第一話:静かなはじまり
潮の香りが、生温かい風に乗って鼻腔をくすぐる。
明石海峡大橋を渡る高速バスの窓から見下ろす海は、どこまでも深く、黒い。
相良修司は、首から下げた古い一眼レフカメラ――
PENTAX LXの金属ボディを指先で愛おしそうになぞった。
使い込まれた漆黒の塗膜が剥げ、下地の真鍮がうっすらと覗いている。
半年前まで、彼は都内の大手出版社で多忙な日々を送っていた。
紙面を賑わす事件を追いかけ、言葉で人を動かす仕事に誇りを持っていたはずだった。
しかし、ひとつの記事がすべてを変えた。
編集部に煽られるまま、裏取りの甘い告発記事を書いた。
記事が出た三日後に自ら命を絶った。
正義のつもりで振るったペンが、人の命を奪う凶器になった。
自殺した事で、事件自体が有耶無耶となり、グレーなまま今に至る。
30歳…若いからで済まされるとは、とても思えなかった…
責任を取り、辞表を出した。
逃げるようにフリーランスになった修司に、世間の風は冷たかった。
「おいおい、暗い顔すんなって。せっかくの淡路島ロケだぞ?」
隣のシートで大きな体を揺すったのは、修司と同い年のフリーライター、黒田慎一だった。
がっしりとした体格に、日焼けした肌。ハキハキとした口調と爽やかな笑顔は、失意のどん底にいた修司にとって救いでもあった。
「……別に暗い顔はしていないさ。ただ、今回の案件の出処が気になっているだけだ」
修司は冷静に答えた。
「出処ぉ? 言っただろ、オカルト系Webメディアの『月刊ミステリーゾーン』だよ。最近、淡路島で若い男女が相次いで姿を消してる。しかも全員、SNSに不気味な心霊スポットの写真を残してな」
黒田はそう言って、スマートフォンを操作し、一連のニュース記事を修司に見せた。
一ヶ月前、洲本市内の廃病院を訪れた大学生カップルが行方不明になった。
二週間前、由良の要塞跡地を撮影していたユーチューバーが消えた。
そして三日前、五色浜の海岸沿いで女子高生の自転車だけが残されていた。
警察は家出や滑落事故として捜査しているが、遺体も遺留品も見つかっていない。
ネット上では「15年前の神隠しが再来した」と騒がれていた。
「15年前……?」
修司の眉がピクリと動いた。
「おう。15年前にも、この淡路島でまったく同じように7人の人間が不自然に消えた事件があったらしい。当時の警察もお手上げで、結局未解決のまま時効を迎えた。今回の失踪も、その『15年前の呪い』だって噂されてるわけだ」
黒田は身を乗り出し、ニヤリと笑った。
「どうだ? 男ならゾクゾクするだろ? ただの失踪事件なら警察の仕事だが、怪異が絡んでるとなれば俺たちフリーライターの出番だ。修司、お前のそのズバ抜けた頭脳と観察眼が必要なんだよ」
「……相変わらず、大雑把な見立てだな」
修司は溜め息をついたが、嫌な気はしなかった。
ぶっきらぼうな物言いとは裏腹に、修司の根底にあるのは人に対する優しさだ。
友人が自分を元気付けようと、あえて仕事を回してくれたのだと分かっていた。
バスが東浦バスターミナルに到着し、二人は足を踏み降ろした。
潮風と、ほのかに甘い淡路島特有の玉ねぎの匂いが漂う。
しかし、修司の視線はバス停の隅にある古びた掲示板に釘付けになった。
そこには、風化した「尋ね人」のポスターが、何枚も重なるように貼られていた。
写真の人物たちの顔は、日光に晒されて白く褪せている。
まるで、最初からこの世に存在しなかったかのように。
「……なぁ、黒田」
「んぁ? どうした?」
「この島には、…………多分、何かがある」
修司は愛機のファインダーを覗き、古びたポスターにピントを合わせた。
カシャ、という機械的なシャッター音が静寂に響く。
レンズ越しに見えた掲示板の影が、一瞬だけ不自然に蠢いた気がした。
「おいおい、さっそく霊感でも働いたか? 怖がらせるなよ」
黒田は冗談めかして笑ったが、その大きな体を少し硬くさせた。
彼は昔から「男らしさ」に強いこだわりを持っているが、実は怪談の類が少し苦手なのを修司は知っていた。
「いや……なんでもない。まずは最初の現場、志筑の廃ペンションへ向かおう」
修司はカメラを胸元に戻した。
その時、ポケットの中のスマートフォンが震えた。
画面を見ると、前職の出版社時代の後輩
――四宮まどかからのメッセージだった。
『修司先輩、無事に淡路島に着きましたか? 急に遠出されると聞いて心配です……。何かあったら、すぐに私に連絡してくださいね。美味しいご飯、ちゃんと食べていますか?』
文面からでも伝わってくる、過剰なほどの手厚い気づかい。
まどかは修司と同じ大手出版社で働く26歳の編集者だ。
容姿端麗で仕事もでき、社内では高嶺の花として知られている。
だが、修司の前でだけは、どこか従順で、甲斐甲斐しく世話を焼きたがる癖があった。
修司は苦笑しながら、短く返信を打った。
『無事着いた。黒田と一緒だから心配いらない。そっちも仕事を無理するなよ』
送信ボタンを押すと、すぐに『既読』がついた。
『はい! 先輩もお気をつけて。あ……本当は、私も一緒に行きたかったです……先輩の身の回りのこと、全部お世話したいのに……』
語尾に小さく添えられた絵文字に、修司は少しだけ頬を緩めた。
まどかが自分に特別な感情を抱いていることには、薄々気づいている。
新人の頃に教育係として担当して依頼の仲だ。
しかし、人を死に追いやった男が、誰かと幸せになる資格などない
――修司の心には、常にその固い結び目が存在していた。
「誰からだ? 彼女か?」
黒田がニヤニヤしながら顔を覗き込んでくる。
「違う。元の会社の四宮だ。心配して連絡をくれただけだよ」
「へいへい。モテる男は辛いねぇ。よし、レンタカー借りに行くぞ!」
黒田は背中をバシッと叩き、歩き出した。
淡路島の美しいロケーション。
しかし、その穏やかな風景の裏には、15年の時を経て再び動き出した底知れぬ暗雲が立ち込めていた。
二人が歩き去ったバス停の陰から、一人の男がじっとその背中を見つめていた。
ヨレヨレのスーツに、目つきの鋭い中年男。
大阪府警の刑事、中垣内だった。
中垣内は胸ポケットから煙草を取り出し、煙を細く吐き出した。
「相良修司……元大手の記者か。こんな所で何を嗅ぎ回ってやがる」
落ちていた吸い殻を踏み消し、中垣内は静かに二人の後を追い始めた。
風が、ヒュッと不気味な音を立てて吹き抜けた。
淡路島を巡る物語が、静かに幕を開けたのだった。




