。だからこそ、これに屈してしまえば、私は……!
「っっ!」
思いっきり木製の机に頭をぶつける。それによって頭の靄が幾分か消えた。
「私、はっ! 思い通りにはなりませんので」
しかし。石井はまだスマホを構えていた。
『俺に逆らう度、お前は人生で一番の苦痛を再現する』
「……かハッ!」
また。しかし今度の引力は質が違った。
すでに、息ができなくなっていた。
すでに平衡感覚が失せていた。
すでに視界は回り続けていた。
すでに私は溺れていたのだった。
吐きたかった息はきっと両親を欲した。
吸いたかった息はきっと続く安寧のものだった。
舌先はきっと助けを求めた。
けれど今はすべてわからない。だれも私をみつけないから。私だって海と自分の境目が曖昧でわからないから。
私はただその場に首を抑え、転がるように教卓に頭をぶつける。
しかし感覚が戻ることはない。
終わる、という感覚だけが全身の血流に混ぜ込まれて巡っていく。あの時と同じ。助けてくれるひとなどいないのだとかみさまがわたしにいっているんだっておもう。
あ、いしき、きえ......。
――――
「やっと落ちた。堕ちるの方じゃないけど。はあ。八咫野は可愛くないなぁ。そういうところもかわいいけど」
石井がスマホをしまいながらうっとりしつつ言う。俺はその様相に吐き気を催しつつ、倒れ込んだ氷織の身を案じるくらいしかできない。依然俺は緑川に組み伏せられているからだ。女子とは言えど元運動部。俺の貧弱な体では動かせるはずもない。それと組み伏せ方がちょうど力の入りづらいくらいにうまいのもあるか。
ともかく、俺は無力であった。
「答えろ石井。お前はなんでそこまでして八咫野をこんな目に合わせる。友人まで巻き込んで!」
彼は俺の方すら視ずに氷織をずっと眺めている。
「そんなの、聴いてて解らなかったかなぁ? 俺結構ちゃんと愛を伝えていたのに。その程度の国語力しかないのかい」
「ハッ。猟奇心理学のテストか? 使える大学はなさそうだけどな。だれが欲しがるんだそんな奴」
石井は俺をにらみつけるも、すぐに氷織に目を移す。
「ああ、やっぱり寝顔もかわいいなぁ八咫野は。アプリ様様だよ」
またしても吐き気の絶えない光景だ。こいつは本当に氷織にしか興味がないようだ。
……おれは、この湧き上がる嫌悪の中に、一抹の羨望が混じるのを感じた。石井は確かに、すべてにおいて道を踏み外した外道だ。しかし、それでもただ一人に対して執着、恋情を抱ける彼に、少なからず距離と人間味を感じた。それは、それ以前に彼に近しさを覚えたからだろうか。
こいつが灯里に言い寄ったとき、俺と組み合ったとき、あいつは俺に「愛されなそうなおまえが?」と言った。それは、思い返せば彼が自分自身に言ったようにも見えたのだ。俺にも、心当たりがあった。
だけど彼は、氷織という光を見出せていたのだ。アニメですら、現実から逃避したとしても、心の底から好意を注げる人が、モノが、行動すらもない俺よりもよっぽどうらやましく見えた。
でもその分、彼にとって氷織は巨大すぎる聖物。飢餓の人間に肉を直接与えまくるように、きっと身にはつかないのだろう。きっと劇薬なのだ。
――だから。だからこそ、それが、お前の欠点、ってやつなのかもな。
だってほら。俺が不敵に笑っても、石井は、ずっと氷織を眺めてる。
俺は笑いを顔に出さないようにした。




