逃亡
オフェリアを他の男に嫁がせるだって?
ふざけた事を。許すわけがないだろう。
ラデク少年が手に持っていた食事の器とカップが落ち、洞窟内に音が響く。
木の柵の隙間から腕を伸ばして彼の首に回し、強く引き寄せて小型のナイフの刃を喉に当てた。荷物は取り上げられたけれど、靴に忍ばせていた隠しナイフの存在までは気がつかなかったようだ。
「お前……っ!!」
ラデク少年は顔を強ばらせて、声を絞り出す。
僕の腕を引き離そうともがいているけれど、そう簡単にはいかない。
入り口を見張っていた兵士が、異変に気付いて走ってきた。
「ラデク様!」
兵士は焦ったように声を上げ、弓を構えようとする。
「動くなよ。そのまま武器を下ろせ。じゃなきゃ、この少年は無事じゃすまない」
僕は小型のナイフをラデクの喉に当てたまま、低い声で命じた。
「下ろすな。こいつは俺をやる度胸なんてない!! はったりだ……」
強がるように笑ったラデクは、己の皮膚に食い込む鋭利な刃の感触に顔を強張らせる。
「オフェリアが危ないって時に、子供一人殺すことを僕が躊躇うと思うか?」
僕はあえて冷たい視線を彼に向ける。
刃の先から血がこぼれ落ちている。それを見た兵士たちは「やめろ、武器は下ろす」と、弓や矢を言われた通り地面に下ろす。腰の剣も外していた。
「こんな事をしても手遅れだ。お前は父様に殺されるに決まっている!!」
「威勢がいいのはいいけれど、少し黙っていた方がいい。僕がうっかり手を滑らせるかもしれないぞ」
「卑怯者め……帝国の奴らは、度胸がないのか!」
悔しそうに喚くラデクを無視して、僕は兵士たちに牢の扉を開けるように命令した。
ラデクは、「やめろ、従うな!」と叫んでいたけれど、兵士たちは急いで牢の扉を開けようとする。僕の本気が伝わったのだろう。
当然だ。オフェリアを助けに行くためなら、僕は卑怯にも残忍にもなれる。今さら、自分が少しも汚れていない聖人だとは思ってはいない。
善人さなんて、その気になればいくらでも棄てられる。
ラデクは大事な人質だ。すぐに逃げられては困る。
兵士に縄を持ってこさせ、それを渡して洞窟から出るように命令する。
すぐに人を呼びに向かったのだろう。
洞窟の中に残るのは、僕とラデク少年だけだ。
応援を呼ばれる前に、ここを出たい。
「地獄に落ちろ!!」
牢から出た僕は、ラデクを縛る縄を解いてから、改めて両腕を後ろできつく縛っておいた。その縄を乱暴に引っ張りながら洞窟を出る。
「本当に残念だよ。君の事は気に入っていたんだ」
できるなら、傷つけたくもなかったし、人質にする事もしたくなかった。
だが、君が族長の息子だった事を幸運に思っているよ。君がただの村の子供であったなら、たぶん交渉材料になんて使えなかっただろうから。
だから、これは、君に僕の監視と世話を頼んだ、族長である君の父親の判断ミスだ。
悪く思わないでくれ。
◇◇◇
美しく織り上げられた婚礼衣装を着せられたオフェリアは、正座したまま袖に隠れた手を握り締める。周りには女性たちがいて、オフェリアの顔に化粧を施し、髪を結う。外には護衛の兵が待機しているのか、男の人の声が聞こえていた。ここは館の二階の部屋だ。窓の外には青空が見ていて風が吹き込む。
唇を引き結んでいると、「そのように噛んでは血が滲みますよ」と女性が困った顔で言う。彼女が筆で紅を塗ろうとするので、オフェリアは拒むように顔を背けた。その顔がグイッと戻される。
不愉快だった。母の生まれ育ったこの村を、一度見てみたかっただけ。
マルク王国では居場所が少しもなかった。子供の頃、母から故郷の話を聞かされて、もしかしたらそこでなら、自分も蔑まれる事なく受け入れてもらえるのではないかと、淡い期待と希望を抱いていた。
それが忘れられなかったのだ。
自分が母の親族に温かく迎えてもらえる姿を想像していたから。
それが幻滅と失望に変わるとは。
(私を受け入れてくれたのは、帝国の方々だけしたね………)
怖ろしい敵国だとばかり思っていた帝国だけが、温かく自分を迎えてくれて庇護してくれたとは。
早く帰りたい。イグナーツと共に。
あの国が、自分にとって帰るべき唯一の国なのだ。
婚礼の準備を行う人達の足音と声を聞きながら、さりげなく側に置かれた化粧道具に目をやる。白粉の入った陶器の小瓶が目に入り、気付かれないようにそっと手を伸ばした。
「おい、大変だ! あのよそ者が逃げ出したそうだ」
外でそんな声がしてハッとする。
「ラデク様が人質に取られるらしい」
「婚礼はもう始まるんだぞ!」
庭に視線を移すと、騒がしい声が聞こえてくる。
女性たちも手を止めて、思わず窓に駆け寄っていた。
オフェリアは人が離れた隙を狙って、小瓶を力一杯床に叩きつける。陶器が砕けた音に驚いて、女性たちが振り返る。
オフェリアは尖った破片をつかみ、自分の首に押しつけた。
息を呑んだ女性たちが、「姫様!」と声を震わせる。
「動かないで」
「何をなさるおつもりです……おやめくださいませ!!」
「誰か姫様を止めてください!!」
女性たちの騒ぐ声で、「何事だ!」と兵士が扉を開いた。
オフェリアはその瞬間、裾をつかんで走り出した。
兵士に強く体当たりして、廊下に飛び出す。
「姫様!!」
つかもうとしてくる兵士の手に向かって、破片をナイフのように振る。
兵士が怯んだように後ろに下がった。手の平から血が滴り落ちている。
別の兵士が、「大人しくしろ!」と怒鳴りながらつかみかかってきた。その男を両手で突き飛ばして身を翻す。
騒ぎが大きくなり、「姫様が逃げ出したぞ!」と誰かが叫ぶのが聞こえた。
兵士達がバタバタと駆け寄ってくる。
外でも騒ぎが大きくなっているようだ。廊下の向こうからも男たちが走ってくる。オフェリアは手近な部屋に飛び込み、仰天している女性たちを無視して窓に駆け寄った。窓枠を乗り越えて、外に張り出した縁側に出る。
部屋に飛び込んできた兵士たちが、「逃がすな!!」と叫んだ。
欄干の下を見ればかなりの高さだ。それでも、躊躇っている時間はない。
オフェリアは腰の紐を急いで解いて欄干に括り付ける。
縁側に出てこようとする兵士たちが見え、焦りで手が震えた。
「姫様、こちらにお戻りください。逃げても無駄です!!」
「それ以上、こちらに来ないで!!」
オフェリアは叫んで、ふらつきながら欄干の上に立つ。
兵士達が困惑した様子で顔を見合わせていた。
紐をしっかりとつかんで飛び下りれば、窓に駆け寄ってきた女性たちが悲鳴を上げる。
手首に絡めた紐が重さに引っ張られ、オフェリアの体が大きく揺れた。
薄い布が千切れそうだ。
まだかなりの高さがあるため、落ちれば無事ではすまないだろう。
下から騒ぎの声が聞こえる。
オフェリアは歯を食いしばり、両手で布をつかんだ。
腕に力が入らず、少しずつ体がずり落ちる。
布に擦れた手首が赤くなっていた。
「オフェリア!!」
そう呼ぶ声が聞こえて、ギュッと瞑っていた目を開く。下を見ればイグナーツが駆け寄ってくる。その姿を見た途端に、手から力が抜けた。
布を離してしまったオフェリアの体が落下する。
不思議と不安がなかったのは、信じていたからだろう。
イグナーツが間一髪、その体を両腕で受け止める。
ふらついている彼に、オフェリアは思わず抱き付く。
泣くのを堪えようと思うのに、無事な姿を見れば我慢できなかった。
「イグナーツ様……イグナーツ様!」
何度も名前を呼んで嗚咽を漏らす。
「ここにいるよ。大丈夫……」
イグナーツはそう言ってオフェリアの頭を撫で、額に唇を軽く押しつける。
「何をボサッとしている。早くそいつを捕らえろ!! 姫様を救い出せ!!」
老齢な兵士の男が我に返ったように大声を上げた。周りにいた兵士たちが、慌てて弓に矢をつがえる。
「馬鹿者、姫様に当たるだろうが!!」
怒鳴られた若い兵士たちは、急いで剣に持ち直していた。
その時、猛然と一頭のロバが突進してきた。綱をつかんだ男が、悲鳴を上げて引きずられている。男の体が地面に投げ出されて綱が手から離れると、ロバは勇ましく兵士に体当たりして腕に噛みつく。
「ロバ!」
「ロバさん!」
イグナーツとオフェリアが同時に叫んだ。
イグナーツはオフェリアを抱えて走り出し、ロバの背に跳び乗った。
二人を背に乗せたロバは、暴れ馬さながらに兵士たちを威嚇して蹴散らしながら駆け出した。
◇◇◇
「何事だ!!」
館から出てきた族長のジルカが、ぼう然としている息子のラデクを見て鋭い声で尋ねた。
「父様、申し訳ありません……俺が…………」
「見張りの役目も果たせないとは情けない………お前は兵を連れて、あの者を捕らえろ。生かしておく必要はない。オフェリアは絶対に連れ戻せ。それができなければ、今後は私の息子を名乗るな!!」
「もう、放っておけばよいではないですか……あの者たちはすでに結婚しているのでしょう? なぜ、わざわざ他の人と結婚を」
言い終わる前に強く頬を殴られて、ラデクはよろめくように後ろに下がる。唇の端に滲んだ血を手の甲で拭い、父親を睨み返した。
「厄介事を持ち込むよそ者などに、かまう必要なんてないと言っているんだ!」
「もういい。お前のような無能が跡継ぎとは情けない……部屋にでも閉じこもって邪魔をするな。俺が出る!」
ジルカはその場にいる兵士を集め、悄然と項垂れた息子には目もくれずに去っていった。




