第二話:明石海峡を渡る影
借り受けた軽自動車のエンジン音が高らかに響く。
淡路島の東海岸を走る国道28号線。車窓からは、碧く広がる大阪湾と、遥か遠くに霞む明石海峡大橋が見えた。運転席の黒田は、窓を全開にして心地よさそうに風を浴びている。
「いやあ、ドライブには最高のロケーションだな! こんな綺麗な島で、人がポンポン消えてるなんて思えねえよ」
「……だからこそ怪しいんだ。景色に紛れて、違和感が隠れてしまう」
助手席の修司は、ダッシュボードに置いたノートにペンを走らせていた。
15年前の連続失踪事件と、今回起きた三件の事件。
被害者の年齢も性別もバラバラだが、ひとつだけ共通点がある。
「黒田、志筑の廃ペンションの前に、岩屋港の近くへ寄ってくれ」
「ん? 岩屋? 最初の失踪者が目撃されたのは洲本だろ?」
「15年前の最初の事件だ。15年前の失踪者第一号――当時22才だった大学生の男性は、岩屋港のフェリー乗り場付近で最後に目撃されている。彼の足跡から辿り直したい」
修司の徹底した分析癖に、黒田は苦笑しながらハンドルを切った。
「相変わらず細かいな。まあいいや、修司の勘に従うぜ」
◇
岩屋港周辺の旧市街地は、細い路地と古い木造家屋がひしめき合っている。
車をコインパーキングに止め、二人は港沿いの商店街を歩いた。
潮風と干物の匂いが交じるノスタルジックな町並みだが、人通りはまばらだ。
修司は首から下げたPENTAX LXのファインダーを覗き、古い路地の風景を数枚収めた。
「すみません、ちょっとお伺いしたいのですが」
修司は、乾物屋の店頭で作業をしていた高齢の女性に声をかけた。
「あら、お兄さんたち、観光客かい?」
「ええ、まあ……ライターの仕事をしていまして。実は、15年ほど前にこのあたりで起きた事件について調べているんです」
女性の表情が、一瞬で凍りついた。
手に持っていたアジの干物が、ハラリと籠の中に落ちる。
「……15年前の、あの事件かい?」
「ご存じですか? 当時、ここから若い男性がいなくなったはずですが」
「知ってるも何も……あの年は気味が悪かったよ。夜になると、海の方からヒタヒタと足音が聴こえるって噂されてね。あの男の子も『綺麗な女の人に呼ばれた』って、夜中にふらふら港へ歩いていったのを近所の人が見てるんだ」
女の人、と修司は心の中で呟いた。
「警察は事件性なしとして処理したみたいですが、何か他に変わったことはありませんでしたか?」
「変わったこと……そういえば、あの頃からだよ。沼島のあたりの古い神社で、お祓いの儀式が取りやめになったのは。詳しいことは知らんがね……」
女性はそれ以上語ろうとせず、奥へ引っ込んでしまった。
「綺麗な女の人、か……。今回の失踪事件でも、SNSに『きれいな女の人が立っている』って書き込みがひとつあったな」
黒田が腕を組み、唸るように言った。
「男を誘い出す妖怪か何かか? だが、今回の被害者には女子高生も含まれてるぞ」
「ああ。男だけを狙っているわけじゃない。性別に関わらず、何か特定の『条件』を満たした人間が引きずり込まれている可能性がある」
修司は思考を巡らせながら、港の防波堤へと歩を進めた。
◇
防波堤の先端に立ち、海を見つめる。
静かな波音が、シャリ、シャリと心地よく響く。
しかし、修司の視線は足元のコンクリートに固定された。
「……黒田、これを見ろ」
「ん? ただの潮の染みだろ?」
「ーーー違う。形を見てみろ」
黒田が覗き込む。
黒ずんだ染みは、まるで大人の人間がドロドロに溶けてへばりついたかのような、不自然な人型を描いていた。しかも、その染みはまだ新しく、わずかに湿っているように見えた。
修司は無意識にカメラを構え、その染みにピントを合わせた。
ファインダーのガラス越しに見た瞬間――。
ギシッ、とカメラの内部から嫌な軋み音が聞こえた。
ファインダーの中の背景が、グニャリと歪む。
(なんだ……!?)
レンズの先、人型の染みの真上に、真っ黒い頭髪のようなものがゆらりと揺れた気がした。
「修司? どうした、顔色悪いぞ」
黒田の手に肩を叩かれ、修司はハッと正気に戻った。
肉眼で見直すと、そこにはただの黒い染みがあるだけだった。
「……いや、なんでもない。光の反射だ」
修司は24mmのレンズキャップをはめ直したが、背筋に冷や汗が伝うのを感じていた。
愛機のPENTAX LXは、完全機械式の頑丈なカメラだ。理由もなくファインダーが歪むことなどあり得ない。
「おいおい、しっかり頼むぜ? 頼みの綱のお前が怯えてちゃ、調査にならん」
黒田はそう言って爽やかに笑ったが、その視線はどこか落ち着きなく周りを泳いでいた。
彼自身も、この場所に漂う無言の不気味さを感じ取っているようだった。
◇
港を後にし、車へ戻ろうとした二人の背後に、重い足音が近づいてきた。
「おい。そこの二人」 低い、濁った声。
振り返ると、そこには黒っぽいスーツの中年男性が立っていた。
鋭い目つき、落ちくぼんだ頬、そして鋭利な刃物を思わせるようなギラついた観察眼。
「……どちら様でしょうか」 修司が冷静に問い返す。
男は警察手帳をサッと提示してみせた。大阪府警の文字と『中垣内』という名前が見える。
「大阪府警の中垣内だ。お前ら、さっきから不審な動きをしてるな。東京の雑誌社をクビになった元ライターと、そのゴロツキ仲間か?」
「ゴロツキとは失礼だな、オッサン!」
黒田が身体を乗り出して怒りを露わにするが、修司はそれを手で制した。
「大阪府警の刑事が、なぜ兵庫県の淡路島で単独捜査を? それに、僕たちの身元をもう調べているとは、手が込んでいますね」
中垣内は不敵に口元を歪めた。
「15年前の事件でな……大阪の人間も巻き込まれてるんだよ。俺はあの事件を忘れたことはない。そして今、また同じ匂いがし始めた」
中垣内は修司の胸元に下がるカメラに目をやった。
「噂は聞いているぞ、相良。お前は記事で人を殺したそうだな。今度は…事件の真相解明気取りか?」
意地悪な言葉が、修司の胸に鋭く突き刺さる。
しかし、修司の表情はピクリとも動かない。
「過去の過ちは否定しません。ですが、僕たちは今起きている失踪事件の事実を追っているだけです。警察の邪魔をするつもりはありません」
「ふん。口だけは達者だな」
中垣内は吸いかけの煙草を足元で踏み消すと、修司の顔を至近距離からのぞき込んだ。
「いいか、素人が首を突っ込むな。この島で起きているのは、お前らみたいな平和ボケしたライターが扱えるような生ぬるい事件じゃない。……命が惜しかったら、今すぐ明石海峡を渡って帰るんだな」
そう言い残し、中垣内は背を向けて去っていった。
「なんなんだあのアラフォーオッサン! 感じ悪いったらねえな!」
黒田が不満そうに吐き捨てる。
修司は去っていく中垣内の背中を見つめながら、静かに呟いた。
「……あの刑事の言っていることは、あながち間違いじゃないかもしれない」
「は? 弱気になってんのか?」
「違う。多分…あの人は知っているんだ。15年前の事件の『本当の恐ろしさ』を」
修司はポケットの中で震えるスマートフォンを取り出した。
画面には、四宮まどかからの着信履歴とメッセージが入っていた。
『修司先輩、何度もすみません。やっぱり胸騒ぎが止まりません。何か……何か良からぬものが、先輩に近づいている気がするんです』
まどかの胸騒ぎ。
そして、カメラのファインダー越しに見えた、あの歪んだ影。
修司は息を深く吸い込み、自分に言い聞かせるように呟いた。
「行こう、黒田。次は志筑の廃ペンションだ」
淡路島の美しい景色が、少しずつ、異界の闇へと変貌を始めていた。




