第十二話:生贄と覚醒
洞窟内に充満する生臭い冷気が、肌を刺すような痛みに変わっていく。
「ぐ……あ……っ」
救い出された黒田は、岩肌に身を寄せながら荒い息を吐いていた。全身を覆う泥と呪印から黒い煙のようなものが立ち上り、まだ自由は効かないものの、その瞳には確かに生の光が戻っていた。
「黒田、そのまま動くな!」
修司は黒田を背中に庇いながら、LXを固く握りしめた。
しかし、怪異の咆哮は止まらない。
『……生贄を……足りぬ……肉を……魂を……ッ!』
洞窟の天井から、血のように赤い水が激しく降り注ぐ。岩壁に刻まれた古代の紋様が、おぞましい赤黒い光を放ち始めた。
この島に眠る「海から来るもの」。
15年前、有馬蓮をはじめとする7人の人間を呑み込んだ古代の呪いは、15年の周期を経て今、完璧な儀式を完成させようとしていた。
そして、その犠牲者として選ばれたのは――。
「……あ」
修司の後ろで、まどかがぽつりと小さな声を漏らした。
洞窟の奧、漆黒の闇から伸びてきた何十本もの「濡れた手」が、まるで優しく抱擁するように、まどかの身体にまとわりついていた。
「四宮……!?」
修司が振り返った時には、すでに遅かった。
黒い手首はまどかの白い肌を、腕を、細い首筋を容赦なく締め上げていく。
しかし、まどかの顔に浮かんでいたのは、恐怖ではなかった。
「……あぁ……修司先輩……」
まどかは頬を真っ赤に染め、熱っぽい吐息を漏らしながら、うっとりとした瞳で修司を見つめていた。
「私……見えました……。この島に宿る古い記憶が……。
この怪異は…… あぁ…… 先輩の命を狙っていたんですね……?」
「何を言っている! 喋るな、今助ける!」
修司はナイフを取り出し、まどかに絡みつく黒い影を切り払おうとした。
だが、影は切っても切っても、水のように素通りしてまどかの身体に食い込んでいく。
「ダメです……先輩……。手を出したら……先輩まで呑み込まれて…しまいます……っ」
まどかは激しい痛みに身を捩りながらも、どこか甘美な快感に浸るように体を震わせた。
彼女の内に秘められた、狂おしいほどの本性。
大好きな修司のために、激しい痛みに耐え、自らの身を犠牲にすること
――それが、彼女にとって最大の愛の証明であり、究極の快楽だったのだ。
「四宮、やめろ! 引き返せ!」
「修司先輩……私、ずっと……先輩の側にいたかった……。
でも……先輩が何かに…悩み苦しんでたこと……ずっと知っていました……」
黒い手がまどかの胸元を乱暴に引き裂き、彼女の華奢な身体を洞窟の奥へと引きずり込んでいく。
「嫌だ……嫌だ!! 僕のせいで、また誰かが死ぬなんて……そんなことは絶対に許されない!!」
修司は叫び、まどかの手を強く掴んだ。
まどかの温かい指先。
しかし、その温もりは急速に冷たくなっていく。
まどかは涙を流しながら、心から幸せそうな笑みを浮かべた。
「先輩……私のこと……ずっと…忘れないでくださいね……?
私……先輩のお役に立てて……本当に……幸せで…し……た……」
「四宮ぁぁぁぁぁッ!!」
ズルリ、と大きな音が響いた。
まどかの身体が、暗黒の渦の中へと完全に呑み込まれた。
修司の掴んでいた手が、虚しく空を切る。
「……あぁぁぁ……」
修司はその場に崩れ落ちた。
絶望。
15年前のあの日と同じ。
半年前のあの事件と同じ。
自分が関わった人間が、自分を庇い、自分のせいで命を落としていく。
「四宮……四宮ぁぁぁッ!!」
修司の絶叫が、暗い洞窟の中に虚しくこだました。
◇
洞窟の奥で、黒い渦が巨大な花のように咲き誇った。
まどかを呑み込んだ怪異は、歓喜の悲鳴をあげながら、さらにその姿を歪ませていく。
「……相良……」
岩壁の陰で頭から血を流しながら、中垣内がゆっくりと身体を起こした。
その目には、絶望と怒りが混ざり合った激しい色が宿っていた。
「あの女は……自分から飛び込んでいきやがった……。
お前を守るために……生贄になりやがったんだ……!!」
「……僕の……せいだ……」
修司は両膝を地面につき、力なく頭を垂れた。
「僕が……このカメラを持ち続けていたから……僕がこの島に来たから……四宮は……」
「立ちやがれぇぇぇッ!!」
中垣内が叫び、修司の胸ぐらを掴んで力任せに引き起こした。
「いつまでメソメソしてやがる!!
あの女がお前を逃がすために命を捨てたんだぞ!?
ここで絶望して死んだら、あの女の死が無駄になるだろうがッ!!」
「中垣内さん……でも、僕は……」
「見ろッ!! お前の胸のそれを見ろ!!」
中垣内が指差したのは、修司の首から下がったLXだった。
黒い真鍮ボディが、まるで生き物のように激しい熱を放っていた。
金属の隙間から、青白い幻想的な光が漏れ出している。
まどかが生贄として呑み込まれた瞬間、彼女の残した強い執着、愛、そして無念の魂が、修司のカメラへと流れ込んでいたのだった。
カチリ……。
誰も触れていないのに、LXのシャッターが静かに落ちた。
「……四宮……?」
修司は震える手で、カメラを持ち上げた。
ファインダーを覗き込む。
そこに見えたのは――真っ黒な闇などではなかった。
レンズの先、漆黒の怪異の核の中で、冷たく、美しく、そしてどこか誇らしげに微笑む、四宮まどかの面影だった。
『修司先輩……私を使ってください……』
まどかの声が、カメラの内部から、修司の脳内へ直接響き渡った。
『私の命を……私を……先輩の力にしてください……!』
修司の瞳から、ボロボロと涙が溢れ出した。
絶望が、激しい怒りが「覚醒」へと変貌していく。
修司は涙を拭い、強く、強くカメラを握りしめた。
「……四宮。君の想い……絶対に無駄にはしない!!」
修司の目が、冷徹で鋭い「何か」へと変わった。
カメラのファインダー越しに、世界がまったく違う色で見え始めていた。
怪異の弱点、断層、そして命の奔流。
四宮まどかの死と引き換えに
相良修司は――怪異を討ち滅ぼす「何か」を覚醒させたのだった。




