第七話:遠くからの足音
窓を叩く雨音が、夜の静寂を容赦なく引き裂いていた。
ホテルの部屋の中は、息が詰まるほどの沈黙に包まれている。
修司はデスクの上のLXから目を離さないまま、思考を激しく回転させていた。
ファインダー越しに見えた、黒田の首筋に絡みつく無数の黒い指。
あの影は確実に黒田を蝕み始めている。
そして、昼間に海へ引きずり込まれかけた、まどかも同様だ。
「……修司、急に黙り込んでどうしたんだよ?」
黒田が不安を押し殺した声で尋ねる。
自分の首元を落ち着かなさそうに手で擦っているが、その手足は微かに震えていた。
「黒田。お前……首や肩に違和感はないか?」
「え……? いや、まあ……さっきから妙に肩が重いっていうか、凝ってる感じはするけど……ただの疲れだろ?」
修司は答えなかった。
事実をそのまま伝えれば、恐怖によって黒田の精神的な「隙」がさらに広がり、怪異の侵食を加速させてしまう恐れがあった。
修司は冷たい声で命じた。
「今夜はもう休め。明日は朝一番で、由良の要塞跡へ向かう」
「由良の要塞跡……? ユーチューバーが消えたっていう、あの山奥の廃墟か?」
「ああ。15年前の事件でも、あの周辺で人が消えている。手がかりはあそこにしかない」
黒田は生唾を飲み込み、「分かった……」と短く答えると、自分の部屋へと戻っていった。
◇
部屋に残された修司とまどか。
まどかは修司のすぐ後ろに立ち、不安そうに袖口を握りしめていた。
「修司先輩……私……東京には帰りません」
静かだが、強い意志を秘めた声だった。
修司が振り返ると、まどかはまっすぐな瞳で修司を見つめ返してきた。
「さっきは取り乱してすみませんでした。でも……私、分かったんです。
先輩は私を遠ざけようとしているけれど、それは私を守るためだって」
「四宮……」
「私を心配して怒ってくださる先輩の優しさが、私……たまらなく嬉しいんです。
だからお願いです、私を側にいさせてください。どんな恐怖でも、先輩と一緒なら耐えられます」
まどかは一歩歩み寄り、修司の胸にそっとおでこを押し当てた。
その身体は微かに震えていたが、修司への異常なまでの執着が、彼女の恐怖を打ち消しているようだった。
心霊や呪いといった非科学的な存在よりも、修司から拒絶され、見捨てられることの方が、彼女にとっては遥かに恐ろしいのかもしれない。
修司は深く息を吐き出した。
「……身の安全は保障できないぞ」
「はい! 先輩の側で死ねるなら……本望です……っ」
うっとりと頬を染めるまどかに、修司は苦笑を漏らすしかなかった。
その時、修司のスマートフォンが震えた。
画面に表示されたのは、前職の編集部の同期からの着信だった。
修司はまどかから少し距離を置き、通話ボタンを押した。
「……僕だ」
『修司か! よかった、連絡がついて。お前、今淡路島にいるんだって?』
「ああ。それがどうかしたか?」
電話の向こうの同期は、声をひそめて言った。
『お前が辞めた後、例の自殺した実業家の遺品を整理していた遺族から
編集部に連絡があったんだよ。……お前に渡してほしい手紙があるって』
修司の指先がピクリと固まった。
自分が誤った記事を書き、死に追いやったかもしれない男。その遺族からの手紙。
『その手紙にな、気になることが書いてあったんだ。
あの実業家、亡くなる直前に何度も
「神ノ島の呪いが、俺を追ってくる」ってうなされていたらしい』
「なに……?」
『お前が追っていた告発記事のネタ元……あれ、元々は淡路島出身の人物からのタレコミだったんだろ? そのタレコミ屋も、一ヶ月前から連絡が取れなくなってるらしい』
修司の脳内で、バラバラだったピースが急速に繋がり始めた。
自分が会社を辞める原因となったあの事件すらも、この淡路島と根底で繋がっていたのか。
「……手紙の内容を、後でメールで送ってくれ」
『分かった。だが修司、気をつけてくれよ。なんだか嫌な予感がするんだ……』
◇
通話を終えた修司は、暗い窓の外を見つめた。
雨の音に混じって、ホテルの廊下の奥から――。
ぺた。
ぺた。
水を含んだ不快な足音が、ゆっくりと近づいてくるような気がした。
修司は素早く首から下げたLXを構え、部屋のドアの覗き穴へとレンズを向けた。
ファインダーを覗き込む。
真っ暗な廊下。
街灯の光が途切れたその暗闇の奥に――。
頭髪を垂らした真っ黒な影が、ドアのすぐ目の前に立っていた。
影は、覗き穴の向こうから、修司のファインダーをじっと見つめ返していた。
(……足音が、近づいてきている)
怪異はもう、目と鼻の先まで迫っていた。
明日の由良要塞跡。そこで何かが起きる――そう…修司は予感していた。




