逃亡
浅い眠りの中にいたオフェリアは、「姫様……」とレーネの声がして瞼を動かす。
ぼんやりした目に、レーネの顔が映った。
「……レーネ?」
ここはどこだろう。移動していた馬車はどうやら止まっているらしく、振動を感じない。
外はまだ暗く、林を抜けていないようだ。
レーネはオフェリアの体を起こすと、ポケットに隠し持っていた小型のナイフを取り出す。
いったい、いつの間にナイフなど手に入れたのだろう。しかも、外からは男たちの声が聞こえてこない。いや、微かには聞こえてくるけれど、人声というより、苦しそうな呻き声だ。
何が起きているのかと不安に駆られている間に、レーネは手際よくオフェリア手足を縛る縄を切っていく。ようやく自由になると、レーネに引っ張り起こされた。
「今なら、逃げられます。馬車を降りたら、走ってください……」
「男の人たちは?」
「大丈夫です。皆、動けない状態ですから」
レーネは馬車の扉を開くと、外を確かめてから飛び下り、オフェリアに手を貸す。その手につかまりながら、外に出てみると、離れた場所で焚き火が燃えていた。オフェリアはその周りに転がって悶絶している男たちの姿を見て仰天する。
まともに動けないようで、呻いたり、吐いたりしているようだ。
「あの人たちは?」
「その辺りに生えていたキノコを、手当たり次第スープに突っ込んで振る舞っただけです」
「それって、毒キノコ!?」
「さあ、キノコには詳しくありませんので。それより、話は後です」
涼しい顔のまま答えると、レーネはオフェリアの腕をつかんで馬車を離れようとする。
オフェリアは頷くと、倒れている男たちを気にしながら、レーネに引っ張られるようにして走り出した。けれど、「どこに逃げようってんだ!」と男の声が聞こえて振り返る。
「姫様!」
レーネに突き飛ばされたオフェリアは、土の上に身を投げ出すようにして倒れた。
男がレーネの上に馬乗りになり、髪をつかんで地面に顔を押しつける。
「レー……」
「走って! 早く!!」
レーネが泥で汚れた顔を上げて叫んだ。
心臓がバクバクして、体が震えてすぐに動けない。
男はレーネの喉にナイフを当て、「逃げんなよ!」と声を荒らげる。
「逃げれば、この女は殺す!!」
「いいから、走って!」
「うるせえ、黙ってろ!!」
男がレーネの顔を殴りつけるのを見た瞬間、オフェリアの体がカッと熱くなった。
「よくも……私の大切なレーネに…………」
汚れたスカートをつかんで立ち上がったオフェリアは、小さな声で呟いて唇を噛んだ。
「姫…………」
「食事に毒なんか盛りやがって。余計な女を連れてくるんじゃなかったぜ。始末しておけばよかったんだ」
「だったら、さっさとやればいいでしょう! 姫様、かまうことはありません。こいつは私を押さえているからここを動けない。逃げてください!!」
「黙れって言っているだろ! 舌を切られたいのか!?」
「その度胸もないくせに!! やれるものなら、やってみなさい!! ナイフを持つ手だってブルブル震えているじゃない。どうせ、人なんて殺したことはないくせに。脅すだけなら、下町の子供だってあなたよりはずっとうまくやるでしょうよ!」
「こいつ……!! 思い知らせてやらなきゃ、分からないらしいな」
レーネに挑発された男は、殺気立った目をギラつかせてナイフを振り上げた。
けれど、そのまま意識を失い、レーネに覆い被さるように倒れ込む。
深い呼吸を繰り返しながら、震える手で薪を握り締めているのは、馬車を迂回して背後に回ったオフェリアだ。
「レーネ、大丈夫!?」
「はい。姫様、完璧です!」
レーネは男を押し退けて立ち上がると、飛びついてきたオフェリアを笑顔でギュッと抱き締めた。
「気付かれたら、どうしようかと思ったわ……レーネが男の注意を引きつけてくれたおかげよ」
「姫様が馬車の陰の方に少しずつ移動していたのが分かりましたので。ですが……本当は私の事などかまわず、先に逃げていただきたかったです」
「そんな事、できるわけがないって分かっているくせに。それより、歩ける?」
「はい、大丈夫です。大した事はありません。ですが……逃げる前に」
レーネは気を失っている男に冷たい視線を向けると、殴られた仕返しだとばかりにお腹を蹴っ飛ばした。うつ伏せの状態から仰向けにひっくり返った男が、呻くような声を漏らす。
レーネは男の手からナイフを抜き取った後、男のベルトを外して両手を縛り、さらに馬車の車輪にしっかりと結んで逃げられないようにしていた。
「さあ、行きましょう」と、手を払ってからオフェリアを促す。
「レーネ……あなた、なんだか手慣れていない?」
「それを言うなら、姫様もですよ。先ほどの一撃はお見事でした」
「あの……イグナーツ様には言わないでね。はしたないと思われたくないわ……」
レーネと手を取り合って逃げながら、オフェリアは恥ずかしさに顔を赤くする。
「旦那様なら、きっと姫様の勇敢さを褒めてくれますよ」
◇◇◇
オフェリアはレーネを支えながら、暗い林の中を走る。
そろそろ夜明けなのか、空が白くなりはじめていた。
オフェリアは岩陰を見つけて身を隠す。岩にもたれたレーネは、痛そうに眉間に皺を寄せて、声が漏れるのを堪えるように唇を噛んでいた。片手で押さえた袖が赤く濡れている。
「……レーネ……少し我慢して」
オフェリアはレーネの前にしゃがんで、破れた服の袖を確かめる。矢で射られた傷だ。
追ってきている男たちは三人だ。
「すみません……まだ動ける者がいたなんて……」
レーネが青い顔をして苦痛を堪えながら言う。露出した腕には赤黒い傷ができ、血が滲み出していた。
オフェリアはポケットから取り出したハンカチを当てて、ドレスの胸元のリボンを解いて縛る。幸いに矢は掠めただけのようだ。
「何を言うの。レーネがいなければ逃げる事もできなかったわ……」
大半の男は毒キノコ入りのスープを飲んで動けなくなっていたけれど、その場を離れていた男たちがいたらしい。その男達はレーネとオフェリアが消えた事に気付いて、すぐに追ってきた。
矢と剣で武装しているから、正面から戦うなんて無理だ。暗い間は何とか逃げられたけれど、明るくなればすぐに見付かってしまう。
「姫様、私の事は…………」
「ダメよ、絶対! 私だけ逃げろなんて言わないで。あなたに何かあったら、舌を噛むって言ったでしょう?」
オフェリアは険しい表情で言うと、汗が滲んでいるレーネの額を手で拭った。
とはいえ、ここに隠れていられるのも時間の問題だ。
自分が囮になれば、レーネは助かるかもしれない。けれど、それを口にすればレーネは絶対に反対するだろう。それなら、自分が囮になると言いかねない。
どうすれば――。
オフェリアはギュッと目を瞑る。イグナーツの名を無意識に呟いてしまっていた。
その時、「血の痕だ。この近くにいるはずだ!」と男の声がする。
灯りを手にしている男たちの姿が見えて、オフェリアもレーネも息を詰める。
足音や声がはっきり聞こえるほど近くにいる。
二人の心臓の音が大きくなる気がした。
レーネの冷えた手を強く握って、岩にピッタリと寄り添う。
気付かずに行ってくれればいい。けれど、それは無理だと分かっている。
「姫様……」
レーネが小型のナイフを握り締めて耳元で囁いた。オフェリアは頷いて、レーネを起こしながら慎重に立ち上がる。身を低くしながらその場を離れようとした時、飛んできた矢が近くの幹に突き刺さった。
オフェリアとレーネは悲鳴を飲み込んで走り出す。
「いたぞ!!」
「回り込め!!」
男たちの声が聞こえてくる。窪地の斜面に足を取られた瞬間、二人とも倒れて枯れ葉や草に塗れるようにして転がった。レーネが腕を押さえて声を漏らす。
男たちが上から覗き込み、にやついた笑みを浮かべていた。
「よーやく見つけたぜ。手を焼かせるんじゃねぇよ!」
男が上から矢をつがえるが見えて、オフェリアは咄嗟にレーネの上に覆い被さった。
「姫…………!!」
焦ったレーネの声を無視して彼女をギュッと抱き締める。
殺される!
そう覚悟をした時、男たちが叫び声を上げる。
飛んできた矢は、オフェリアには当たらず、逸れて地面に突き刺さっていた。
驚いて顔を上げると、剣を手にしたフェリックスの背中が見える。
「オフェリア!」
一番、聞きたかった声が耳に届く。
斜面を下りてきたイグナーツの姿を見た途端、目がジワッと潤んだ。
胸の奥が熱くなり、膝から力が抜けそうになる。
ああ、よかった。やっぱり、来てくれた。
「二人も大丈夫か!?」
イグナーツが駆け寄ってきて、ひどく心配そうな顔で尋ねた。
「私は……でも、レーネが矢でケガをしていて……」
オフェリアはそう言って、すぐにレーネから離れた。イグナーツの手を借りて、彼女を助け起こす。
止血のために当てたハンカチにはすでに赤い染みができていた。
「大丈夫です。動けますから……」
「あまり動かない方がいい。すまない、助けが遅くなってしまって」
「追っ手は三人います。油断を……」
レーネが痛みを堪えながら報告しようとしたが、フェリックスが男を引きずりながら斜面を下りてくる。他の二人も、上で伸びているようだった。
「片付けました。他にはいないようです」
フェリックスは男を投げ捨て、辺りを警戒しながら答える。
彼が握っている剣の先から血が滴っていた。地面にうつ伏せに倒れている男の両脚から、血が溢れている。致命傷には至っていないようで、意識はあるようだった。「許してくれ……俺は何も知らない!」と、悲壮な声を漏らしながら震えている。
フェリックスが上から踏みつけて剣先を突きつけているので、逃げられない。
灯りと武器を手にした数人の男たちが、遅れて姿を見せる。
一瞬、他にも追っ手がいたのだろうかと身構えたが、どうやら違うようだ。
「旦那! 向こうに馬車を見つけました。けど、全員毒を盛られたみたいに倒れてますぜ!!」
男の一人が斜面の下を覗いて声を上げる。
「毒?」
イグナーツがフェリックスと顔を見合わせる。
オフェリアもレーネと顔を見合わせた。
「そ、それは……」
オフェリアがどう答えればいいか迷っていると、「私がやりました」とレーネが片手を上げて自供する。
「えっ、レーネが毒を盛ったの!?」
「いえ、正確には周辺に自生していた各種キノコを調理して提供しただけです」
イグナーツもフェリックスも、なんとも言えない複雑な表情になる。
「ま、まあ、とにかくだ……そいつらは、動けないなら放っておこう。情報を引き出すならここにいる三人で十分だ。こいつらは連れて行くから縛っておいてくれ」
イグナーツは斜面の上にいる男たちに、そう指示を出す。
フェリックスが伸した二人が、すぐに縛り上げられる。それが終わると、男達も斜面を下りてきた。
「あの、この方達は……」
オフェリアは戸惑って、小声でイグナーツに尋ねた。
「捜索を手伝ってもらったんだ。僕とフェリックスだけでは、手が足らなかったから。それより、オフェリアは大丈夫? どこもケガはない?」
「はい、私は……レーネが助けてくれましたから」
オフェリアは頷いて答えた。
「レーネがいなかったから、君たちを見つけるのがもう少し遅くなっていただろうな。本当にどれだけお礼をしてもしきれないよ!」
安堵の色を浮かべて、イグナーツが息を吐き出す。
「君が連れ去られた事が分かって、僕とフェリックスで捜していたんだけど、なかなか足取りがつかめなくてね。その時、フェリックスが北の通用門近くに落ちていたレーネのブローチを見つけたんだ」
そのブローチは、レーネが機転を利かせて落としておいたものだろう。
イグナーツはポケットから取り出したブローチをレーネに返す。
「無駄にならなくてよかったです」
レーネは安堵の笑みを浮かべ、そのブローチを握り締めていた。




