第十三話:最悪の夜
洞窟を包み込む湿った闇が、意思を持った生き物のように蠢いていた。
生肉が擦れ合うような不快な音が、黒い渦の奥から響き渡る。
「……あ……あぁ……っ」
岩肌に身を寄せる黒田が、血を吐きながら呻く。
生き延びたとはいえ、黒田の全身に刻まれた呪印は深かった。
彼は朦朧とした意識の中で、虚空を見つめながら震えていた。
「修司……四宮ちゃんが……四宮ちゃんが……っ」
黒田の涙が、泥に汚れた頬を伝い落ちる。
自分の命と引き換えに怪異の中へ呑み込まれていった四宮まどか。
その最期の笑顔が、残された者の心に消えない傷を刻みつけていた。
「おい、相良! 立つんだ!」
頭部から流血した中垣内が、粗暴に修司の肩を揺さぶる。
「あいつの喰い散らかしはまだ終わってねぇ!
あの女の命を呑み込んで、さらに肥大化してやがる……ッ!」
中垣内の言う通りだった。
まどかを呑み込んだ漆黒の怪異は、その巨大な躯体をさらに増殖させ、洞窟の天井を突き破らんばかりに隆起していた。
黒い泥のような巨体から、無数の歪んだ顔が浮き出ている。
15年前の被害者たちの顔。
この数ヶ月で消えた人々。
そして――最奥で苦悶の表情を浮かべる、15年前の少年・有馬蓮の顔。
怪異の核(中心)で、蓮の残影が狂ったように叫んでいた。
『かえせ……かえせ……おれのじかんを……おれのいのちを……っ!』
「蓮……」
修司は呟いた。
あの日、15年前に自分を見捨てて逃げ出さざるを得なかった友。
そして、そのトラウマから逃げるように生きてきた自分。
「修司先輩……」
ふと、耳元で温かい吐息が聞こえた気がした。
首から下げたLXが、狂おしいほどの熱を帯びて修司の胸元を焼く。
まどかの魂が、愛機の中で脈打っている。
修司の命を守るため、自ら進んで生贄となった少女の、激しく歪んだ純愛。
『先輩……悲しまないで……。私は、いつでも先輩の中にいます……』
まどかの声が、ファインダーのガラスを通り抜けて脳裏に響く。
絶望で凍りついていた修司の心が、静かに、しかし激しく燃え上がった。
もう引き下がらない。
もう誰も見捨てない。
この呪われた歴史を、今ここで僕の手で終わらせる。
「中垣内さん……黒田を連れて、洞窟の外へ退避してください」
修司の声は、驚くほど冷静だった。
「なに……? バカなことを言うな! お前一人でこの化け物相手に何ができる!」
「……できます」
修司はLXを持ち上げ、ゆっくりとファインダーを覗き込んだ。
「僕の中には……四宮の想いが生きている。僕と彼女の二人なら、この怪異を絶てる」
ファインダー越しに見える世界が一変していた。
肉眼ではただの黒い泥の塊にしか見えない怪異。
だが、覚醒した修司の眼には、怪異の内部を巡る「黒い脈絡」と、その中心で脈打つ「核」の存在が鮮明に浮かび上がっていた。
「……相良……お前……」
中垣内は修司の横顔を見て、言葉を失った。
その瞳は、深い闇を受け入れ、それを凌駕する絶大な決意に満ちていた。
「……チッ、死ぬんじゃねぇぞ! 借りを作ったままで逃げられると思うなよ!」
中垣内は黒田の巨体を肩に担ぎ上げると、血を吐きながら荒々しく洞窟の出口へと走った。
◇
洞窟内に残されたのは、修司と、肥大化した怪異のみ。
『……コロス……スベテ……ヲ……クライ…ツクス……!』
咆哮とともに、何百本もの「濡れた黒い腕」が、津波となって修司へと押し寄せてきた。
肉体を引き裂き、骨を砕き、魂ごと異界へ引きずり込もうとする死の奔流。
しかし、修司は一歩も引かなかった。
逃げない。
目を背けない。
修司は右足を踏み出し、レンズのフォーカスリングを滑らかに回した。
独特のヌメリを感じながら…ピントが合わさっていく。
押し寄せる影の隙間。
怪異の胸元――有馬蓮の残影が囚われている、まさにその中心。
「四宮……まどか… 力を貸してくれ」
修司が呟くと、レンズの奥で青白い光が弾けた。
まどかの魂が、光の何かとなってレンズの先へと集束していく。
ファインダーの中に、完璧な構図が完成した。
「……さようなら、15年前の僕たち」
修司の指が、シャッターボタンを深く押し込んだ。
カシャッ――!!
聞き覚えのある…いつもの硬質なシャッター音が
激しい潮騒を切り裂いて洞窟内に響き渡った。




