避難
雨が降り出し、僕らは雨宿りができる場所を探す。洞窟を見つけて、足を踏み入れようとした時、急にロバが僕の服を咥えて引っ張った。
「こら、イタズラしている場合じゃないだろ?」
ロバは僕らが洞窟に入るのを阻むように、足を踏ん張っている。
「洞窟の中に何かいるのでしょうか?」
「熊とか狼かもしれないな。他を探した方が良さそうだ」
洞窟から離れようとした時、不意に地面が揺れた気がした。
岩壁の上から小さな小石が落ちてくる。
「オフェリア、そういえば鳥の鳴き声がしないと思わない?」
僕は嫌な予感がして尋ねる。
空を旋回している鷹の姿も見かけない。
天候が悪化したからというわけではなさそうだ。
「そういえば……そうですね。妙に静かです」
オフェリアも耳を澄まして首を傾げる。
ロバは警戒するように耳をピンと立てて、落ち着きなく足踏みしている。
「もしかして、地震が起こるのかも」
「確かに揺れましたね……ロバさんはそれを察したのでしょうか」
「こいつがそこまで賢いとは思えないけれど、野生の勘は無視しない方が良さそうだ」
山を流れる川も増水している。今、地震が起これば、土砂崩れでも起きそうだ。それはマズい。
「村は大丈夫でしょうか……」
オフェリアが不安げに口にする。
「気になるな。誰かが揺れに気付いていたらいいけど……」
小さな揺れは断続的に続いている。オフェリアが、前に英雄と称えられた人の話をしてくれた。その時に、地震を予知した族長の話もあったはずだ。
ということは、この山は以前にも地震に見舞われたという事だ。
僕らも、早いところ山を下って離れた方がいい。
けれど、集落の人達は?
あんな目に遭ったのだから、僕らが気にする事でもない。族長や村人が判断する事だ。僕らが村に戻って地震が起きそうだと伝えたところで、誰が信じる?
その前にまた捕らえられて、オフェリアは結婚させられ、僕は簀巻きにされて谷に棄てられるか、あの素敵な洞窟の牢屋に放り込まれるだろう。そんな危険を冒してまで、知らせる義理はない。
また、小さな揺れが起こる。
オフェリアは無意識なのか、僕の腕をつかんでいた。
「…………気になる?」
「え?」
「村の事だよ。お祖父さんや、叔父さんの事を気にしているように見えたから」
「いえ……いいえ。揺れは感じているでしょうから、村の人達もきっと……」
大丈夫という言葉を飲み込んで、オフェリアは顔を曇らせる。
やっぱり気にしているのだろう。
僕は雨で濡れる髪を手で上げて、空を見る。
「それなら……僕が知らせてくる。オフェリアは先にロバと一緒に山を下りて、麓の村に知らせてきてほしいんだ。地震になれば、あの村にも被害が出るかもしれないし、救助や避難が必要になるかもしれない」
「イグナーツ様が村に戻るのですか? それはダメです! 私が向かいます。私の言葉ならお祖父様や叔父様も聞いてくださるかもしれません」
オフェリアは胸に手を当てて、僕の顔を真っ直ぐに見る。
その頬や髪からも雨の滴が伝い落ちていた。
僕はフッと笑って、彼女の頭に触れる。
「君が勇敢なのは知っているけれど、今回は僕の言う事を聞いて。僕なら大丈夫。捕まらないように上手くやるさ」
「それなら、私も一緒に……!」
「オフェリア!」
僕が強い口調で呼ぶと、彼女がビクッとする。
「頼むから、今は従ってくれ。君の安全が僕にとっては一番大事なんだ。麓の村で待っていて。必ず戻るから……」
彼女の濡れて冷えている頬に両手を当てる。
オフェリアの瞳が不安と迷いで揺れていた。
「絶対ですよ。無事に戻ると約束してください。でないと、承知しませんから!」
泣きそうな顔で言うと、彼女は僕にギュッと抱きついた。
「分かっているとも。大丈夫。みんなをちゃんと避難させるよ」
僕が優しく言うと、彼女は唇を引き結んで頷く。
ロバに、「オフェリアを頼んだぞ。村にちゃんと戻るんだ」と言い聞かせる。頼りないけれど、これでも賢いやつだ。村までの道は覚えているだろう。
ロバは分かっているのか、鼻をムズムズ動かして鳴いていた。その顔を撫でて、オフェリアを乗せたロバを見送る。
彼女は心配そうな顔で、何度も僕を振り返っていた。
僕は「さて……」と、腰に手をやって雨が降り注ぐ空を見上げる。
また、地面が揺れる
これはあまり、時間がないかもな……。
さっきより揺れる間隔が短くなっている。
ああは言ったものの、集落に戻れば間違いなく捕まるだろうし、見付かれば追いかけ回される。僕の言葉なんて、誰一人信じないだろう。
「いや……一人くらいは信じてくれるかもな」
独り言を呟いて、覚悟を決めた。
◇◇◇
雨脚が強まっている。地震など起きなくても、土砂崩れくらいは起きそうだ。もしくは、川の氾濫が起こるかもしれない。
集落の周りは兵士が見張っていて近付くこともできそうになかった。それに、まだ僕らを捜してるようだ。地震は警戒していないのだろう。起こるとは思っていないのか、僕らの事に気を取られているのか。
岩場の陰に身を潜めながら、「どうしたものか……」と呟いた。
「動くな!」
声がした方を見上げれば、ラデク少年が弓に矢をつがえてこちらを狙っている。兵士二名が斜面を下りてきて、僕に剣を向けた。
捜していた相手の方から来てくれるとは!
「やぁ、ラデクじゃないか。ちょうど、君に会いたかったんだよ!」
僕が友好的な笑みを浮かべて答えると、彼は警戒を露わにして顔をしかめる。
「ふざけたやつめ……お前のせいで、村は大騒動になっているんだぞ!! あの人はどこだ!?」
「オフェリアだよ。君の従姉妹じゃないか」
「知るもんか。どこにいるかって訊いているんだ!」
苛立った口調で訊いてくる彼に、僕は遠慮なく歩み寄る。
兵士は困惑した顔で後ろに下がっていた。
「動くなって言っているだろ!」
「オフェリアなら、麓の村に向かったよ」
「お前は報復でもするつもりで残ったのか?」
「そんな事のために残るわけがない。それより、気付いてないのか?」
僕が呆れて問うと、ラデクは「何の事だ?」と訝しそうな顔をする。
やっぱりな……。
「何度も揺れている事にだよ。村に戻って、人を屋外に避難させた方がいい。それに雨のせいで、地崩れが起きる可能性もある。それを警告しに来たんだ」
「俺たちを攪乱するつもりか?」
「そんな暇があるなら、僕もオフェリアと一緒にさっさと逃げているさ」
「黙れ、お前の言葉など信用できるか!」
ラデクが放った矢が、僕の耳をわずかに掠める。血が伝う感触があった。
それでも、僕は動かない。
兵士たちは困惑したように顔を見合わせる。
「……そういえば……先ほど揺れを感じたような」
若い兵士が、ラデクの顔色を伺いながら不安げに口を開く。
「小さい揺れが起こっているんだ。大きな地震が起こる前に、村に知らせに行け」
「誰がそんな話を信じる!?」
ラデクが僕を睨み付けて言う。
僕は彼に歩み寄り、弓を持つ手を押さえ込んだ。
顔を強ばらせたラデクは、一歩後ろに下がろうとする。その手首を強くつかんで、その目を見る。
「僕は君たちの仕打ちを許したわけじゃない。けれど、オフェリアの親族だ。だから、こうして危険を冒してまで警告に来たんだ。それ意外に僕がここに留まる理由があると思うか? 迷っている時間なんてないぞ。被害が出てからでは遅いんだ。君も次期族長なら、村人の命を守る事が何よりも優先なのは分かっているだろう!」
「地震が来るなんて、お前が勝手に言っているだけかもしれないだろう!」
「僕を信じるのか、信じないのか、今ここで決めろ。信じるなら、避難のために手を貸してやる。信じないなら、僕はオフェリアを追い掛けて山を下りる。後は勝手にするといい」
「ラデク様……先ほど、確かに揺れました。もしかして、本当に…………」
不安げに口を開いた兵士を、ラデクが「黙れ!」と強い口調で黙らせる。
拳を強く握り、まだ迷いのある目で僕を見る。
「地震が起こるなんて俺が言っても、爺様も父様も聞く耳を持たない。俺は……まだ子供だと思われているから、相手にもされないんだ! でも、お前の言う通りなら、このままだと村に被害が出る……みんな、揺れている事には気付いてない。気付いていたとしても、大した事がないって思ってる。爺様の頃から、大きな地震が起きた事なんてなかったんだ」
「だけど、以前にも地震が起こった事があるんだろ? だったら、断層があると言うことなんだから、また起こってもおかしくはないという事だ。それに、君たちだって揺れは感じたじゃないか。さっきから……」
言い終わらないうちに、また揺れが生じる。
今度は先ほどよりも時間が長い。
さすがにラデクも感じたようで、顔色が悪くなっている。
「村に戻る……お前も来い!」
ラデクは僕の胸ぐらをつかんだ。
「落ち着くんだ。君が伝えたところで、大人たちは誰も信じないんだろ? だったら、別の方法で避難させるしかない」
ラデクは沈黙の末に、「聞いてやる」とその手を放した。
◇◇◇
ラデクは兵士一人を連れて村に戻った。
僕のそばには、もう一人の兵士がいる。見張りと手伝いのためだ。年齢はラデクより少し上くらいだろう。
「あの……本当に地震が起こるんでしょうか?」
「ああ、多分な。起こらなければ幸いだ。用心するに越したことはない。川も氾濫しそうだしね」
僕が足を運んだのは、あの牢屋として使われている洞窟だ。
捕らえられたわけじゃない。
暗い洞窟内を灯りで照らす。僕はふと、異変に気付いて頭上を見た。
「コウモリがいないと思わないか?」
僕が尋ねると、若い兵士も上を見る。一匹もコウモリが見当たらない。
「本当ですね……おかしいな…………」
揺れを感じて飛び出していったのか。
「鳥の姿も見かけなかったんだ。やっぱりおかしい……急ごう」
僕は兵士と一緒に、牢屋の中の敷物を運んでくる。
それに、隅に積まれていた藁も運んできてもらった。
「どうするんです?」
「うまくいくといいけどね」
湿っているその藁に火を点けると、煙りが立ち上り始めた。
白い煙は瞬く間に洞窟中に広がって、外へと流れ出る。
僕も兵士も口元を袖で押さえ、慌てて外に逃げ出した。
煙は雨の中でも、周囲に広がり始める。
雨に打たれながら村の方を見ると、微かな鐘の音が聞こえてきた。
兵士がそばにやってきて、「警鐘ですね」と教えてくれる。
「……僕らも村に向かおう」
兵士は「行くのですか!?」と、驚いたように僕を見る。
「当然だろ? 避難の手伝いをしてやらないと。ラデク一人じゃきっと、手が足らない」
兵士は「捕まるかもしれないのに……」と、呆れたように漏らしていた。
僕の事を心配してくれるとは、なかなかいいやつじゃないか。
笑って彼の肩を叩き、道を下る。
村では人々が建物から出てきていた。山から立ち上る煙を確かめているのだろう。僕は合図の代わりに兵士の肩を叩く。彼は頷くと、「火事だ!! 山火事だ!!」と大きな声を上げながら村の方へと走り出した。
入り口で見張っていた兵士に駆け寄り、彼は早口で説明している。
離れている僕には聞こえないけれど、見張りの兵士がすぐに村の中に戻っているところを見ると、うまくいったようだ。
僕はその様子を、村を見下ろせる高い岩場の上で確かめる。
雨は降り続いていて、地面は泥のようになっていた。
マズいなと、僕は舌打ちする。
できれば、山を下りた方がいいけれど、その間にも大きな地震が起これば、落盤に巻き込まれるかもしれない。
村の警鐘の音がさらに大きくなる。
建物から出てきた村人たちは、何事かと困惑した様子で広場に集まっていた。
大きな揺れが襲ったのは、その時だ。
立ち上がろうとした僕は、よろめいて膝をつく。
上から石や土が転がり落ちてきた。
大きく木が揺れ出して、山中にゴゴッという振動音が響く。
集落の方でも悲鳴が上がっていた。
僕は咄嗟に岩場から離れ、村の方へと駆け出した。
大きな石が転がり落ちてきて、先ほど僕が立っていた岩場が崩れる。
あのまま、あそこにいたら巻き込まれていただろう。
集落の門が倒れ、兵士たちが慌てて離れていた。
僕は「早く、村人を避難させろ!」と、大声を上げる。兵士たちはいきなり現れた僕を見てあ然としていたけれど、すぐにハッとしたように指示に従う。
後を追って村に入れば、ラデクが女性たちを建物から避難させていた。
「ラデク!」
僕が駆け寄ると、老婆を支えていた彼は少しだけホッとしたような表情を見せた。
「本当にお前の言った通りになった……」
「揺れが続いていたからね。また大きな揺れが来るかもしれない。全員、屋外に退避させたか?」
「ああ。火事だと騒ぎを起こしたから、みんな出てきていた」
収まり掛けていた揺れが、一際大きくなる。村の倉庫が崩れるのが見えて、村の人達がぼう然としていた。兵士たちが、「離れろ!」と声を上げる。
ようやく揺れが収まったのは、それから間もなくしてからだった。
夕刻になる頃には雨が止み、赤く焼けた空が灰色の雲の隙間に覗いていた。
村の人達は広場に集まったまま、放心したように座り込んでいる。兵士たちが倒壊した建物を巡り、取り残された人がいないか声をかけて回っていた。
「ラデク……」
族長のジルカが、兵士を連れてやってくる。
「父様! 無事で……」
「なぜ、その男と一緒にいる」
族長が険しい表情で問うと、ラデクの顔が強ばった。
「地震で村が被害に遭ったと聞いたから、様子を見に来たんだよ」
僕は軽く溜息を吐いて肩を竦める。
「捕らえろ。今度は逃がすな」
ジルカが命じると、兵士が僕を取り囲む。庇うように前に出たのはラデクだ。
「待ってください、父様!」
「どういうつもりだ? そいつはオフェリアを攫って逃げ出したよそ者だ」
「地震が起こると教えてくれたのは、この人なんです。そうでなければ、逃げ遅れた人も出ていた!」
ジルカは僕に射るような視線を向けてから、息子を見る。
村人たちが、騒ぎに気付いてこちらを見ていた。
「火事が起こったというのはでまかせか……そいつの入れ知恵だな」
「そうです。そうでも言わないと信じてもらえないと思ったので」
気まずそうに、ラデクはそう答えていた。
「罪人を村に入れたのだ。覚悟はできているんだろう?」
「村の人が助かったんだから、俺は捕らえられても、追放されてもかまわない」
威圧するように見下ろしてくる父に、ラデクが言い返す。
子供ながらも、その表情には村を背負う者の覚悟が滲んでいた。
立派じゃないか。むしろ父親より族長に向いている。
「そこまでにしておけ。ジルカよ。今は罰するより、やるべきことがあろう」
威厳のある老人が杖をつきながらやってくる。この人が、オフェリアの祖父で、ルーラ様の父親であるフベルト老人だろう。
「それでは示しがつきません」
「我らより、その者が先に予兆に気付いて知らせてくれた。村を救った者を罪人として裁く事が族長の務めか? 周りを見てみるがいい」
老人に言われ、族長のジルカは広場に集まっている村人たちに視線を向ける。
不安と疲れの色の滲む顔をして、誰もがこっちを見ていた。兵士たちもだ。
「父様、この人を連れてきたのは俺です。罰は受けます。でも、この人は……」
ラデクが拳を握って、勇気を振り絞るように口を開く。
僕はふっと息を吐いて、その小さな肩を叩いた。
「いいや、僕が脅したんだ。だから、彼をあまり叱らないでやってくれ。僕なら牢に戻れと言われたら、大人しく戻るよ。けれど、その前に……倉庫が崩れて食料もままならないんじゃないのか? 麓の村までの道も崩れているかもしれない。井戸の水は使えるかどうかもだ。それを確認するのが先だと思うけどね」
「父様、麓までの道は俺が確認する。行かせてくれ!」
「それじゃあ、僕も同行しよう。心配しなくても逃げ出しはしないよ。オフェリアに、君たちを助けるって約束しているんだ」
「オフェリアはどこにいる?」
ジルカが低い声で僕に問う。
「先に麓の村に知らせに行った。心配しなくても無事だよ」
地震が起こる前に麓まで辿り着いているだろう。
「いいだろう。ラデク。そいつが逃げないように、しっかり見張っておけ」
ジルカは息子にそう命じると、背を向けて戻っていく。すぐに他の兵士に倉庫や井戸を確認に行かせていた。水と食料がなければ、村に留まるわけにはいかなくなる。女性や子供たちだけでも、麓に避難させなければならない。
「そなたとは、後でゆっくり話をせねばなるまいな。だが、その前に……」
オフェリアの祖父は、「村を助けてくれたこと、感謝する」と丁寧に頭を下げた。
「感謝なら、オフェリアに。僕は彼女の願いを聞いただけです」
「そうか。孫娘にも詫びねばならんな」
フベルト老人は、そう言って首を振って溜息を吐いていた。
「ええ、そうしてください」




