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第三話:廃ペンションの残響



国道28号線を南下し、二人は志筑しづきエリアの山手へと車を走らせた。

リゾート開発の波に乗り、かつては多くの観光客で賑わったというペンション街。しかし今は、打ち捨てられた建物が鬱蒼とした雑木林の中に潜んでいる。


目的の場所は、その最奥に位置する『ペンション・グリーンヒル』だった。

一ヶ月前、ここで心霊スポット探索の動画を撮影していた大学生カップルが行方不明になっている。


「……うわぁ、すっごい空気だな。お化け屋敷の看板でも掛けた方がしっくり来るぜ」

車を降りた黒田が、半袖の腕をさすりながら軽口を叩いた。


初夏の生温かい風が吹いているはずなのに、敷地内に一歩足を踏み入れると、肌にまとわりつくような冷気が漂っている。木々の隙間から覗く二階建ての建物は、外壁のペンキが剥げ落ち、黒ずんだ蔦がにょきにょきと壁面を這い回っていた。


「黒田、足元に気をつけろ。割れたガラスや腐った木材が多い」


修司はポケットから小型のLEDライトを取り出し、足元を照らしながら廃ペンションの玄関へと近づいた。


ギシ……ギシ……。


腐食した木製ドアを押し開けると、カビとホコリ、そして何かが腐敗したような不快な匂いが鼻を突いた。


「うっ……これはきついな。修司、本当に中に入るのか?」

「当然だ。警察の鑑識が入った後とはいえ、何か見落としがあるかもしれない」


修司は首から下げたPENTAX LXを構えた。

暗がりの中で、ファインダー越しに荒れ果てたロビーを見渡す。

カウンター、破れたソファ、散乱したパンフレット。

一見すると、ただの古い廃墟だ。


「失踪した大学生二人の荷物は、二階の客室で見つかったらしい」


修司は階段を一歩ずつ踏みしめながら二階へ上がった。

ギィ……ギィ……と不気味な鳴り声をあげる階段を上りきると、長い廊下が真っ直ぐに伸びている。

一番奥の部屋――205号室のドアが半開きになっていた。

部屋の中は、時間が止まったかのように静まり返っていた。


テーブルの上には、飲みかけのペットボトルと、電源の切れたビデオカメラ三脚が残されている。


「ここか……」


修司は静かに室内を観察した。

部屋には荒らされた形跡がない。争った痕跡も、血痕もない。

まるで、二人が自ら進んで窓から飛び降りでもしたかのように、唐突に消失しているのだ。

修司はレンズの絞りを合わせ、室内を撮影し始めた。


カシャ。


静寂の中に、機械式のシャッター音が硬質に響く。


カシャ、カシャ。


角度を変えて数枚撮影した時、修司の手がぴたりと止まった。

ファインダーの中に違和感があった。


部屋の隅、大きなクローゼットの扉の前。

肉眼では何も存在しないはずの空間に、ファインダー越しだと――不自然な「空気の歪み」が見える。

水の中に油を落としたかのような、ゆらゆらとした透明な揺らぎ。


(まただ……岩屋港の時と同じ……)


修司は息を殺し、じっとその歪みをレンズで追いかけた。

すると、その歪みの中から、ゆっくりと「何か」が浮き上がってきた。


それは、濡れた長い黒髪。

そして、不自然な角度で折れ曲がった、白い人間の手首だった。


その手首が、ゆっくりと修司の方へ向かって伸びてくる――。


「――おい!! 修司!!」


突然、背後から大声で肩を掴まれ、修司はハッと息を呑んだ。

ファインダーから目を離すと、そこには汗をびっしょりかいた黒田の顔があった。


「く、黒田……?」

「お前、さっきから何撮ってんだよ! 呼びかけても全然返事しねえし!」


黒田の声は明らかに震えていた。


「いや……クローゼットの前に、何か……」


修司が視線をクローゼットへ戻すと、そこには何もなかった。ただの古びた木製の扉があるだけだ。


「冗談よせって! ここ、マジでヤバいぞ……早く出ようぜ」


黒田は珍しく取り乱した様子で、修司の腕を引いて部屋を飛び出そうとした。

いつもサバサバとして明るい黒田が、ここまで露骨に怯えるのは珍しかった。


「黒田、少し落ち着け。何か見えたのか?」


廊下に出たところで、修司は黒田の腕を掴んで足を止めさせた。

黒田は荒い息を吐きながら、頭をガリガリとかいた。


「……見えたわけじゃねえよ。ただ……聴こえたんだ」

「声が?」

「ああ。お前がクローゼットを撮影してる時……俺のすぐ耳元でさ……」


黒田は顔を歪め、ボソリと呟いた。



「『見ぃつけた』って……女の低い声が……」



その言葉が落ちた瞬間、廊下の奧から――。


コン。

コン、コン。


小さな、固いものが木床を叩くような音が響いた。

二人は息を呑み、暗闇の奥を見つめた。


コン……コン……。


音は確実に、二人が立つ廊下に向かって近づいてきている。

足音ではない。もっと重く、湿った何かが床を這いずるような音だ。


「走るぞ、修司!!」


黒田が修司の服の引っ張り、叫んだ。

二人は一目散に階段を駆け下り、廃ペンションの玄関を飛び出した。





夕闇が迫る雑木林を抜け、レンタカーに飛び込む。

黒田は荒々しくエンジンをかけると、アクセルを踏み込んで廃ペンションを後にした。

バックミラーに映る廃屋は、急速に落ちていく秋の夜長の中に飲み込まれていった。


「ハァ……ハァ……クソッ、なんなんだよあの場所は!」


ハンドルを握る黒田の手が、微かに震えている。

修司は助手席で無言のまま、首から下げたLXを見つめていた。


(気のせいじゃない。僕のカメラは、奴らを映し出している……のか…)


なぜ、完全機械式の古いカメラにそんな異変が起きるのか。

修司の脳裏に、15年前の出来事が重なった。

自分が初めてこのカメラを手に入れたのも、そして――この島で連続失踪事件が起きたのも、ちょうど15年前だった。

その時、修司のスマートフォンが振動した。

着信画面には『四宮まどか』の名が表示されている。


「……はい、四宮」

『あ……修司先輩! よかった、出てもらえて……!』


電話越しでもわかるほど、まどかの声は上擦っていた。


「どうした? そんなに慌てて」

『先輩、今どこにいますか!? 怪我はありませんか!?』

「ああ、大丈夫だ。車で移動中だよ。何かあったのか?」


電話の向こうで、まどかが深く息を吐き出す気配がした。


『……私、やっぱり居ても立っても居られなくて。……会社に理由を言って、有給を取りました』

「は……? 有給って、まさか」

『今、高速バスに乗っています。あと一時間ほどで、淡路島に着きます』

「四宮! バカなことをするな! ここは遊びで来ているんじゃないんだぞ!」


修司は思わず強い口調で叱責した。

普段、めったに感情を表に出さない修司の怒り声に、運転席の黒田が驚いてチラリと横目を見た。

しかし、電話の向こうのまどかは、怯むどころかうっとりとしたような、小さな吐息を漏らした。


『……あ……先輩、私を心配して怒ってくれているんですね……嬉しい……』

「……四宮」

『すみません、出しゃばりなのは分かっています。でも、嫌なんです。先輩が遠くに行ってしまって、また一人で傷つくのを見るなんて……! 私、先輩のためなら何だってします。だから……側にいさせてください』


まどかの声には、尋常ではない執着と、溢れんばかりの情愛がこめられていた。

柔らかで誰にでも優しい普段の彼女からは、想像もつかないほどの強い意志。

修司は頭を抱えた。


「……着いたら連絡しろ。バスターミナルまで迎えに行く」

『はい! ありがとうございます、修司先輩……!』


通話を切ると、修司は深々とシートに背を預けた。


「四宮ちゃん、来ちゃうのか?」

黒田が苦笑いしながら尋ねる。


「ああ……来させてしまった。放っておくわけにもいかない」

「ま、いいじゃねえか。華があった方が現場も明るくなるだろ。四宮ちゃん、超美人だしな」


黒田は冗談めかして言ったが、その目は笑っていなかった。

車のリアウィンドウの外。


追従するように漂う暗い影に、二人はまだ気づいていなかった。



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