第八話:由良の要塞跡
翌朝、雨はあがっていたものの、湿んだ重い空気が島全体を覆っていた。
レンタカーは洲本からさらに南下し、由良地区の山中へと延びる山道を登っていく。かつて明治時代に旧日本軍が築いた「由良要塞」の跡地。鬱蒼とした生い茂る木々に遮られ、昼間だというのに日差しはほとんど届かない。
車内は昨夜以上に重苦しい静寂に包まれていた。
助手席の修司は、静かにLXの動作確認をしていた。
金属の爪がフィルムを巻き上げるカチリという乾いた音が、静寂に小さく響く。
「……なぁ、修司」
運転席の黒田が、掠れた声で呟いた。
「俺……昨日の夜、夢を見たんだ」
「どんな夢だ?」
「濡れた女が……俺のベッドの横に立っててさ。
ずっと俺の首を撫でながら……
『次はあんたの番』って、耳元で囁くんだよ。
……起きたら、首筋が氷みたいに冷たくなっててさ……」
黒田の顔は土気色で、目元には濃い隈が落ちていた。あれほど男らしさにこだわり、強気だった面影はどこにもない。
後部座席のまどかが不安そうに息を呑み、修司のシートの背もたれをキュッと握りしめた。
「黒田、余計なことは考えるな。僕からは離れるなよ」
修司の短い言葉に、黒田は力なく首を縦に振った。
◇
山道の行き止まりに車を止め、三人は生い茂る草木をかき分けて要塞跡へと入った。
赤レンガ造りの巨大な砲台跡や弾薬庫が、苔に覆われたまま無残な姿を晒している。半地下になった弾薬庫の内部は、真っ暗な洞窟のように口を開けていた。
一ヶ月前、ここで心霊動画を撮影していたユーチューバーが消息を絶っている。
「……冷えるな。ここ、外より明らかに気温が低いぞ」
黒田が身をすくめながら、懐中電灯の光を壁線に向けた。
修司はLXを構え、ファインダー越しに弾薬庫の奥を覗き込む。
薄暗い空間。赤レンガの壁。
そして――ファインダーの隅に、黒く澱んだ「波紋」のようなゆらめきが見えた。
(いる……! ここが奴らの巣窟か……?)
「修司先輩……私、なんだか頭が重いです……」
まどかが眉をひそめ、修司の腕にすがりついてきた。
その体温は高く、吐息が荒い。
「大丈夫か、四宮。無理をするな」
「いえ……先輩の腕に触れていられるなら……私、全然平気です……」
恐怖の中でも、修司に触れられていることに甘美な恍惚を感じているのか
まどかはうっとりと瞳を潤ませた。
その時だった。
「ひっ……!?」 後ろを歩いていた黒田が、短い悲鳴をあげた。
「どうした、黒田!?」
修司が振り向くと、黒田は弾薬庫のさらに奥――
真っ暗な地下へと続く階段の前に立ち尽くしていた。
「あ……あそこに……誰か……誰かいる……!」
黒田の懐中電灯の光が揺れる。光の先には、ただ打ち捨てられた瓦礫があるだけだ。
肉眼では何も見えない。
だが、修司が急いでLXのファインダーを覗くと――。
階段の闇の中から、何本もの真っ黒く変色した細い腕が伸び、黒田の足首に固く巻きついていた。
「黒田! 動くな! 引き返せ!」
「いや……動かねぇ……! 脚が、固まって……! 修司、助けてくれ!!」
黒田の足元から、ザザ……ザザ……と水を含んだ不快な擦過音が響く。
闇の奥から、頭髪を垂らした濡れた女の影が、ゆっくりと這い出てきていた。
その顔には目も鼻もなく、ただ巨大な黒い「穴」が空いている。
『……きて……こっちへ……』
湿った声が、弾薬庫の中に反響した。
「嫌だぁぁぁッ!!」
黒田は狂ったように叫ぶと、自分の足首に絡みつく見えない手を振り払おうと暴れた。しかし、足元のバランスを崩し、そのまま暗闇の階段へと転がり落ちてしまった。
「黒田!!」
修司は叫び、階段へ駆け寄ろうとした。
しかし、その瞬間、弾薬庫の入口から強い光が差し込み、怒号が響いた。
「動くなッ!! そこまでだ!!」
◇
光の主は、中垣内刑事だった。
拳銃を構え、鋭い目つきで修司たちを睨みつけている。
「中垣内さん……! 黒田が下に落ちたんだ、助けに行かないと!」
修司が叫ぶが、中垣内は容赦なく拳銃の狙いを修司に定めた。
「動くなと言っている! 相良……お前、やっぱりここに来たか」
「警察の邪魔をしているわけじゃない! あの中に『何か』がいるんだ!」
「分かっている!!」
中垣内は大声を張り上げた。その顔は怒りと、長年の苦悩で激しく歪んでいた。
「分かっているからこそ言っているんだ!
あの中にいるのは……人間じゃない! 15年前に俺の相棒を喰らい…
この島の人間を呑み込み続けている『バケモノ』だ!」
中垣内の手元が微かに震えていた。
「お前がそのカメラ……を向けたせいで、奴ら(怪異)が活性化しているんだよ! そのカメラは怪異を呼び寄せる磁石だ! 今すぐそれを捨てろ!」
「できません! このカメラがなければ、奴らの姿を捉えられない!」
「くそがッ……!」
中垣内が吐き捨てたその時、地下の階段から
ゴボリ……と水が噴き出すような不気味な音が響いた。
「あぁぁぁぁぁッ!!」
暗闇の底から、黒田の絶叫が上がった。
しかし、その悲鳴は一瞬で途切れ
あとは不快な「ペタ……ペタ……」という湿った音と
衣類が擦れる音だけが残された。
「黒田ぁぁッ!!」
修司が階段を駆け下りようと飛び出したが、中垣内が強引にその身体を押し止めた。
「やめろ! もう遅い! 引きずり込まれた奴は、二度と戻らん!!」
「放せ! 黒田が……僕の友人があの中に!!」
修司が暴れる中、後ろで見ていたまどかが顔を蒼白にし、修司の背中に抱きついた。
「修司先輩……ダメです! 行かないで……私を置いていかないでくだい……ッ!」
まどかは泣き叫びながら、狂おしいほどの力で修司を押しとどめた。
地下の闇から、黒く湿った気配が溢れ出し、階段の上へと這い登ってくる。
中垣内は舌打ちをすると、修司とまどかの襟首を掴んで強引に弾薬庫の外へと引きずり出した。
「走れ! 車へ戻るぞ!!」
明るい日差しの下に飛び出した三人の後ろで、弾薬庫の黒い洞窟が、冷たい嘲笑を浮かべるように静まり返っていた。
黒田慎一の姿は、どこにもなくなっていた。
15年前の未解決事件と同じ――
ただ、彼の履いていたスニーカーの片方だけが、階段の途中にポツンと残されているだけだった。




