山の中
勇ましく駆けつけた騎士の如き勢いで、ロバは見張りのいる集落の門を突破する。
のろくさいロバかと思ったら、なかなかの忠義者じゃないか!
僕らは山の奥へと逃げ込み追跡を撒く。かなり逃げ回っていただろう。
小川沿いに進んでいくと滝が見えてきて、疲れたように歩くロバの背中から降りた。
「こいつに助けられるとは予想外だった」
僕はポンポンと、労うようにロバの背中を叩く。
「ですから、言ったではありませんか。この子は賢い子です」
オフェリアは嬉しそうに言って、ギュッとロバの首に抱きついた。
ロバは得意げに鼻を鳴らし、岩場で水を飲み始める。
「オフェリアが無事で良かった。でも、まさか自力で脱出しようとしているとは思わなかったよ。宙づりになっている君を見た時には、心臓が止まるかと思った」
僕はそう言って彼女に手を伸ばす。抱擁しようとした腕を引っ込めたのは、あまり清潔じゃない事に気付いたからだ。なにせ、三日も牢に閉じ込められっぱなしだった。
だけど、オフェリアの方からギュッと抱きついてくる。
結った髪はすっかり解けていて、髪飾りが絡まってしまっていた。
「オフェリア……すごく、嬉しいんだけど……せめて、水に飛び込んでからでいいかな?」
「ダメです……」
オフェリアは僕のシャツに顔を押しつけて小さな声で言う。背中に回った腕にギュッと力がこもっていた。心臓がドキドキしてきて、僕は腕を彼女の背中に回し、遠慮がちに抱擁した。
「君が他の男と結婚させられるって聞いて焦ったよ」
「私はイグナーツ様以外の人となんて、絶対に嫌です。そんな事になったら、死んでいました」
「それは困るな。君に死なれたら、僕だって生きていけない」
艶々のオフェリアの黒髪をそっと撫でてから、彼女の両肩を押して少し離す。
僕を見上げるオフェリアの瞳が潤んでいて、目の縁から滴がこぼれそうになっていた。
「君がこんなに勇敢で無謀だとは……心配で少しも目が離せない」
「ものすごく、腹が立ったんです。イグナーツ様と結婚していると何度も言ったのに、無理やり他の人となんか! もう二度と、村には戻りたくありません。お祖父様も叔父様も、私の親族ではありません」
憤る顔すらも愛おしくて、僕は赤くそまった彼女の頬にそっと撫でた。
顔を少しだけ傾けて口づけしようとした僕は、「やっぱり、先に水に飛び込もう」と思い留まる。
あまり綺麗じゃないんだから。彼女を汚したくない。
そんな僕を見て、オフェリアは笑いを堪えていた。
◇◇◇
川は流れが速く、水も冷たかった。頭まで水に浸かって洗い、ずぶ濡れのまま岩場に上がる。脱いだシャツもしっかり洗っておいた。半裸の状態なのは気まずいけれど、僕らは一応夫婦だ。気にしているような場合でもない。ようやくさっぱりしたところでオフェリアの元に戻ると、彼女は焚き火の側にしゃがんでいた。
「イグナーツ様、火を起こしておきましたよ!」
オフェリアがにこやかに言って手を振る。なんとも、たくましい奥様だ。
側に行くと、燃えているのは彼女が羽織っていた美しい婚礼の衣装だ。オフェリアはその下に着ていた白い衣と、薄手のスカートという格好になっている。前で襟を合わせ腰帯で結ぶような形の衣服が、ヴァーナ族の伝統衣装なのだろう。
「オフェリア、その上着……燃やしちゃったの!?」
「はい! 他の人との結婚のために用意された衣装なんていりませんから」
オフェリアは笑顔で、灰になる衣装を木の棒でつついている。さっさと燃えろと言わんばかりだ。
婚礼のために用意された衣装だから、上等な織物で作られていたのだろう。袖や襟には手の込んだ刺繍もしてあった。焼け焦げた衣の切れ端が風に散る。
「……そうだね。ちょうど、燃やすものがあって良かったよ…………」
僕は差し障りのないように答えておいた。
平たい岩に腰を掛け、火に当たりながら濡れたシャツを乾かす。
日が落ちかけているから空が暗い。風も強くなってきている。
ロバはその辺りの草を食みながら、のんびりと休んでいた。
「食料をどこかから調達してこないとな」
後で魚でも釣るか。生憎と釣りはあまり得意じゃないんだけど。
僕が脱いだシャツを火の前で広げていると、オフェリアがハンカチに包んだものを出してきた。
「少しですけど、お菓子を隠して持ってきたんです」
中には花の形の焼き菓子が入っていた。婚礼用の菓子だろう。
「いつの間に」
「衣の袖に忍ばせておいたんです。役に立ちましたね」
「さすがだよ。オフェリア! でも、それは君が食べて。僕はまだ大丈夫……」
「私よりもイグナーツ様の方が食べていなかったでしょう?」
オフェリアがお菓子を摘まんで、ずいっと寄ってくる。ジッと見つめられると拒む事ができず、思わず口を開けた。オフェリアがお菓子を僕の口に入れる。
サクッとしたパイのような皮で、中には甘いジャムが入っている。柑橘の爽やかな味がした。
「…………美味しいな」
咀嚼して飲み込んだ僕は、そう感想を漏らす。
オフェリアも一つ摘まんで、自分の口に運んでいた。
「あっ、本当……美味しい。もっとたくさん、持ってくれば良かったです」
これをあの豪華な衣装の袖に隠していたとは。
朝から逃げ出す気満々で、準備していたのだろうか。
つい、おかしくて笑ってしまった。
「どうしたんです?」
「君より僕の方が役に立っていないと思ってね」
「そんな事はありません。イグナーツ様は私を助けに来て下さいましたもの。どうやって抜け出したんです?」
「君の従兄弟を人質に取ったんだ。彼には悪い事をしちゃったな……親切にしてくれたのに」
「叔父様の息子ですか?」
「君は会った事なかったのか。牢屋に食事を運んできてくれたんだよ。なかなか美味しかった。ああ、そうだ。レシピを聞き忘れたな」
それが残念で、僕は肩を竦める。
「牢屋……」
オフェリアはギュッと膝の上で手を握る。
火を見つめる彼女の表情が険しくなっていた。
「閉じ込められたと言っても、乱暴な事はされていないよ……本当に」
「やっぱり、村に火を放つべきでした」
オフェリアは真顔で物騒な事を呟く。
僕の奥様は、怒らせてはいけない人だった…………。
「とにかく、無事で何よりだった。もう、村のことなんて忘れて、さっさと山を下りる事を考えよう。今夜はここで野宿するしかなさそうだけどね。天気も怪しくなってきたし」
空に雷鳴が響き始めている。
「雨が降りそうです……雨宿りができる場所があるといいけれど」
オフェリアも空を見上げて不安そうな顔をする。
「服が乾いたら移動しよう。どこか洞窟でもあるかも」




