別れ
「はぁ~~、癒やされる~~」
村から近い場所に、村人しか知らない秘湯があると聞いて連れてきたもらったけれど、お湯に浸かり、山の景色を楽しむのがこんなに最高だったとは!
夕暮れに染まる風景はまさに絶景で、感動すら覚える。
ここまで苦労してやってきた甲斐があったなと、僕は満足を覚えた。
これは、カールにも秘密にしておかないとな。でないと、あいつは仕事を放り出して、宮殿を飛び出してやってくるに違いない。気に入ったら、この山まで征服しようとするだろう。
この温泉が地震の被害を受けず、無事でよかった。村の人達の話では、先日の地震で別の場所にも、新しく温泉が湧いたと言っていた。麓の村の人達も一緒になって、湯治場として整備する相談をしていた。
岩にもたれて、足を投げ出す。これは、公爵家の邸でも味わえない贅沢だ。
帝国に戻ったら、僕も温泉地を買おうかなぁ。オフェリアもきっと喜ぶぞ。
そんな事をぼやーと気抜けたように考えていると、「おい」と不機嫌な声が聞こえる。
見れば、腰に手ぬぐいを巻いただけの格好のラデクが、腕を組んで岩の上で見下ろしている。
「やぁ、ラデク。君も来ていたのか」
「やぁ、じゃないだろ! お前はいつまで、この村にいるつもりだよ!」
「あれ、もう兄様呼びは終わりかい? 僕がいないと寂しいからいてくれと、涙を浮かべて頼んだのは君じゃないか」
僕がニマニマ笑って言うと、ラデクは顔を真っ赤する。
「それは、二日前までの話だ! それに、寂しいなんて一言も言ってないし、涙を浮かべてもいない!!
お前がいれば、少しは楽ができると思ったからだ。それなのに、毎日だらけているばかりだ。働く気がないなら、とっとと帰れ!」
「そうは言っても、僕が手伝おうとするとみんな恐縮して遠慮するんだよ」
すっかり、僕の事を英雄だと思っているらしく、どこに行っても神様がやってきたみたいに拝まれるのだ。村を歩いているだけで、アケビだの、ベリーだの、深し芋だの、色んなものをくれようとする。
仕方ないので、新居にこもっているしかない。それでも、家の前に食べ物が置いてあるんだから、ありがたくも困ったものである。
「オフェリアはお前よりもずっと働いているぞ!」
「知ってるよ」
オフェリアは朝早く起きると、村の女性たちに機織りや、布の染色、刺繍を教えてもらっているようだ。おかげで、僕が彼女の顔を見られるのは朝と夜だけだ。楽しそうに働いているから、邪魔をするのも悪い。
「新婚だってのに……彼女が人気者すぎて、夫の僕ですら気楽に話しかけられない! 僕だって、オフェリアを独占して朝から晩までくっついていたいよ」
僕は頭の上に載せている濡れた手ぬぐいを、目の上に移動させてぼやく。
生憎とまたタイミングを逃してしまって、僕らは初夜を迎えられていない有様なんだ。それなのに、同じ寝所で枕を並べて寝ている。僕の忍耐力と精神力と理性と、自制心を褒めてほしい。
まあ、安心しきった顔で気持ち良さそうに寝ているオフェリアの寝顔を見れば、眠りを妨げようなんて気も起こらない。
どうやら、オフェリアはものすごく寝付きがいいようで、横になると数秒も経たずに寝てしまうようだ。おかげで、僕は眠れずに悶々としながら夜を過ごす羽目になる。まあ、その分、ダラダラしながら昼に寝ているからいいんだけどね。
「のろけ話なんて聞いてない!」
ラデクは両耳を塞いで顔をしかめる。
バタバタと走ってきた素っ裸の子供たちが、小猿みたいな声を上げてお湯に飛び込んできた。
おかげで、僕もラデクもお湯を浴びてしまう。湯が激しく波打っていた。
「風呂場で走るな。転ぶだろ!!」
ラデクに叱られた子供たちは、「ラデクだってこの前まで走ってただろ!」と言い返す。
僕はクッと笑いそうになって口を押さえた。
ラデクは僕をジロッと睨んでから、偉そうに胸を張る。
「俺はもうお前らみたいな、チビガキとは違うからな! 大人は風呂場で走り回ったり、泳ごうとしたりしねーんだ」
「ええ~~、つまんねー。ラデク、遊んでくんねーの!?」
「ラデクが族長になんの反対!!」
子供たちはお湯の中で跳びはねながら、キャッキャと笑っている。
腰に巻いていた手ぬぐいを引っ張られそうになったラデクが、「こら、やめろ!」と焦った声を上げた。
よろめいて、ドボンとお湯にはまる。水しぶきが上がって、勢いよく僕の顔にかかった。
「お前ら、静かにしろ――!」
ラデクが我慢の限界に達したのか、声を張り上げる。
その声が夕暮れの空に木霊していた。
彼が族長としての威厳を保てるようになるには、まだもう少し時間が必要なようだ。
◇◇◇
新居に戻ると、オフェリアが円座に座って長い黒髪を梳いていた。その髪もしっとり濡れている。
僕らより先に、オフェリアは女性たちと一緒に温泉を堪能して戻ったようだ。
「あっ、イグナーツ様。お帰りなさい。温泉、どうでした?」
「うん、気持ちよかったよ。やみつきになりそうだ。あと、何日か滞在を延ばしたくなるな」
「私もできれば、もう少し村にいたいです。今、教えてもらっている織物を完成させたくて」
「そう? じゃあ、そうしよう。急いで戻らないといけない理由もないしね」
いや、ゲーラー卿は、早く戻ってきてほしいと思っているかな。
「あっ、でもイヴァンが寂しがっているかもしれないな」
「イヴァンも子供じゃないのですから、大丈夫です」
「まあ、そうだね。見習い騎士の友達もできただろうし、フェリックスやジャックもいるんだ」
僕はオフェリアの横にゴロンと転がる。オフェリアが少し膝を寄せて、顔を覗き込んできた。
「頭が痛そうです……お膝、使いますか?」
恥ずかしそうに薄ら頬を染めた彼女が、小さな声で訊く。
そんなの、ありがたく使わせてもらうとも!!
拒否する理由なんてこれっぽっちも思い浮かばない。
僕は大きく息を吸い込んで、頭の位置を変えて彼女の膝に乗せる。オフェリアの腿は柔らかくて極上の枕のようだ。僕は両手を胸の前で組んで仰向けに転がりながら、天国にいるような幸福感を噛みしめる。
「やっぱり、もうしばらく村にいるとしよう」
この幸せを誰にも邪魔されたくない。戻ればきっと、面倒な仕事がたっぷり溜まっているはずだ。
ゲーラー卿のしかめっ面を、頭から追い払う。
オフェリアは「はい!」と、嬉しそうに微笑んだ。
サラサラの黒髪を、櫛でさらに梳かしている。僕の頭上でその髪が揺れていた。思わず手を伸ばして、髪に触れる。ずっと触っていたいような手触りだ。それに、風呂上がりだから肌も見るからにスベスベで血色がいい。いい香りすらほんのり漂ってくる。
「ずっとこうしていたいよ……」
彼女の髪の毛先を玩びながら呟く。なんなら、このまま村に永住してもいいと思えるくらいだ。
食べ物もおいしい。村人も親切で、温泉もある。なにより、オフェリアとイチャイチャしていられる。
「ああ、戻りたくない!」
僕は駄々をこねるように声を漏らして、ゴロッと体を横向きに変える。弾力ある腿の感触を頬に感じて、溜息が漏れた。オフェリアは櫛を置くと、僕の髪にそっと触れてくる。子供をあやすみたいに優しく撫でられると、なんとも言えないムズムズした気持ちが込み上げてくる。
「いいですよ? イグナーツ様がそうしたいと望むのなら、私はどこでもずっと一緒にいます」
優しい声が耳をくすぐる。僕は片腕を彼女の腰に回してギュッと衣をつかんだ。
それもいいかなと、本気で思いたくなる。
だけど、そういうわけにもいかない。僕には一応責任があって、それを全部放棄するわけにはいかない。
それに、あまり帰るのが遅くなれば、みんなも心配する。
もう、十分に村に滞在した。そろそろ戻るべきだ。
頭では分かっていても、体がぐずるみたいに動こうとしないんだからどうしようもない。
居心地が良すぎるのだ。
「あと……もうちょっとだけ、堪能したら帰ろう……」
僕が言うと、オフェリアは分かっていたようにニコッと微笑んだ。
「はい」
◇◇◇
五日後、ラデクの成人の儀式と族長の就任式が行われた。
倒壊した建物の復旧も進んでいるし、壊れた倉庫の建設も始まっている。
後は、ラデクが主導して行うから心配はいらないだろう。
僕とオフェリアが村を出る日の朝、村の人たちが総出で見送ってくれた。
オフェリアは女性たちに囲まれ、織物や刺繍といった贈り物を受け取っていた。
涙ぐんでいる彼女を、女性たちが慰めている。
子供たちが「待って、待って!」と、駆け寄ってくる。
「英雄のお兄ちゃん、これ、アケビ!」
「朝、採ってきたんだよ!」
子供たちから渡された両腕いっぱいのアケビを受け取る。
「みんな、ありがとう。ラデクの事や村の事、頼んだよ」
僕は子供たちの頭を順番に撫でてやる。「これも、あげる!」、「僕が作ったの!」と、子供たちはさらに木彫りの人形や、綺麗な石もくれた。
「わっ、すごいたくさんだな。こんなにもらったら、君たちの宝物がなくなるんじゃないか?」
「ううん、お兄ちゃんは英雄だからいいんだよ!」
「そうそう。だから、また来てくれる?」
取り囲んだ子供たちが、キラキラした目で見上げてくる。
「うーん、そうだな。すぐには無理かもしれないけど……また来るよ。オフェリアも一緒に」
笑って答えると、子供たちは嬉しそうに声を上げて跳びはねる。
そういえば、ラデクのやつが見当たらないな。
まあ……照れくさいのかもな。
帰る時くらい、顔を見たかったけど。
若い兵士たちも涙を流しながら、「お気を付けて!」と別れを惜しんでくれる。
「ああ、君たちもね」
「婿殿」
ラデクの父のジルカさんが僕のところにやってきた。
「ジルカさん。色々と、お世話になりました」
「改めて君には、お詫びを……それと、これを君に。我々からの感謝の印と受け取ってほしい」
ジルカさんは細い木の枝を組んで作った鳥かごを僕に差し出す。
立派な鷹が羽を繕って、大人しくしていた。
「若い鷹だが、しっかり調教してあるから役に立つだろう」
「いいんですか? 大事に育てていた鷹でしょう?」
「ああ……君は村の英雄だからな。連れて行ってやってくれ」
ジルカさんはフッと笑って言う。
「それじゃあ、ありがたく受け取らせてもらいます。これはすごく、嬉しい贈り物だな」
帝国でも、狩りのために鷹を飼う貴族は多い。専属の鷹匠もいるくらいだ。
ただ、いい鷹はなかなか手に入れるのが難しい。
僕はジルカさんから鳥かごを受け取る。
「オフェリアよ……」
フベルト老人がオフェリアに声をかける。
「お祖父様……お別れが名残惜しく思います。長くお元気でいてください。母もそれを願っていますから」
「うむ……そなたも、婿殿を連れてくるがいい。今度はひ孫の顔も一緒に見せてくれ」
豪快に笑うと、老人はオフェリアと抱擁を交わしていた。
オフェリアが赤くなって、「お祖父様!」と小さな声を漏らす。僕と目が合うと、すぐに逸らしてしまった。
僕は笑って、「是非、そうします」と答えておく。
「ああ、そなたには感謝しきれんよ。また、来るといい。いつでも歓迎する」
「ええ、ありがとうございます。爺様もお達者で」
「わしはまだまだくたばれんよ。なにせ、頼りない孫が立派に成長するのを見守らねばならんからな」
フベルト老人は僕の肩をポンポンと叩く。
僕とオフェリアは荷車を引くロバを連れて、新しく建て直された門を出る。
ロバに引かせた荷車にはすでに、荷物がいっぱいだ。
「思っていたより、ずっと長居してしまったな」
村を訪れた時には、僕は牢に放り込まれるし、オフェリアは別の男と結婚をさせられそうになるし、散々だったけれど。
「ええ、楽しかったです……また、訪れたいです」
オフェリアも名残惜しそうに言う。僕は彼女の顔を見て微笑んだ。
「子供ができたら来ようか。爺様にも約束したしね」
「……はい!」
坂道を下り、麓が近くなっていた頃、「あれ」と僕は足を止める。
石に腰掛けて待っていたラデクが、「遅い!」と不機嫌な声で言って立ち上がる。
「もしかして、見送るために待っていてくれたの?」
顔を見ないまま、帰る事になる事が気がかりだったのだ。
「俺もお前と一緒に行ってやる」
ラデクは腕を組んで、偉そうな態度で言う。よく見れば、しっかり旅装をしている。
「えっ、一緒にって……村はどうするの? 君は族長なんだよ?」
「父様に代理を頼んだ。爺様にも、村の外の世界をよく学んでこいと言われたから、二年くらい……村を出ることにした」
「そういうことか……」
見送りに出てこないと思ったら。ちゃっかりついてくる気で用意していたとは!
僕は笑ってラデクの肩を叩く。
「それはいい心がけだ。見聞を広めるのは悪い事じゃない」
ジルカさんや爺様も、僕らと一緒なら心配ないと、送り出す事にしたのだろう。
託されたからには、しっかり面倒を見てやらないとな。
「ラデクなら、イヴァンのいい友人になってくれそうですね」
オフェリアもフフッと笑っている。
「イヴァン? 誰だ?」
「オフェリアの弟だよ。君よりちょっと年下かな。兄貴分として仲良くしてやってくれ」
「まあ、いいけどな……そいつが嫌なやつじゃないなら」
「嫌なやつなものか。すごく素直でいい子だよ。きっとうまくやれるさ」
それに、もしかしたら――。
いつか、イヴァンが王になる事があったら。
その時にはヴァーナ族の族長となったラデクと、友好的な関係が築けるかもしれない。
そう思った事は口には出さなかった。
それは仮定の話で、ただ僕がそうなればいいと夢見ているだけなんだから。
口にすれば、色々問題が起こりそうだしね。
今のこの国の王は、オフェリアとイヴァンの異母兄だ。
これは、ただの将来を見越した投資なのだ。
今はまだ。
そう、今はまだ、だ。




