第五話:五色浜の波音
翌朝。雲が低く垂れ込め、洲本の街は薄暗い朝もやに包まれていた。
修司たちはレンタカーで島を横断し、西海岸に位置する「五色浜」へと向かった。
五色の小石が敷き詰められた美しい海岸として知られる景勝地だが、三日前に地元の女子高生の自転車と鞄だけが残され、本人が忽然と姿を消した現場でもある。
車内は重苦しい静寂が支配していた。
助手席の修司は、膝の上に置いたLXの金属ボディをじっと見つめている。
(15年前の最後の被害者が残したカメラ……それがなぜ、父を経て僕の手元にある?)
幼い頃、父からこのLXを譲り受けた時の記憶は曖昧だ。
ただ「お前を守るカメラだ、大事にしなさい」と、固い表情で渡されたことだけは今も覚えている。
「……先輩、顔色が優れませんね。お茶、飲みますか?」
後部座席から、まどかが甲斐甲斐しくボトルを差し出してきた。
「ありがとう、四宮」
「はい! 先輩のためなら、いつでも何でも言ってくださいね」
まどかは修司に頼にされることに、喜びを感じているようで頬を緩ませる。
会社の同僚ではなくなり、ただの友人となってからは積極的になってきている。
ハンドルを握る黒田は、いつもの威勢の良さが影を潜め、目の下に薄いクマを作っていた。
昨夜、まともになむれなかったらしい。
「……五色浜か。あそこは昔から『神隠し』の噂が多い場所なんだろ?」
「ああ。五色浜だけじゃない。この島には古くから『海から来るもの』を鎮めるための伝承が存在する」
修司は手帳を開いた。
「15年前の事件でも、被害者が消えた場所はすべて海岸線沿いか、水場に近い廃墟だ。そして今回も、岩屋港、志筑の廃ペンションの井戸跡、そしてこの五色浜……」
◇
五色浜に到着すると、波が荒々しく打ち寄せ、ザザァンと鈍い音を立てていた。
平日の早朝ということもあり、観光客の姿は皆無だ。
警察の現場検証を示す黄色いテープが、防波堤の端で虚しく風に揺れている。
「ここに、女子高生の自転車が残されていたらしい」
修司は車を降り、風に吹き晒されながら砂浜へと歩を進めた。
波打ち際近くの砂浜に、ポツンと不自然な凹みがあった。自転車のスタンドが刺さっていた痕跡だろう。
修司は首から下げたLXを構えた。レンズを覗き込み、ピントリングを回す。
ファインダーの中に映る、灰色に濁った海と荒々しい波。
そして――。
(……いた)
修司の背中に氷の針が突き刺さるような戦慄が走った。
ファインダーの端、波打ち際に「それ」は立っていた。
全身が濡れ鼠のように黒く湿り、頭髪が顔全体を覆い尽くしている人型。
肉眼で砂浜を見ても、そこには波が打ち寄せる小石があるだけだ。
だが、LXのファインダー越しには、はっきりとその姿が捉えられていた。
黒い人型は、ゆっくりとこちらへ向かって歩を進めてくる。
一歩踏み出すごとに、波音に混じって「ペタ、ペタ」という湿った足音が
ファインダー越しに鼓膜へ響く。
「……修司? どうしたんだよ、また固まって……」
黒田が不安そうに修司の肩に手を伸ばした、その時だった。
「……あ」
後ろにいたまどかが、ぽつりと声を漏らした。
「……綺麗……」
「四宮……!?」
修司が跳ね起きるように振り返ると、まどかは虚ろな瞳で海を見つめていた。
焦点の定まらない瞳。まるで夢遊病者のように、一歩、また一歩と波打ち際へ向かって歩き出している。
「おい、四宮ちゃん!? どこ行くんだよ!」 黒田が叫ぶ。
まどかの視線の先――
肉眼では何も見えないはずの海の真っ只中に、LXのファインダーで捉えた
「黒い影」が手を大きく広げて立っていた。
『おいで……こっちへ……』
風の音に混じり、耳元で擦れるような女の声が聞こえた気がした。
「四宮、止まれ!!」
修司は咄嗟に走り出し、まどかの華奢な身体を後ろから強く抱きすくめた。
「きゃっ……!?」
衝撃で正気に戻ったのか、まどかは瞬きを繰り返し
自分が膝まで海に浸かりかけていることに気づいて悲鳴をあげた。
「し、修司先輩……!? 私、何を……」
「離れるな! 海を見るな!」
修司はまどかを抱きかかえるようにして砂浜へと引き戻した。
まどかは修司の力強い腕の中で、恐怖と同時に激しい高揚感に胸を打たれ、赤くなった顔を修司の胸元に埋めた。
「あぁ……先輩……そんなに強く抱きしめられたら……私……」
「冗談を言っている場合じゃない!」
修司は冷や汗を拭いながら、LXを再び海へと向けた。
しかし、ファインダーの中の影は消えていた。
ただ、波打ち際の砂浜に、大人の足跡にしては不自然に歪んだ
「濡れた足跡」が、海から陸に向かって数歩分だけ残されていた。
◇
「……ハァ、ハァ……マジでヤバいだろこれ……」
レンタカーへ戻った三人は、荒い息を吐いていた。
まどかは修司から渡されたタオルで身体を拭きながら、すっかり縮こまっている。
「申し訳ありません、修司先輩……私、急に頭がボーッとして……
綺麗なお姉さんが『いらっしゃい』って手招きしているように見えて……」
「責めているわけじゃない。無事でよかった」
修司はまどかの頭を優しく撫でた。まどかはそれだけで救われたように目を潤ませる。
その時、車のウィンドウがコンコンと叩かれた。
叩いたのは、またしても中垣内刑事だった。
「ひっ……!」 まどかが小さく悲鳴をあげる。
中垣内は煙草を咥えたまま、車内をギロリと睨みつけた。
「相良。お前ら、今……何を見た?」
修司は車から降り、中垣内と向き合った。
「……刑事さん。あなたは知っているんですね。この島で『何が』起きているのかを」
中垣内は煙草の煙を吐き出し、遠くの濁った海を見つめた。
「15年前……俺の相棒が消えた」
「え……?」
「当時、俺と一緒に15年前の失踪事件を追っていた大阪府警の若い刑事がいた。そいつはある日、『海から足音が聞こえる』と言い残し、この五色浜で忽然と消えたんだ。残されていたのは……履いていた靴だけだった」
中垣内の目が、獰猛な肉食獣のように光った。
「奴らは人間を誘い込む。何かに対する『執着』や『心の隙間』を持った奴を狙ってな。……相良、お前の後ろにいるその女も、相当な『隙』を抱えてるぞ」
修司はハッとして車内のまどかを見た。
自分への過剰なまでの依存と執着。それが、怪異を引き寄せる隙になっているのか。
「刑事さん、一つ教えてください。15年前の事件と、このカメラ……LXにはどんな関係が?」
修司が問うと、中垣内は冷たい笑みを浮かべた。
「15年前に消えた最後の被害者……あの15歳の少年はな、事件の直前に『変なカメラを拾った』と言っていたそうだ。そして、そのカメラで撮った写真には、消えた人間たちの『死に顔』が写っていたらしい」
中垣内は修司の胸元のLXを指差した。
「お前が持っているそれは……多分…ただのカメラじゃない。
怪異を呼び寄せる『何か』か、あるいは……異界への…扉だ」
風が激しく吹き荒れ、五色浜の波が巨大な音を立てて砕ける。
修司のLXが、胸元でかすかに冷たさを増した気がした。




