帰り道
(そんなに……私と同室なのは、お嫌だったのでしょうか……)
イグナーツが宿の部屋を逃げるように出て行ってしまった後、オフェリアは困り果ててベッドに腰を掛けていた。激しく降る雨の音が絶え間なく聞こえてくる。窓枠も濡れて滴が垂れていた。
『あの髪の色を見てよ……本当に気味の悪い……』
『母親にそっくり……本当に国王陛下の血を引いているのかしら?』
『お前など妹だと思った事は一度もない。気色悪いから近付くな!』
かつて向けられた言葉が次々に浮かんできては、重く雨音の中に沈んでいく。
ギュッと目を瞑って、寝間着をつかんだ。
(調子に乗りすぎたのかもしれません。きっとそうです……イグナーツ様はお優しかったから……でも、やはり私の事を本当は…………)
態度に出すような事はしなかったけれど、本当は嫌だったのかもしれない。山岳民の血を引く娘なんて。王国よりも帝国の方がはるかに強大で歴史も古い。王国でも蔑まれていたのに、帝国では好意的に迎え入れられるなどあるはずもないのに。しかも、王国は敗戦国。どのような扱いを受けても仕方ないはずだった。
牢に閉じ込められないだけマシだというのに。イグナーツも周りの人達も好意的な態度で迎えてくれたから、受け入れてもらえるような気がしていた。
けれど、後ろに下がって、慌てて背を向けて出て行ったイグナーツの姿を思い出すと、胸の奥が痛くなる。心ない言葉を投げつけられた時よりもずっと痛く感じてしまった。
(イグナーツ様は本心ではこの結婚に不満を抱かれていたとしても、それを隠して我慢しておられたのかもしれませんね……それなのに、私ときたら……厚かましく、恥知らずな女だと思われたのかもしれません)
落ち込んで下を向いていると、目が潤みそうになってくる。それを急いで拭い、「こうしている場合ではありません」と立ち上がった。服掛けにかけていたマントをつかんで羽織り、ランタンを持って廊下に出る。
宿に出ると真っ暗で雨が地面を叩いている。マントのフードを被ると、オフェリアは寝間着の裾を上げるようにして駆け出した。裏庭に停めてある馬車まで向かうと扉を叩く。
「お嬢様……!」
扉を開いて顔を出した騎士のフェリックが驚いた表情を浮かべる。
「イグナーツ様がこちらに……」
尋ねる前に、御者の隣で座ったまま眠っているイグーナツが目に入る。
「閣下は先ほどワインを飲んで、眠ってしまわれました……」
フェリックはオフェリアが濡れないように、馬車の中に引っ張り上げる。
「これは姫様! 濡れてしまいますぞ」
御者も驚いた顔をしていた。
「謝らなければと思ったのです。ですけれど……明日にした方が良さそうですね」
とはいえ、このままイグナーツを馬車で寝かせていいのだろうか。
「姫様、お部屋までお送りします」
フェリックスが苦笑して腰を浮かせた。
「それならイグナーツ様の方を。私はどこで寝てもかまいませんから……」
「そういうわけにはいかんでしょうよ。姫様を馬車の中で寝かせたりしたら、わしが公爵家をクビになってしまいますわい」
御者に言われて、オフェリアは困惑した顔で寝ているイグナーツを見る。
「旦那様なら平気ですよ。馬車で一晩寝たくらいで機嫌を損ねるような方ではありませんからな。お気になさらず、姫様はお部屋に戻ってお休みください」
「姫様、閣下のご配慮です。戻りましょう」
フェリックスが先に馬車を降りて、オフェリアに手を差し出す。躊躇った末にその手を取り、馬車を降りた。宿の中に戻るまで、フェリックスはマントで雨を遮ってくれる。けれど、フェリックス自身はずぶ濡れになってしまっていた。
「ごめんなさい。余計に濡れてしまいましたね……」
「お気になさらず。それより、姫様……薄着で外に出られるのはお控えください。宿の中とはいえ、安全とは言いがたいのですから」
「…………フェリックス。イグナーツ様は、何かおっしゃっていた?」
不安になって小声で尋ねると、フェリックスがチラッと視線を向ける。
「いえ……正式に結婚する前なので、気を遣われたのでしょう」
「そうですね……そうだと思う事にします」
フェリックスが宿の扉を開いて中に入れてくれた。
階段を上がり、部屋の前まで来たところで振り返る。
「ありがとう……お休みなさい、フェリックス」
「姫様もゆっくりお休みください。閣下のことは心配ありません」
「ええ」
微笑んで、部屋の中に入る。扉を閉めてから、濡れてしまった足元を見つめる。
「欲張りになってはいけません。分を弁えないと……」
自分に言い聞かせるように呟いた声が、滴と一緒に落ちた。
◇◇◇
翌朝には、昨晩の雨が嘘のように空が晴れていた。
宿の食堂で朝食を食べてから、馬車に乗り込んで出発する。
そんなに飲んだつもりはないのに頭が疼く。
しかも朝まで座ったまま寝ていたから、体の節々も痛い。馬車の振動が若干、気持ち悪かった。
額を指で押さえて目を閉じていると、「イグナーツ様……」とオフェリアが気を遣うような声で呼ぶ。
「…………ああ、ごめん。昨日、ちょっと飲み過ぎて」
向かいに座るオフェリアを見ると、心配と不安が入り交じるような瞳を僕に向けていた。目が合うと、彼女は気まずそうに視線を下げる。膝の上で小さな拳を作っていた。
昨晩、咄嗟の事とはいえ不用意に触れたから、警戒されたのかもしれない。
いや、たぶんそうだろう。
不快感を与えてしまったに違いない。しかも、突き放すような態度で部屋を飛び出したのだ。
考えていると、頭の痛みがひどくなって眉間に皺が寄る。
「すみません……私が……部屋を使ってしまったから」
「いいや、それは当然の事だよ。オフェリアが気にする事じゃない。ええっと、君の騎士や御者とつい、話が盛り上がってね。調子に乗って飲んでしまった僕が悪いんだ」
慌てて言うと、ようやくオフェリアが視線を上げる。
「フェリックスと……ですか?」
「君の騎士は立派な人だね。かっこいいし、それに剣も強そうだ」
「はい、王国の騎士の中でも、フェリックスに勝てる人はそういなかったと思います。本来は近衛騎士団にも入れるくらいに立派な家柄なのに………幼い頃から私と母に仕えてくれています。感謝しきれません」
オフェリアが目を細めて微笑む。その表情にかの騎士に対する安心感が滲んでいた。
「幼い頃から……」
「はい。騎士見習いとして王宮に上がってきた頃から知っているのです。何度も助けられました」
「そうなんだ。それは……うん、信頼するのも当然だね」
僕は笑みを作って頷いた。
「もしかして……帝国に来る事になっていなかったら、結婚する予定だったりした?」
いや、何でこんなことを尋ねているんだ? オフェリアも答えにくいだろう。
僕は焦ってさりげなく窓の外を眺める。視線をわずかに戻すと、オフェリアは瞬きしている。
「フェリックスとですか?」
「立派な家柄だったら、許婚になるかもしれないだろう? もし、そうだったら……申し訳ないなぁと思っただけなんだ」
自分でもひどく言い訳じみて聞こえるけれど、気になってしまうじゃないか。フェリックスは確かにいい男だし、その上忠誠心の厚い騎士となれば、恋心だって芽生えても不思議はないだろう。
「いいえ。少しもそんな話はありませんでした。もとより、私の結婚は自分で決められるものではないので」
「あっ……そうだね……ごめん。変な事を訊いたな」
僕は「今は忘れて」と、ぎこちなく笑っておいた。
「…………イグナーツ様は、そういうお方はおられなかったのですか?」
オフェリアが尋ねた瞬間、馬車が跳ねて舌を噛みそうになる。僕が苦悶の表情で口を押さえていると、「大丈夫ですか!?」とオフェリアが心配そうな顔で手を伸ばしてきた。
「だ、大丈夫! いないから……僕を哀れんだカールが、この結婚を勧めてきたんだ。他につり合う相手もいなかったからね」
「そうなのですね……」
オフェリアはまだ何か聞きたそうな顔をしていたけれど、それを我慢するようにギュッと唇を引き結んでいた。
会話が途切れてしまって、気まずい空気が漂う。オフェリアの隣に座っている侍女のレーネは、さりげなくオフェリアと僕を交互に見ていたが黙っていた。
「そうだ……よければ、君の騎士も公爵家の騎士団の訓練に参加してみる?」
話を逸らそうとして提案すると、下ばかり見ていたオフェリアも顔を上げる。
「いいのですか?」
「もちろんだ。もちろん、彼は君の騎士だけど、結婚したら……公爵家の騎士団所属になるだろう? だから、今から親睦を深める必要ておくほうがいいと思うんだ。それに、君の騎士がどれくらい強いか、気になるじゃないか」
結婚後も彼にはオフェリアの護衛を続けてもらうつもりでいるけれど、公爵家の騎士団の指揮下に入る事になるだろう。そうなると、フェリックスの主人は彼女ではなく僕という事になる。彼がそれを望まず、オフェリアだけの騎士でいたいと望むのであれば、その意思は尊重するつもりだ。ただ、どちらにしろ所属先は明確にしておく必要があるだろう。それは、レーネや他の使用人にも言える事だ。雇用契約や給与の面の問題がある。オフェリアには公爵家からけっこうな額の生活費が支払われる事になるから、その中から彼らの給与を払う事も十分にできるだろうけどね。
「そうですね……フェリックスに話してみます。イグナーツ様の申し出は喜ぶと思います」
川に差し掛かると、水が引いていて通行できるようになっていた。ただ、昨晩通れなかったせいか、馬車が渋滞している。ようやく王都に戻れたのは、夕方近くになってからだった。




