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覚悟

 馬車がようやく止まり扉が開く。夜が更けて、風が強まっていた。

 男がレーネをつかんで引っ張り起こそうとしたものだから、オフェリアはそれに抗議するようにくぐもった声を上げる。


「大人しくしておけって言っただろ。今すぐに殺しはしねーよ!」

 男は吐き捨てるように言うと、レーネを馬車から引きずり出す。そして、扉をすぐに閉めてしまった。

 レーネは大丈夫だというようにオフェリアを振り返って目を伏せていたけれど、何をさせられるのか分からない。男たちの慰み者にされる可能性も――。

 そう思うと心臓がギュッと縮まるような気がして息苦しくなった。

(レーネ……!)

 こんな事になったのも、自分の迂闊さのせいだ。そう思うと、目の端に涙が滲む。


(イグナーツ様…………)

 大丈夫。イグナーツなら絶対に捜索してくれる。連れ去られた事にもすぐに気付いているだろう。

 けれど、足取りを追う事は簡単ではないはずだ。


(ダメです。頼ってばかりいては……自力で何とか逃げる方法を考えなくては……レーネの身を守らないと!)

 込み上げる涙をグッと堪える。

 しばらくすると、扉が開いてレーネが戻ってきた。

 手を縛られた縄は解かれたようだ。かわりにその両手には木のカップを持っている。

「早くしろ。妙な真似はするんじゃねーぞ」

 男が後ろから急かすように命令する。レーネは馬車の中に入ると、カップを椅子の上に置いてからオフェリアの体を起こした。その口に押し込められた布を解こうとすると、「おい、何してやがる!」と男が鋭い声を上げる。

「口を塞がれていては、飲めないでしょう」

 レーネは振り向いて、呆れたように言う。

 男は「飲ませる間だけだぞ」と、苛立ちまじりに答えていた。


 口が自由になったとはいえ、余計な話はできない。男は扉を開けたまま見張っているのだ。

 レーネが連れて行かれたのは、食事の手伝いをさせるためだったようだ。その事に少し安心した。

 カップを渡される時、レーネがオフェリアの小さく震えている手をギュッと握り締める。

「飲んでください……」

 レーネが囁くような声で言う。男にチラッと視線を向けてから、オフェリアは頷いた。

 黙ってカップを受け取り、温めたワインを口にする。リンゴの輪切りが入っており、ほんのり甘くて少しだけ気持ちが落ち着く。なにより、この場にレーネがいてくれる事が心強かった。


 飲み終えると、レーネは「我慢してください」と小声で言ってオフェリアの口をもう一度布で塞ぐ。さっきより緩く結ばれているから呼吸が楽だった。それに何とか声も出せそうだ。けれど、それが分かれば、後ろの男が何をするか分からない。気付かれないように黙っているしかなかった。


 馬車を降ろされたレーネは、それからしばらく戻って来なかった。それが不安を煽る。

 ようやく戻ってきた彼女は、最初と同じく手を縄で縛られていた。

 扉が閉まると、馬車は再び急ぐように走り出す。


 オフェリアは口を動かして緩んでいる布をずらすと、「レーネ」と小声で呼んだ。

「姫様……お怪我は?」

 レーネもそばに寄ってきて声を潜めるように聞く。それには首を左右に振った。

 外は風の音が強いから、小声では外の男たちにも聞こえないだろう。

「レーネは無事? ひどい事……されなかった?」

「大丈夫です。食事の世話をさせられただけですから……お酒をたっぷり飲ませておきました」

 その言葉に、オフェリアは「よかった……」と胸をなで下ろす。


「どうして、私が連れ去られる馬車が分かったの?」

「北の通用門付近には近付かないように、王宮の使用人たちに指示が出ていたのです。ですから、何かあると思い、すぐに向かったのです……そこで、不審な馬車を見つけたのですけれど、閣下やフェリックス様に伝える時間がありませんでした」

 レーネはそう答えて、目を伏せる。

 戻っていて報告しては間に合わないと思い、自分も捕まる事にしたのだろう。

 オフェリアを見失わないように。


「無茶をするんだから……」

 オフェリアは小さく溜息を吐いた。レーネが一緒にいてくれるのは心強いけれど、あまりにも危ない。その場で殺されてしまってもおかしくはなかったのに。

「姫様……いったい、王宮に何があったのです?」

「それが……」


 王宮の大広間でイグナーツが戻ってくるのを待っていた時だった。

 舞踏会を楽しんでいる人たちを大広間の端で眺めていたところ、若い女性がふらついてオフェリアにぶつかったのだ。


 倒れそうになった女性を咄嗟に支えると、彼女が持っていたワインのグラスが傾いてドレスに液体がこぼれてしまった。

「ごめんなさい………!」

 その女性は青い顔で謝り、オフェリアのドレスにもかかってしまった事に気付いてうろたえていた。

「いいんです。大丈夫ですか? それより、気分が悪いんじゃ……」

「立ちくらみがして……」

 女性は今にも吐きそうな様子で、口を手で押さえていた。

 放ってもおけず、彼女に腕を貸して大広間を出ると、使用人に頼んで空いている部屋に案内してもらった。


「コルセットをきつく締めすぎたせいかも……少し緩めると楽になりますから」

 灯りのついていない部屋のソファーに彼女を座らせて、ピッチャーの水をグラスに注いで渡した。

「ごめんなさい……ご迷惑をかけてしまって……」

 若い女性は苦しそうに呼吸をしながら、胸を押さえていた。水を飲むと少しだけ落ち着いたようだ。

 彼女に背中を向けてもらい、ドレスのボタンを外す。コルセットの紐を少し緩めていると、扉が開く音がした。侍女が来てくれたのかと思い振り返った時、いきなり後ろからハンカチで口を押さえられたのだ。

 青ざめて震えていた女性が、見下ろしていたのをぼんやり覚えている。

 彼女が「ごめんなさい」と、涙ぐんで謝るのも。

 

(きっとあの女性も、脅されていたのでしょうね……)

 震えていたのは気分が悪かったからではなく、怖ろしい企みに加担させられていたからだ。

 あの女性は大丈夫だろうか。口封じに始末されるなんて事にならなければいいけれど。

 異母兄のルカーシュは、それくらい平然とやる。人の命など玩具程度にしか見ていないのだ。

 

 経緯を話すと、レーネの顔が険しくなる。

「最初から、姫様を亡き者にしようと企んでいたのですね……あの…………クソ野郎は!」

 彼女の口から乱暴な言葉が飛び出したものだから、オフェリアの方がびっくりしてしまった。

 レーネはコホンと咳払いして、「失礼しました」といつもの冷静な表情に戻る。

 オフェリアはこんな時でも、笑ってしまった。

 馬車の外に聞こえないように唇を閉じたまま肩を振るわせる。


「ええ、そうね……本当にそうだわ」

「姫様……もうしばらく、ご辛抱ください。閣下とフェリックス……いえ、バロー卿もすぐに足取りを追ってくるはずです。それまでは、私が命に代えてもお守りしますから。あの男達には指一本だって触れさせません」

「いいえ、ダメよ。あなたはあなたの身の安全を優先して。私の身は私で守るから」

 オフェリアは首を振ってはっきり言った。

(これ以上、私のためにあなたを危険に晒すわけにはいかないもの……)


「一緒に生きて無事に戻るの……絶対よ。約束して」

「…………」

 レーネはグッと唇を引き結んで返事をしない。

 体を寄せると、オフェリアは彼女の額に自分の額を寄せた。

「約束して、レーネ。でないと、私……あなたに何かあったら、舌を噛んで死ぬわ」

「何を……!」

「あなただって、そうするでしょう?」

 オフェリアは彼女の目を覗き込むように見つめて微笑む。


(レーネは私に何かあれば、迷わずにそうするはずだもの……)

 それくらい、レーネの忠義心が厚い事はとっくに分かっている。

 塔に一生幽閉される覚悟で、帝国についてきてくれたのだ。それは幸い杞憂だったけれど、王国を出る時には本当にそれくらいの覚悟していた。あれから、何ヶ月かしか経っていないのに、懐かしさすら感じる。

 

 帝国に向かう馬車の中で、オフェリアもレーネも決死の覚悟の表情だった。それは護衛としてついてきてくれたフェリックスもだ。まるで自分の葬送のようだと思ったものだ。

 実際に、帝国に到着した途端に殺される可能性だってあった。

 敵国に人質として向かうという事はそういう事だと思っていたから。

 国のために、死ぬという事。


(けれど、出迎えてくれたのは……)

 到着した宮殿の正面入り口で待っていたイグナーツは、貴賓をもてなすように丁重にオフェリアを案内してくれた。拍子抜けすると同時に心の底から安堵した。誰も死ななくてもいいと分かったから。

 それどころか、イグナーツは本当に大切な妻を迎えるようにもてなしてくれて、受け入れてくれた。何一つ不自由がないように気を配ってくれて、顔を見れば困っている事がないか尋ねてくれた。

 

(あの方にどれほど救われたか分かりません……)

 最初は信じられなかったのだ。

 なぜ、彼がこれほど大切に、宝物でも扱うように接してくれるのか。その理由が分からなかった。

 王国ではいつも、ヴァーナ族の血を引く姫だと蔑まれ、誰も親切にはしてくれなかったから。

 使用人ですら、軽蔑と嘲笑の態度を見せる事が多かった。

 王族の恥だと言われて、隠されるように離れに閉じ込められてきた。


(私には何の価値もないと思っていたのに……)

 それなのに、イグナーツは違うのだ。出自も王国での扱いも全部知っているのに、受け入れてくれて、笑いかけてくれて、大切な自分の妻だと言ってくれる。


 それが時々、申し訳なくなるくらいだ。

 こんな自分と無理矢理に結婚させられなければ、もっと帝国の公爵家に相応しい家柄の令嬢や姫を迎えられただろうに。


(私などと結婚しても、イグナーツ様には何にも利益になる事なんてないのに……)

 

 なぜだろう。

 いつも思うのだ。

 なぜ、あなたはそんなにも、私を大切に扱ってくれるのだろう。

 いつも助けてくれるのだろう。


 心を寄せてくれるのだろう。

 私には、そんな資格など一つもないのに。


「姫様……」

 レーネの呼ぶ声に、オフェリアは顔を上げて微笑む。

「大丈夫。イグナーツ様はきっと捜してくださっているから……」

「ええ、そう思います。あの方は絶対に姫様を見捨てたり、諦めたりはいたしません」

 レーネの口調にも確信がこもっている。そうだと、疑いはしていないのだろう。

「レーネもフェリックスも、すっかりイグナーツ様の信奉者ね」

 オフェリアはクスッと笑った。


 あの堅物の護衛騎士が、今ではすっかりイグナーツを主君と仰いでいるのだ。

 帝国に来る前は、もしオフェリアに危害を加えるような真似をすれば、差し違えても排除すると言っていたのに。


「一番の信奉者は、姫様ではありませんか。ですから、私もフェリックスもあの方を信じるのです」

 レーネはクイッと顎を上げて答える。

「ええ、そうね」

 信じているのだ。イグナーツなら、絶対に助けに来てくれる。

 だからこそ、何もしないで待っているわけにはいかない。


(あの方を危険に晒すわけにはいかないのだわ……)

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