第九話:混濁する境界
要塞跡を這うように逃げ出し、車へ駆け込んだ三人は、激しい息を乱していた。
助手席に押し込まれた修司は、真っ白になった頭で自分の手を見つめていた。
指先が震えている。
「黒田……黒田……っ」
長年の友人だった。
気さくで、大雑把で、失意の中にいた自分を「一緒にやろう」と連れ出してくれた男。
その黒田が、目の前で闇に引きずり込まれ、消えた。
片方だけ遺されたスニーカーの映像が、焼き付いて離れない。
「修司先輩……修司先輩……っ」
後部座席から、まどかが修司の肩に縋りつき、ボロボロと涙をこぼしていた。
「怖かったです……黒田さんが……あんな……。
でも、先輩は無事でよかった……本当に無事でよかったです……!」
恐怖に震えながらも、彼女の瞳の奥には「修司が無事であったこと」に対する異常なまでの安堵と、自分だけが彼を支えているという歪んだ充足感が揺らめいていた。
「おい、相良。いつまで呆けてやがる」
運転席に乗り込んできた中垣内が、粗暴にエンジンをかけた。
アクセルを踏み込み、車は荒々しく山道を下っていく。
「中垣内さん……黒田は……黒田はどこへ連れ去られたんですか!?」
修司が掠れた声で詰め寄る。
中垣内はバックミラー越しに修司を冷ややかに睨みつけた。
「言ったはずだ。あそこに引きずり込まれた奴は二度と戻らない。
15年前の俺の相棒も……そうだった」
中垣内は胸ポケットから煙草を引っ張り出し、シガーライターで火をつけた。
狭い車内に、苦い煙が立ち込める。
「15年前、俺はこの淡路島で起きた連続失踪事件を追っていた。
当時、大阪の暴力団員が島で姿を消したからだ。
だが、調べれば調べるほど事件は警察の手に負えない領域に入っていった」
「……『海から来るもの』ですか」
「そうだ。最初はただの神隠しだの都市伝説だと思っていた。
だが、相棒が消えた夜……俺は見たんだ。
海の底から這い上がってきた真っ黒な『ナニカ』が
相棒の足を掴んで……海の中へ引きずり込んでいくのをな」
中垣内はハンドルを握る手に力を込めた。
「警察は俺の報告を『精神失調による妄想』と処理した。事件は未解決のまま時効。俺はそれ以来、個人的にこの島の事件を追い続けている。……そして今、15年の周期を経て、奴らが再び目覚めた」
◇
車は洲本市内の旧市街地にある、中垣内が潜伏先として使っている古いアパートの前に止まった。
部屋の中は、壁一面に15年前と現在の失踪事件の資料、古い淡路島の地図、そして不気味な心霊写真が貼り付けられていた。
修司は壁の資料に目を通した。
15年前の7人の被害者。
そして今回の被害者たち。
「……中垣内さん。15年前の最後の被害者……当時15才だった少年の名前は?」
修司の問いに、中垣内は壁の一角を指差した。
そこに貼られていた新聞記事の切り抜き。
『淡路島連続失踪事件 最後の目撃情報 15歳の少年が行方不明に』
記事の写真に写っていた少年の顔を見た瞬間、修司の頭の中に激しい激痛が走った。
「ぐっ……!?」
「先輩!? 修司先輩!」
まどかが咄嗟に修司の身体を抱きかかえる。
視界が真っ赤に染まり、頭の中でキーンという高周波の耳鳴りが鳴り響く。
少年の顔。
どこかで見たことがある。
いや、違う。
記憶の底――封印されていた暗い箱が開くような感覚。
(この少年は……僕の、幼馴染み……?)
「……相良。お前、何か思い出したか?」
中垣内の低い声が、耳鳴りを突き破って届く。
「この少年……名前は『有馬 蓮』。15年前、沼島の近くで消えた少年だ」
中垣内は修司の胸元で鈍く光るLXを指指した。
「有馬蓮が消えた現場に残されていたのが、そのカメラと同型のLXだった。そして……有馬蓮の父親は、お前の親父と古物商仲間だった男だ」
「……な……に……?」
修司の思考が停止する。
父が自分に言った言葉。
『お前を守るカメラだ』
あれは譲り受けたのではない。
あの日、15年前の淡路島で――幼かった自分は、蓮が消えた現場にいたのだ。
そして、打ち捨てられていたこのLXを拾い、恐怖のあまり記憶を失ったまま東京へ逃げ帰ったのではないか。
「……僕が……引き寄せていたのか……?」
修司は己の手を見つめた。
自分がこのカメラを持ち続けていたから。
15年前に封印された呪いの輪が、再び自分を中心に動き出したというのか。
「先輩のせいじゃありません!!」
まどかが叫び、修司の顔を両手で強く包み込んだ。
その瞳には狂おしいほどの愛情と執着が渦巻いている。
「先輩は悪くありません! 何があったとしても、私は先輩の味方です!
先輩が呪われているなら、私だって一緒に呪われます……!
だから……自分を責めないでください……っ」
湿ったまどかの吐息が、修司の頬にかかる。
その時、修司の胸元でLXが――
カチリと、誰も触れていないのに勝手にシャッターを切る音を立てた。
部屋の温度が、急速に氷点下まで下がり始める。
窓ガラスの外。
真っ暗な夜の雨の中に、無数の「濡れた顔」が張り付いて、部屋の中をじっと見つめていた。
15年前の被害者たち。
そして――今朝消えたばかりの、黒田の顔が。
黒田の死に顔が、歪んだ笑顔を浮かべて…修司を見つめていた様に感じた。




