一夜
しまった…………。
宿の狭い部屋に足を踏み入れた瞬間、僕は判断を間違えた事に気付いて後悔した。小さな街の安宿だから、不便を感じても仕方ないとは思っていた。思っていたけれど、ベッドは一つしかなく、ソファーもない。木の粗末なテーブルと椅子があるだけだ。
「これなら、僕が屋根裏部屋を使わせてもらえばよかった……」
僕は額を押さえて小声で呟く。先に部屋に入って着替えを済ませていたオフェリアも、この状況に戸惑っているようだった。とはいえ、彼女の侍女であるレーネはすでに用事を済ませて部屋に上がってしまった。部屋の中には僕とオフェリアだけ。レーネをもう一度呼びに行くべきか迷っていると、「イグナーツ様……」とオフェリアが小さな声で僕を呼んだ。
「申し訳ありません……私とレーネが屋根裏部屋を使えばよかったですね。今からでも上がって!」
「いやいやっ、ダメだろう。僕は床で寝るから気にしないで。廊下で寝てもいいんだし!」
「いいえっ、イグナーツ様を床や廊下で寝させるなんていけませんっ! だ、旦那様になる方なのに……」
大きく首を振ったオフェリアの顔が、薄暗い部屋の中でもはっきり分かるくらいに赤い。お互いに黙ってしまったから余計に気まずくて、僕は額を指で押さえる。
ベッドに視線を移すと、まあ狭いけれど二人寝られないわけではない。僕が邪な気持ちを抱かなければ、一晩くらいは問題なく過ごせるだろう。ただ、オフェリアは嫌かもしれない。嫌に決まっている。彼女が帝国に嫁いできてからまだ一月と経っていない。結婚する事は確定しているとはいえ、たいして知りもしない男が横に転がっている状況では、安心して眠る事なんてできないはずだ。
しかも、彼女は王国のお姫様だ。
「こうなったら、僕も馬車で……」
さすがに男三人が馬車で寝るとなると窮屈だろうが、相手は邸で顔なじみの御者と、厳しい訓練をしてきたであろう護衛騎士だ。辛抱してくれるはず。
僕が悩んでいると、ギュッとシャツがつかまれる。振り返ると、オフェリアが何か言いたげに僕を見ていた。
「やっぱり……僕は床で寝るとするよ」
不安げな彼女の顔を見て、僕はニコリと笑みを作った。
「私は……気にしませんよ。いずれは同じベッドで寝る事になるのですから。その……慣れておいた方がいいと思うのです! イグナーツ様はお嫌かもしれませんが……できるだけ、端に寝て邪魔をしないようにしますから!」
彼女は手まで赤く染めながら、ギュッと目を瞑る。びっくりして三秒ほど固まってしまった。宿の店主が気を利かせたのか、枕は二つ用意されている。僕は男にしては大柄じゃないから、体を横にすれば彼女に触れずに寝る事は可能。可能なんだけど、問題は僕は聖人でも聖職者でもないという事だ。
野盗のように女性に襲いかかったりはしないが、果たして僕の自制心をどこまで信用していいのだろうか。彼女を見れば顔が真っ赤で、小さな唇は硬く結ばれている。不安げに僕の服をつかむ姿を見ていると、余計に意識してしまって思わず一方後ろに下がった。彼女の手が離れ、少し傷ついたような瞳が僕を見る。
「そうですよね……恥知らずな事を申し上げました。今のは……忘れてください。私はやはり、レーネと一緒に屋根裏部屋で寝る事にいたしますから!」
早口でそう言うと、オフェリアは僕と目を合わせないまま部屋を飛び出そうとする。
「違う、待って!」
咄嗟に足を踏み出して、彼女の細い胴に腕を回した。
オフェリアを片腕で抱えたまま、木のドアに片手をつくような体勢になってしまう。
彼女の体が硬直するのが分かった。しかも、薄い寝間着姿だから、ドレスと違って薄い服越しに彼女の柔らかな体の感触が伝わってくる。
まずい――。
頸動脈の辺りがドクドクしてきて、頭に熱湯みたいに熱くなった血が急に流れ込むような気がして無意識にグッと歯を食いしばる。今すぐ、彼女の細い胴に回した腕を離して、三歩――いいや、十歩は下がるべきだ。それどころか、今すぐに彼女から目を逸らして部屋を出て行き、朝になるまで近付かないのが、今自分が取るべき健全な行動だと頭では分かっている。分かっているのに、動けない。
黒い髪の隙間から覗く項までほんのり赤くなっているのが目に入ってしまい、頭が少しだけ引き寄せられる。
今、彼女のサラサラな髪に触れて、うなじに口づけしたらどんな反応をするだろうか。
おい、やめろ。血迷うな。働け、僕の自制心。
ここがどこだか思い出せ。大して綺麗でもない安宿で猛獣みたいに襲いかかってみろ。オフェリアはきっと心に傷を負って、この先一生、僕を寝室には入れてくれないだろう。それどころか、僕の顔を見るたびに薄汚い獣に向けるような侮蔑の眼差しを向けるはずだ。そんな惨めな結婚生活を望まないのであれば、回れ右だ。分かっているだろう? 回れ、右だよ!
深く息を吐いたところで、「イグナーツ……様?」とオフェリアの呼ぶ微かな声がした。ハッとして彼女に視線を移すと、夜空のような神秘的な瞳が僕を見上げていた。この瞳に拒絶の色が宿るのがふと怖くなって、僕はバッと手を離す。ようやく足が動いて後ろに下がった。
バカ丸出しでオタオタしてしまい、「いや……その……外で頭を冷やしてくるよ!」とドアを開いて急ぎ足で出て行く。
「イグナーツ様、外は雨ですよ!」
オフェリアの焦る声が聞こえたけれど、僕はとにかく一刻でも早く離れることしか考えられなかった。
廊下に出ても脈は速くなったままで、「何やっているんだ……」と呆れた声が自分の口から漏れる。多感な十代の少年でもないのに。
宿の外に出ると雨が激しく降っていて、風が強かった。宿の裏手に回ると、馬は厩舎に繋がれていて、馬車が停まっている。駆け寄って扉を叩くと、御者が顔を出した。
「あれ、旦那様。どうなさったので?」
「すまない。僕も入れてくれ」
僕は苦笑いしながら馬車に乗り込み、扉を閉める。向かいには護衛騎士が座っていた。彼も僕がいきなりやってきたものだから、驚いて眉根を寄せる。
「……何かあったのですか?」
「いや……まあ……何もないんだよ。ただ、ちょっと気まずくて。よかったら、飲み明かさない?」
御者の隣に腰を下ろし、僕はワインの瓶とカップを見せる。店の主人に頼んで売ってもらったものだ。それほど上等のものではないけれど、酔いたいなら十分だ。
「これはありがたいですな。どうせ、こんな嵐の日には馬が心配で眠れませんからね」
御者が笑ってカップを受け取る。僕は向かいに座る護衛騎士にもカップを差し出した。彼は少し躊躇しながらも受け取る。
彼はオフェリアが連れてきた護衛騎士で、何度か部屋で顔を合わせた事はある。歳は僕と同じくらいで二十代。僕とは正反対の逞しい体つきで、精悍な顔立ちだ。彼女を護衛して無事に帝都まで辿り着いたのだから、腕に覚えはあるのだろう。キリッとしていて、いつも姿勢を崩さない。ただ、あまり愛想はなく、口数も少ないようだ。そう、訓練されてきたのかもしれない。
名前は、ええっと――。
「君は、フェリックス=バロー……だったよね?」
「はい。閣下に名前を覚えていただけていたとは光栄です」
「閣下はよしてくれ。イグナーツでいいよ。君は僕に仕えているわけじゃない。オフェリアの騎士だ」
雨音を聞きながら、僕らはカップを口に運ぶ。
「旦那様、よかったらどうです?」
御者が差し出した小さな袋の中には、塩で炒った豆が入っていた。摘まんで口に運ぶと素朴な味わいながら癖になりそうだ。
御者は、フェリックスにも豆の袋を差し出していた。
「うん、これはいいつまみになるね」
「そうでしょう?」
御者はそう言ってワインを飲みながら笑う。フェリックスも気に入ったのか、無言でポリポリと囓っていた。
「これは厨房に頼んでたくさん作ってもらいたいな。そうしたら、使用人のみんなに配ろう」
「そいつは喜びますよ。けど、酒の減りが早くなるかもしれませんよ?」
「違いないね。まあいいさ。慰労も大事な主人の役目だよ」
笑って柔らかな馬車のソファーに背中を預ける。向かいに座るフェリックスは、ジッと僕を見ていた。
「閣下……いえ、イグナーツ様は、姫君の事をどう思われますか?」
いきなりの質問に、豆を喉に詰まらせそうになる。
「オフェリア? どう……って? あっ、美人かって事? それは美人だよ。髪も瞳もすごく綺麗だし、かわいいし、素敵だなって思ってるよ?」
僕は胸を叩きながら、つい早口で答えた。ちょっと、パニックになってしまって、かなりおかしな答え方をした自覚はある。フェリックスも、思うような答えではなかったのか、困惑した様子で眉根を寄せていた。
「わはははっ、新婚前にのろけですか? 公爵家の行く末も安泰なようで」
御者が笑って、僕のかわりにワインを注いでくれた。
「のろけってわけじゃないよ。誰から見たってそうじゃないか。まあ、人の好みは千差万別だからね。もしかすると、そうじゃないと思う人もいるかもしれないけど」
僕が首を竦めると、フェリックスは何か考え込むようにカップに視線を落としていた。
「ええ、そう思わない者もいます。いえ、むしろ……王国ではそれが大半でした」
「ああ……ええっと、彼女の髪色と瞳が理由? 母君がヴァーナ族なんだよね」
「ヴァーナ族とはなんです?」
御者に尋ねられて、「山岳民だそうだ」と答えた。僕も正直、どういう暮らしをしている人達なのかは、見たことがないからよく知らない。ただ、王国民からはあまりよく思われていないようで、オフェリアの母君も、オフェリアと弟君も、王宮では肩身の狭い思いをしてきたらしい。
「でも……前国王はそのヴァーナ族の人を側室に迎えたんだろう?」
国王が正式に迎えた妃を冷遇するというのは、僕はさっぱり分からない。それは国王に対する侮辱にもなる。僕が首を傾げていると、フェリックスは膝の上でグッと拳を握っていた。
彼はオフェリアの騎士だから、彼女の境遇を間近で見ていたはずだ。ただ、彼も王国に忠誠を誓う騎士だから、表だって批判できなかっただろう。
「閣下は……何も思わないのですか?」
彼は僕を真っ直ぐに見て尋ねる。この騎士は……実直で真面目だな。
だから、僕も正直に答えるしかない。
「思うも思わないも……その山岳民の人達の事を僕はよく知らないよ。それに山岳で暮らしているっていうだけで、王国の国民なんだろう?」
豆をポリポリと囓りながら答えると、くだんの騎士はまた複雑そうな表情を浮かべていた。彼は僕に不審感を抱いているのだろう。マルク王国にいた頃のように、僕が彼女を蔑ろにすると思っているのか。
オフェリア自身、出自をひどく気にしていた。宝石店に連れて行った時も、自分の身の丈には合わないとでも思っているように恐縮しっぱなしだった。本来、もっと丁重に扱われてしかるべき人のはずなのに。侍女のレーネも、この騎士も、そのことが歯がゆいのかな。その気持ちは、僕にも分かる。彼女はもっと堂々としていればいい。何も卑下する事など一つもないだから。
「山岳民の母を持つ姫君を嫁がせるなど、帝国に対する侮辱ではないかという意見も臣下の中にはあったのです。王国は帝国に敗戦したばかりでしたから。その事で、帝国の怒りを買うのではと……むしろ、国王はそれを望んでいるようでもありました」
酒が回ったからか、フェリックスはポツポツと話す。国王――陛下とは呼ばないところを見ると、この騎士は王国や王家というよりも、オフェリア自身に忠誠を誓っているのかな。あるいは、帝国の臣民としてこの国で生きる覚悟を決めているのか。
「君はどう思うんだい?」
僕はワインを飲みながらさりげなく、彼の表情を探る。
「姫君はマルク王国の正統なお血筋です。ですが……帝国がこの婚姻をどう考えるのか、私には分かりません。帝国に来るまでは、人質として扱われるものと考えておりましたから……ですが、王国は姫君に人質としての価値を認めていません。ですから、帝国がそれを知った時、姫君をどのように扱うのか……私はそれが怖かったのです」
「なるほど……塔に幽閉したり、地下牢にでも閉じ込めておくのかと思った?」
「そこまでは……いえ……そのような待遇であっても仕方ないと、姫君も我々も覚悟を決めておりました」
酒のせいか、随分率直に言うな。それとも、ずっと心に溜めていたものを、吐き出したかったのか。それを僕に言うということは、多少の信頼を得られた証なのかもしれない。それとも、覚悟の上かな。僕はワインの入っているカップを、少し酔い加減になりながら揺らす。雨の音が馬車の中に響いていた。
「ままならないものだね……」
ポツリと呟いた僕を、フェリックスがジッと見ている。
何がままにならないって、人の身の上がだよ。
思い通りに生きられる方が少ない。自分の意思では抗えない事も多い。彼女の境遇がまさにそうだろう。山岳民の母の元に生まれた事も、王女として生まれた事も、さらには王国が敗戦し、帝国に売り渡されるように嫁ぐ事になった事も。彼女にはどうする事もできないものだ。選べはしなかったのだから。
僕と結婚させられる事も、彼女には拒否するという選択肢は与えられなかった。それを言うなら、僕だって皇帝命令で彼女との結婚を承諾したわけだから、同じなんだけど。
「こんな事を言うと語弊があるけれど……僕は誰でもいいと思っていたんだ。自分の結婚相手は自分が選べるものではないことくらい承知していたし……それが公爵家に生まれた僕の義務と責任だと思っている。結婚生活に愛情なんて関係なく、ほどほどに円満でいられたらそれでいい。だから、カールから……皇帝陛下からこの縁談を持ちかけられた時も、断れないなくらいしか思わなかったんだ」
雨が流れる窓の外を眺めながら、ふうっと息を吐いて目を閉じた。
ワインは何杯目だっけ?
いつもより、酔いが早くて眠気が押しよせる。雨音が心地いいからだろうか。
でも――やってきたお姫様が、あんまりかわいいから。
大切にしたくなるのは当たり前じゃないか。
僕は自分がそう呟いた事も気付かないままに、眠りに落ちていた。
これは、血筋とか、義務とか、国同士の事情とか、そういうものとはまったく関係ない場所で生まれる感情で。僕はただ、いつもどこか不安げな表情で小さくなっている彼女に、安心してもらいたいのだ。
ここでは、誰も君を追い出したり、蔑ろにしたりしないってことを。
ああ、でも――さっきは彼女を置き去りにして部屋を出てきてしまったから、不安にさせてしまったかもしれない。
明日には謝らないと。




