二十七章 同志、占いの回数を考える
「同志よ、先の話について考えを聞きたい。」
姫の言う先の話とは、「あることを占うのは一回まで」という言葉があるが、何ゆえか、というものである。
同志は答える。
あることを何回も占うことは、天を侮る行いであり、罰が下るためという人もいようが、自分は世を惑わせないためと考えること。
あることに対し何回も占い、矛盾する結果が出ては、どうしたら良いか分からなくなること。
それでは占いをする者として、役割を果たさぬこと。
よって、あることを占うのは一回までにしていると、同志は言う。
「同志よ、世の人とは別に、そなたの思うところを言ってくれたことが喜ばしい。
では、私も私の思うところを言うことにする。」
姫は答える。
この国古来から伝わる占いの結果は、約百二十通りある。
対し、自分達が学ぶ占いの結果は、五百通り以上ある。
では、何ゆえ、それほど結果があるのか。
それは、人の見方がどれほど狭いかを教えてくれること。
何もしなければ、自分の料簡は、一と二しか出ないサイコロのようなものであること。
何もしなければ、同志の料簡も、三と四しか出ないサイコロであること。
これでは、「三人寄れば文殊の知恵」と言えども、一から六まで分かる文殊とは違い、三人が意見を持ち寄っても、三つの意見で延々と議論することになること。
あることを行えば、その結果は何百通りもの可能性を持つこと。
占いとは、そこまで料簡を広げる道具であること。
では、あることを五百通り考えることと、五百のことを占いで一通りずつ考えることのどちらが有用か。
占いの結果を解釈するにあたり、占う事柄について、勉強が必要であること。
豊作になるか占うならば、この国と隣の国と大国の農業の事情に通じる必要があり、また、他に占うならば、やはり三国の事情は知る必要があること。
それならば、五百のことを一回ずつ占う方が、より料簡が広がること。
では、あることを三人で一回ずつ占うことは、理にかなっているか否か。
料簡を広げることが占いの真髄であるならば、三人で結果と解釈を持ち寄ることが、それにかなうため、この場合も「あることを占うのは一回まで」という言葉に、従っていること。
この状況では、三人とも自分の料簡の狭さを心得ているため、この三人の議論は文殊に近づくであろうと、姫は言うのである。




