辺境の村
商人たちは負傷者がいるため、治療のために街に滞在し、その後は王都に引き返す事に決めたようだ。ここまで順調に来られたのも彼らのおかげだ。せめて、荷の損失くらいは補填したいと思い、僕は商人にゲーラー卿宛の手紙を託しておいた。
カッセリアン城に寄って渡してくれれば、失った荷物と馬車の代金くらいは払っておいてくれるだろう。もちろん、公爵家の支払いでだ。僕らをここまで連れてきてくれた手間賃と思えば安いものである。
僕とオフェリアは、街の宿で一泊することにした。今、必要なのは安心して休息できる場所と、空腹を満たしてくれる温かい料理。なにより、風呂と着替えだ。宿の主人が顔をしかめて代金の先払いを要求するくらいに、僕らはひどい格好だったんだから。
街には古着屋くらいしかなかったが、今の格好に比べたら何を着ていてもマシに見えるだろう。オフェリアの服と自分の服を調達し、宿の向かいにある酒場で持ち帰りできる簡単な食事を作ってもらう。
宿に戻って階段を上がった僕は、部屋のドアをノックした。
「オフェリア、遅くなってごめん。入ってもいいかな?」
僕が声をかけると、中から「きゃあっ!」と悲鳴が上がる。まさか、僕がいない間に賊でも入ったんじゃないだろうか。
焦りを覚え、蹴破るような勢いでドアを開いた。
「オフェリア!!」
叫んで部屋に突入した僕は、水浸しの床に目をやる。大きな盥にはたっぷり湯が入っていて、湯気が立っていた。側に置かれた椅子の背には、汚れた服がかけられている。けれど、肝心なオフェリアの姿が見当たらない。
驚いて部屋を見回した僕は、ベッドの上掛けが盛り上がっている事に気付いた。
「……オフェリア? そこにいる?」
「ごめんなさい、イグナーツ様。今、とても見せられる格好ではなくて!!」
上掛けの中から、焦ったようなオフェリアの声が返ってくる。床を見れば、濡れた足跡がついていた。この状況はどう考えても入浴中だったらしい。出がけに、宿の主人に風呂を頼んでいたんだった。
やってしまった…………。
頭を抱えたいが、片手には服を抱えているし、もう片方の手には食事のトレイを持っている。
「こっちこそ、ごめん!! すぐに出て行くよ。食事と服は置いていくから」
僕は小さな木のテーブルにトレイを置き、服は椅子に置いておく。
バタバタと部屋を出て、急いでドアを閉めた。
両手で顔を覆うと、深く息を吐きながらしゃがむ。
結婚式は終えたというのに、いまだにこの調子なんだから。
僕は廊下の天井を見上げ、コンッとドアにもたれる。ここまでの道中、ずっと部屋も別にしていた。
安宿のベッドが初めての思い出なんて、嫌じゃないか…………。
それに、今回の旅はオフェリアに楽しんでもらうためのものだ。
まだ目的のヴァーナ族の村は遠い。気まずくなったり、居心地が悪くなったりするのは嫌だ。
カールが知ったら、「いつから、そんな小心者になったんだ?」と笑うだろう。嫌われたくないと思えば、臆病にもなるさ。
溜息を吐いて立ち上がろうとした時、ドアが開く。体を預けていた僕は、支えを失ってバタッと仰向きに倒れてしまった。見上げると、オフェリアが口を手で押さえてびっくりしている。白い寝間着の上にショールを羽織っただけの格好で、髪はまだしっとり濡れていた。
「イグナーツ様! ごめんなさい。大丈夫ですか!?」
彼女は僕の手をつかんで、引っ張ってくれる。よろよろと起き上がった僕は、「はは……」とぎこちなく笑っておいた。なんて、格好悪いんだ。
「お部屋にイグナーツ様の分の食事も置いてあったので、お呼びしようと……ごめんなさい。ドアの前にいらっしゃるなんて思わなかったんです!」
「いや、こんなところにいた僕が悪いんだ。食事は先に食べてて。僕はまだ着替えてなくて、あんまり綺麗とは言いがたいからね」
あたふたして隣の部屋に戻ろうとした僕を、オフェリアが「イグナーツ様!」と呼び止める。彼女は「あの……」と、言葉を探すように言い淀んでいた。
お湯に浸かって温かくなった彼女の肌は、血色がいい。僕はドキッとして、すぐに視線を逸らした。
「ありがとうございます」
オフェリアが警戒心がすっかり緩んだ微笑みを浮かべる。
僕は思わず、深く息を吸い込んだ。
邪な気持ちを抱いている自分が、ひどく恥ずかしい!
「食事は後で取りに来るよ。ゆっくり食べていて。あまり、おいしくないかもしれないけど」
「いいえ、一緒に食べたいので待っています」
「そう? じゃあ、すぐに風呂に入って着替えてくるよ」
僕は隣の部屋に足を向ける。
僕の部屋にも風呂が用意されていた。
フラフラと歩み寄り、お湯の中にドボンッと頭を突っ込む。
溺れてしまいたい…………。
すぐに頭を上げて、プハッと息を吐く。
顔や髪からボタボタと滴が垂れていた。
なんだか、苦行僧にでもなったような気がする。
これは僕の忍耐力を試すために神が用意した試練に違いない。
あまりに過酷すぎて、心が折れてしまいそうだ。
いっそのこと…………いいや、ダメに決まっている。
正気に戻れ、僕。欲望に流されるな。
深く息を吐き、濡れている顔を拭って立ち上がった。
オフェリアが空腹で待っているんだ。
バカな事を考えていないで、さっさと風呂に入って着替えよう。
◇◇◇
翌日からは、僕とオフェリアだけの旅だ。
商人から譲ってもらった馬に乗り、山の麓の村を目指す。
雨も昨晩のうちに上がったし、山賊や野犬や狼に出くわす事もなかった。
けれど、山が近くなるに連れて霧が濃くなる。
「なんだか……薄気味悪い村だな…………」
木の柵で囲まれた村の入り口が見えてくる。霧に包まれているから、視界が悪い。家の屋根が見えるけれどひどくボロくて、本当に人が住んでいるのかと疑いたくなるくらいだ。
羊や犬の鳴き声が、霧の向こうから微かに聞こえる。
「今夜は、ここに泊めてもらうしかなさそうです」
「そうだね。霧の中で進めば迷いそうだ……」
街の宿で書いてもらった手書きの地図によれば、この村から先は山道となっているようだ。住人は、ヴァーナ族の血が入っている人達が多いらしい。
「取りあえず……行ってみよう」
僕はゆっくり馬を進める。
鐘がぶら下がっている木の門を通り抜け、馬から降りた。
家は建っていて、小さな畑も作られている。
「人がいないな…………廃村って事はないよね?」
「羊と犬の鳴き声は聞こえていましたよ」
「少なくとも、羊と犬はいるってことか。希望が見えてきたよ」
馬を連れて歩きながら冗談めかして言うと、オフェリアが笑う。
「……怖くない?」
「私が怖いのは……私の周りから誰もいなくなってしまう事なんです。今はイグナーツ様が一緒ですから、何も怖くありません」
オフェリアは僕を見上げて微笑む。
周りから誰もいなくなってしまう……か。
ずっとそんな不安を抱えながら生きてきたんだろうか。
僕は彼女の手を取って、強く握り締める。
「約束するよ。オフェリアを一人になんてしないって」
僕がそう言うと、彼女は繋いだ手を握り返してきた。
見失いそうなほど濃い霧の中で、触れ合う手の体温が安心させてくれる。
僕は近くの家に行き、扉を叩いてみた。
「すみません、旅の者ですがどなたかいらっしゃいませんか?」
丁寧に尋ねると、扉がわずかに開く。隙間から覗くように顔を出したのは、陰気な顔をした老婆だった。
「……旅の者? この村に何の用だね。ここには何もありゃしないよ」
「旅の途中で、霧が濃いため立ち寄ったんです。日が暮れそうですし、泊めているところがないかと探しています」
「…………どこに行くつもりなんだ?」
「ヴァーナ族の村です。私の母の故郷なんです」
オフェリアが僕の代わりに口を開く。老婆はオフェリアをジッと見てから、杖をついて外に出てきた。何も言わずに歩き出すから、僕らは戸惑って顔を見合わせる。
「何をしているんだい。ついてきな」
振り返った老婆に言われて、慌てて後を追った。
井戸のある村の広場を通り抜けると、古びた木の教会が建っている。その扉をゴンゴンと杖で叩いた老婆が、「司祭、いるんだろう! 客人だよ」と大きな声を上げる。
ギッと扉が開いて、酒臭そうな中年の男が姿を見せる。
まとっているのは司祭の服だけど、随分くたびれていて汚れていた。
「うるせーな。こんな寂れた村に来るのは徴税役人くらいだろうか」
酒瓶を握り締めた男は不機嫌な顔をして言ってから、僕らに視線を移す。
「なんだ、夜逃げか? 悪いが、訳ありな結婚式はやってねーんだ」
「寝ぼけてんじゃないよ。旅をしているんだとさ。ヴァーナ族の村に向かうそうだ。じゃあ、あたしゃ戻るよ。後の事はこの腐れ司祭に頼みな」
「あの、ありがとうございました!」
オフェリアがお礼を言って頭を下げると、背を向けた老婆は杖を上げて軽く振っていた。
「チッ、面倒事を押しつけやがって。あのババア……入んな。言っておくが、食い物はねーぞ。水なら、そこの広場の井戸で好きなだけ汲んで飲め。あと、空いているのは豚小屋だけだ。屋根があるだけありがたいと思いな」
無愛想な口調で言うと、司祭は教会の中に戻る。不安しかないんだが……。
僕とオフェリアも、後について礼拝堂に足を踏み入れた。中は暗くてお香の匂いが立ちこめている。三角屋根の礼拝堂で、正面の祭壇には大きな古いタペストリーが飾られていた。色が褪せているけれど刺繍が細かく立派なもので、つい目がひかれる。
「すごいな……」
僕は思わずタペストリーを見上げて呟いた。
祭壇にタペストリーを飾っている教会はあまりない。ステンドグラスや壁画は見かけるけれど、聖人や聖女の伝説をモチーフとしたものが多い。
この教会のタペストリーに描かれているのは、巨大な鷲と太陽だ。
「ヴァーナ族の伝承なのかもしれません。鷲は神の使いと言われていたと、母から聞いた事があります」
オフェリアもタペストリーをじっくり眺めている。
「よく知っているな。あんたはヴァーナ族の出身か?」
酔っ払い司祭が笑って尋ねた。彼女の黒髪はマルク王国では珍しい。そう言えば、司祭も黒髪だ。
「母がそうなのです」
「あんたの言う通りさ。この村じゃ、ヴァーナ族の信仰も受け継がれている。こいつも、信者たちが寄贈したもんさ」
教会では異教とされているけれど、辺境の村では土着の信仰は色濃く残っているものだ。両方大事にしている人達もいるのだろう。
「そういえば、帝国の紋章も鷹だったな」
「あっ、そうですね」
オフェリアも思い出したようだ。司祭は「帝国?」と、僕の方を見る。
「ああ、僕は……王国民じゃなくて、帝国から来たんです」
正直に答えると、司祭は目を丸くしてから「がははっ!」と笑った。
急に態度が砕けて、遠慮なく肩を組んでくる。
「そうかい、そうかい。それは悪かったな! 帝国の客人なら、歓迎しないわけにはいかねぇ」
「えっ、どうでしてです?」
「そりゃ、マルク王国の腰抜け兵どもを蹴散らしてくれたからさ! まったく、愉快な事極まりないぜ。敵の敵はお友達ってやつだ!」
そう言いながら、司祭はバンバンと僕の背中を叩く。
「はぁ……」
辺境ではどうやら王国は嫌われているらしい。ヴァーナ族の母を持つオフェリアも、半分は王家の血が入っている。複雑そうな表情で微笑んでいた。
おかげで寝る場所は豚小屋じゃなく、整った寝室を用意してもらえた。いつの間にか噂が広まっていたらしく、近隣の村人が温かいスープとパン、それにカリカリに焼いた厚切りのベーコンまで持ってきてくれた。これはかなりのご馳走だ。
随分な待遇の変わりようにびっくりする。道を歩いていた人なんていなかったのに、どうやって噂が広まったんだか。それだけマルク王国の領主や王家に対して悪感情を抱いているのだろう。かわりに帝国に対して好意的というのも、なんとも妙な気分になるものだけど。酔っ払い司祭の言う通り、敵の敵はお友達ってやつなのだろう。
翌朝には、見知らぬ村人がやってきて、朝食を提供してくれた。しかも、僕らが山に向かうと聞くと、チーズとパン、干し肉まで用意してくれた。感謝の代わりに酔っ払い司祭に金貨をいくらか渡しておいたから、村人にお酒くらいは振る舞ってくれるだろう。自分ばかりが飲んでいないで。
強面のおじさんがやってきて、「山道なら、こいつを連れていくほうがいい」と僕らにロバを預けていく。だから、かわりに馬は置いていく事にした。帰りにまた立ち寄って、ロバを返す時に馬を受け取ろう。
村を出る時には霧も晴れていて、村人と子供達が総出で見送ってくれる。
陰気な村だとか思ってすみませんでした。
ものすごく、親切で心の温かい村の人たちじゃないか!
僕らは手を振り、ロバを引き連れて村を立つ。
「変わった村だったけど、いい村だったな」
「夕食も朝食もとてもおいしかったです。たくさん、食べてしまいました」
少し恥ずかしそうにしながら、オフェリアが言う。
「ロバに乗るかい?」
「いいえっ! ロバさんが大変なので」
「山道は大変かもしれないよ。足が痛くなったら、いつでも言って」
ロバを貸してくれたおじさんが、「道はロバに訊け」と言ってたな。
この鼻をムズムズさせて鈍臭と歩いているロバが、ヴァーナ族の村までの道を知っているということかな?
村までよく往復しているのかもしれない。
青く澄んだ空を見れば、鷹が太陽に向かって飛んでいた。
あのタペストリーの絵のようだ。
そういえば、帝国の紋章にも太陽が入っている。
妙なところで共通点があるものだ。




