小舟
オフェリアに、避けられている気がする…………。
僕は机に頬杖をついて、深刻な顔で考え込んでいた。今朝、廊下で会った時、短い挨拶をかわしたけれど、それ以来姿を見ていない。イヴァンや騎士見習いの子たちと剣術の稽古をしていた時も、会いに来てくれなかった。
もちろん、オフェリアもやる事は色々あるだろうし、用事がなければ会いに来ないのも当然だ。でも、少し前は顔を見れば、そばにやってきて話しかけてくれたじゃないか!
「やっぱり……昨日の事が原因かな?」
僕は口を片手で押さえて呟く。向かいに座って熱心に計算問題を解いているイヴァンが顔を上げた。
「何が原因なんです?」
「それが分からないから、頭を抱えているんだよ……!」
僕が髪をクシャクシャにかき回すのを見て、イヴァンは目を丸くしていた。
「お兄様にも分からない事があるんですね!」
「むしろ分からない事だらけだよ……それより、どう? 問題は解けた?」
イヴァンの算数の勉強を見ている最中だ。イヴァンは「はい!」と、黒板を僕に見せる。間違っているのは一問だけだ。
「ここの問題、もう一回やってみて」
僕が黒板を返して問題を指差すと、イヴァンは自分でも間違っている事が分かったのか計算し直していた。のみ込みが早くて、すぐに理解してくれるから教える僕としても楽だ。イヴァンは「できました!」と、黒板を見せてくる。
僕はチョークを取り、大きく丸をつけた。
「うん、合格だ。じゃあ、次はもうちょっと難しい問題をやってみようか」
「はい!」
イヴァンは嬉しそうにニコニコしている。
僕は黒板を綺麗にしてから計算問題を書いていく。
三桁のかけ算と割り算問題だ。
「それで、お兄様は何を悩んでいたんですか?」
両手で頬杖をついているイヴァンが、興味深そうに尋ねてくる。
つい手に力が入って、チョークがポキッと折れてしまった。
「…………うーん…………オフェリアの顔を見ないなぁ……と、思って?」
「お姉様とケンカをしちゃったんですか!?」
驚いたように言われて、僕は「違う、違う!」と慌てる。壁際に立っている護衛のフェリックスが、何も聞いていませんとばかりにスッと横を向いた。
「ケンカというか……ちょっと気まずいというか……」
僕は溜息を吐いて、黒板に散らばったチョークの粉と破片を払う。
「お姉様を怒らせちゃったんですか……?」
イヴァンは身を乗り出し、声を潜めた。
「そう……かも? どうしたらいいかな?」
ここは、オフェリアの事をよく知っている弟の知恵を借りるしかない。イヴァンは腕を組み、「うーん」と真剣な顔で悩んでくれる。うん、すごくいい子だ。
「お菓子とか、お花をあげるのはどうでしょう?」
「贈り物作戦か。それはいいかもしれないな。それで、機嫌を直してくれるかな?」
「うーん……僕ならお出かけに連れていきます!」
「お出かけ?」
「だって、ずっとお城に閉じこもっているから、外に出られないでしょう? お姉様もきっと、それで機嫌が悪いんだと思うんです。僕は剣術の稽古で思いっきり体を動かせるけど、お姉様はお部屋に閉じこもってばかりだもの。僕もお兄様がやってくる前は、ずっとそうだったから……気分がすごく落ち込んでいたんです。お姉様もそうじゃないかな?」
確かに、城に閉じこもっていて庭に出る事も禁止されているのだ。気分が鬱々とするのも当然か。もちろん、オフェリアが避ける理由は別にあるのだろうけれど、外出して気分を変える事ができれば、少しは喜んでくれるかもしれない。
僕は計算問題を書いた黒板をイヴァンに渡して、「ふむ」と考え込む。
イヴァンはさっそく黒板に向かって問題を解いていた。
「外出といっても、どこに行けばいんだろうな」
城の周りは崖と林だ。鬱蒼としているから、ピクニックをして楽しむような雰囲気でもない。
「それなら、僕、いい事を聞きましたよ?」
「いい事?」
僕が耳を傾けると、イヴァンが机に身を乗り出す。
「この近くの街でお祭りが行われるそうなんです……」
「お祭り?」
「騎士見習いの子が教えてくれたんです……みんなも、こっそり抜け出してお祭り見物に出かけるそうですよ? 好きな女の子と一緒に小舟に乗って川を渡ると、水の精霊が祝福をくれるんだそうです。だから、みんなは一緒に小舟に乗る女の子を探すみたいです。お姉様もきっと、喜ぶと思いませんか?」
僕に顔を寄せて、イヴァンはニコーッと微笑む。
小舟か。素晴らしくいい考えじゃないか。僕はチラッとイヴァンを見る。
「……お祭り見物に行きたいのは、君だろう? イヴァン」
「だって、騎士見習いのみんながすごく楽しそうに話していたんです。小さなお祭りだけど、たくさん人が集まって、露店も出るからって。旅の芸人もやってくるそうです。僕……お祭り見物をした事がないから、一度だけでもいいから見てみたいんです!」
イヴァンは真剣な顔をして訴えてくる。王都にいた頃も、離れに閉じ込められていて外出など許されなかっただろう。この城に移ってきてからも同じだ。
オフェリアも同じだったはずだ。自由に街を歩く事なんてなかったと話していたから。
「分かったよ。イヴァンはもっと見聞を広めた方がよさそうだからね」
「わあっ! やった、やった!! お兄様、ありがとうございます!!」
イヴァンはよっぽど嬉しかったのか、立ち上がって僕に駆け寄り、勢いよく抱きついてきた。思わず椅子ごとひっくり返りそうになる。
「そのかわり、無茶な事や危ない事はしない事。僕らにくっついていて、離れないと約束できるかい?」
「もちろん、約束します! 行儀よくしています。それに……お兄様とお姉様のお邪魔にならないように気をつけますね」
小声で囁くイヴァンの頭を、僕は思いっきり撫で回した。黒いサラサラの髪がもつれてしまっている。
「まったく、君がそんなに悪知恵が働くとは!」
「僕もちょっとは役に立つでしょう?」
笑っているイヴァンを抱えて膝に乗せる。そして、テーブルの上の皿に手を伸ばしてクッキーをつまんだ。イヴァンと半分こしてクッキーを食べる。
「ああ、すごく役に立つよ。問題は……どうやって、オフェリアを誘うかだな」
オフェリアの様子だと、一緒に行ってくれないかもしれない。
僕は小さく溜息を吐いた。
「それなら、僕が誘ってみましょうか? 僕がお願いすれば、聞いてくれると思うんです」
「…………頼んでくれる?」
「もちろん! そのかわり……お菓子をたくさん買ってくださいね?」
「交渉成立だ」
僕はイヴァンとパチンと片手を合わせた。
相変わらず、壁際に立っているフェリックスは、自分は何も聞いていないし、何も見ていませんとばかりに、あさってを見ていた。
◇◇◇
お祭りが行われるのは夕刻からだ。街まで移動する馬車の中で、僕もオフェリアも会話がなく黙っていた。イヴァンの策略……いや、協力のおかげでオフェリアを祭り見物に誘う事には成功したけれど、気まずい――。
やっぱり、避けられているのか、オフェリアは目を合わせてくれないし、落ち着かない様子でソワソワしている。唯一の救いはイヴァンがすっかり興奮して、さっきから窓の外をしきりに見ていることだろうか。
「お兄様、お姉様。街が見えてきましたよ!」
「ああ、そのようだ。ちゃんと座ってないと危ないぞ。揺れるんだから」
立ち上がっているイヴァンは、言われた通りに僕の隣に行儀良く座る。オフェリアの隣には、いつものようにレーネが座っている。護衛にはフェリックスと、ジャックを連れてきた。二人は馬での移動だ。あまり大勢連れてきては、目立つだろう。
小さな田舎街だが、近隣の村からも人が集まっているからか賑やかだ。通りには露店が出ていて、菓子や食べ物を売っている。馬車から降りると、イヴァンは「わぁ!」と目を輝かせていた。
「イヴァン、迷子になるので一緒にいないとダメですからね」
「お姉様、見てください。飴を売っていますよ!」
姉の手を引っ張りながら、イヴァンはピョンピョンと跳びはねる。広場の方からは音楽が聞こえてくる。猿を連れた芸人が、太鼓を叩きながら芸を披露している姿も見られた。
「あっ、お待ちなさい。イヴァン。走っては転んでしまいます!」
慌てて言いながらも、オフェリアはイヴァンに連れられて露店に向かう。フェリックスとレーネがすぐに付き添っていた。さすがにできる護衛と侍女だ。
飴売りの露店の前で、「お兄様!」とイヴァンが大きく手を振る。
「呼ばれてますよ、旦那様」
「ああ、今日の僕は歩くお財布に徹するつもりだからね」
ジャックを連れて、僕はのんびりした足取りで歩み寄る。鉄板の上で棒状に伸ばした飴を、男が包丁で小さく切っている。イヴァンはすっかり目が釘付けになっていて、僕がやってくると服をクイクイと引っ張った。
「お兄様、これがいいです!」
「イヴァン、イグナーツ様にお願いしてはダメです。私が……」
「いいんだよ。約束だからね」
僕は財布を取り出し、ナッツの入った飴を買う。男は小さな木のスコップで飴をすくうと包みに入れてくれた。オフェリアが「約束ですか?」と首を傾げる。
「なんでもないんだ。それより、おいしそうだよ。オフェリアも食べてみて!」
僕はごまかすように言って、飴の包みを彼女に渡す。イヴァンとオフェリアは飴を一つずつ取っ口に入れる。オフェリアは瞬きして、口を押さえていた。
「おいしい?」
僕が尋ねると、オフェリアはコクッと頷いた。
「お兄様、ナッツが香ばしくておいしい! お兄様も食べてみてください」
イヴァンは包みから取り出した飴を、背伸びして僕の口に入れようとする。
僕は身をかがめて、その飴をパクッと食べた。
「うん、おいしいね。これなら、もっとたくさん買ってもよかったな」
僕はもう一袋買って、レーネやフェリックス、ジャックにも配る。
飴を頬張りながら歩いていると、イヴァンもオフェリアも目移りしているようで、人とぶつかりそうになっている。よろめいたオフェリアの肩に、思わず腕を回した。少し強く引き寄せたからか、彼女がびっくりしたように顔を上げる。
「あっ、ご……ごめん……」
「いえ……ありがとうございます……」
すぐに手を離したけれど気まずい。
オフェリアはレーネの方にさりげなく寄っている。
やっぱり、避けられている気がする。
触られるのは不快だったのか。それとも警戒されているのか。困ったな。
そんなつもりではないんだと伝えるにはどうしたらいいのか。僕は首を手で押さえながら悩む。
「あっ、イヴァン様!」
「あ、本当だ。イグナーツ様、フィリップ様もご一緒だ!」
通りを歩いていた少年たちが、こっちに気付いて手を振っていた。騎士見習いの子たちだ。
「ちょっと、話してきていいですか!?」
「ああ、いいよ。けど、あまり離れないで」
僕が言うと、イヴァンは嬉しそうにみんなの元に走って行く。やっぱり、同じ歳頃の子たちといるのは楽しいのだろう。イヴァンは騎士見習いの子たちに、買ったものを見せてもらったり、情報を交換し合ったりしていた。そのうちに近くの露天に移動しようとしているから、ジャックに頼んで付き添ってもらう。
イヴァンも騎士見習いの子たちも、ジャックの周りに集まって騒いでいる。どうやら、気前よくジャックがお金を払ってやったのだろう。露店で串焼きの肉をたくさん買っていた。イヴァンはみんなと一緒に、焼き立てのお肉を頬張って笑っている。
そのうち、ジャックと一緒に戻ってきた。
「お兄様、お兄様! みんなが、大道芸人を見に行くというのです。僕も行きたいです!」
お肉のタレを頬につけたまま、イヴァンは目を輝かせる。離れたところでは、見習いの騎士の子達が待っていた。僕はオフェリアと顔を見合わせる。彼女は心配そうな顔になっていたけれど、イヴァンがはしゃぐのも無理はない。
初めてのお祭り見物で、見るもの全てが珍しいだろうから、ハメを外したくなるのも当然だ。それに、経験は大事でもある。
「いいんじゃないか? 騎士見習いの子たちも一緒なんだし。ジャック、ついていってくれる?」
僕が頼むと、ジャックは「お任せください。面倒事に巻き込まれないように注意しておきますよ」と胸を叩く。
「じゃあ、任せたよ。終わったら、この広場に集まろう。あまり、遅くならないようにね」
「はい、もちろんです!!」
イヴァンは嬉しそうに頷いて、見習い騎士たちに駆け戻る。ジャックがしっかり見ていてくれるだろう。「おい、お前ら。俺からあんまり離れるな」と、少年たちに注意していた。「はーい!」と、元気な声が返ってくる。
「イグナーツ様は……やっぱりイヴァンに甘いです」
オフェリアが小さな声で呟く。
「……そうかな? 僕はオフェリアにも甘いよ?」
頬を掻きながらさりげなく言うと、オフェリアがパッと顔を赤くする。
今日は二人に思いっきり楽しんでもらいたくて、連れてきたんだから。
「何が見たい? あっ、オフェリアも、大道芸人を見に行きたかった?」
「いいえ! 私は……こうして街を見ているだけ、十分に楽しいです」
「じゃあ、適当に歩いてみよう」
僕はオフェリアと並んで歩き出す。レーネとフェリックスはすぐ後ろにいる。
街を流れる川の水面が黄金色に輝いていた。
ランタンが先端につけられた小舟が浮かんでいる。川に撒かれた花びらも一緒にゆっくりと流されていた。
小舟に乗っているのは、若い男女が多い。そういえば、小舟に一緒に乗ると、水の精霊の加護が得られるんだっけ。イヴァンから教えてもらった話を思い出した。もしかして、気を遣って大道芸を見に行くなんて言ったのかな。妙なところでませているから。
川沿いの道を歩いていた僕は、渡し場の近くで足を止めた。
「あのさ……オフェリア」
僕が彼女を見ると、彼女も立ち止まって緊張しているような表情で僕を見る。
「小舟……乗ってみない?」
浮かんでいる小舟を指差して誘うと、オフェリアは「はい!」と頷いた。
僕は後ろの二人を振り返り、「二人も一緒に……」と声をかける。
「いえ、結構です。船酔いするので」
「私も遠慮しておきます。船酔いするので」
フェリックスとレーネにすかさず断れてしまった。レーネはともかく、フェリックスは絶対、船酔いなんてしないだろう。二人とも、僕らに気を遣ってる!?
「もしかして、オフェリアも船酔いしたりする?」
「どうでしょう……舟に乗ったことがないのです。でも、乗ってみたいです」
オフェリアが拳を小さく握って、パッと顔を上げる。その目が、キラキラ輝いていた。
「じゃあ、ちょっとだけ乗ってみよう。気分が悪くなれば、すぐに戻ればいいんだから」
僕は彼女に手を差し出す。躊躇っていたオフェリアは、僕の手に自分の手を重ねた。その手を引いて渡し場に行き、お金を払って小舟を借りる。
乗った途端に小さく揺れて、オフェリアがよろめいた。咄嗟に彼女の腰に手を回したけれど、僕までふらついてしまう。
尻餅をつくように座った僕の上に、オフェリアが寄りかかってくる。
頬と頬が触れそうなほど近くて、息を詰めた。小舟はゆっくりと水の流れに乗って移動し、フェリックスとレーネが見送る渡し場が遠ざかっていく。
「…………大丈夫?」
「…………はい、ごめんなさい…………」
オフェリアは下を向いたまま小さな声で言って、僕の肩につかまっていた手を離した。
川から眺める街の景色は美しいのに、それも目に入らなくて、僕は彼女だけを見つめていた。
彼女の細い手の指先をつかんだままだ。すぐに離せばいいものを――。
水の精霊の加護と祝福か。周りの小舟を見れば、こちらが赤面したくなるほど親密そうにくっついた男女の姿ばかりが目に入る。これは、あからさますぎたんじゃないだろうかと、急に焦りを覚えた。
僕らの仲はまだ、そこまで進呈しない。
いや、近々結婚する仲だけど、恋人同士というわけではない。
恋人――か。
政略結婚で、僕らの意思や望みとは関係ないところで決められた。
今の僕らは婚約者同士であっても、恋人ではない。
そう、恋人じゃないんだ。
彼女の事を愛おしいとも思う。
一緒にいる時間が楽しくて、離れがたいとも思う。
姿が見えなければ気にしなって、すぐに顔を見たくなる。
だが、果たして他者から強要された選べもしない関係において生じた感情を――恋と呼んでいいのだろうか。
もちろん、彼女との結婚に僕は不満などない。むしろ、彼女を見た時から、これは僕の望みにもなった。けれど、だからといって彼女も同じだとは限らない。僕以上に、彼女には選択肢などなかった。
僕は決して、彼女に選んでもらったわけではない。
他の男を選ぶ事が許されなかっただけ。
それなのに〝僕に恋してほしい〟なんて願うのは、一方的な気持ちの押しつけでしかないのではないか。僕がそれを望んだとして、彼女の状況や環境を思えば拒絶なんてできないんだから。それを承知で告白などできない。
できるわけがないんだ。
僕は手許に向けていた視線をゆっくり上げる。
オフェリアの不安げな瞳の中で黄昏色の淡い光が揺れていた。
「…………何を考えいるのか、聞いてもいいですか?」
オフェリアが遠慮がちに訊いてくる。僕が黙り込んでいたからだろう。
「大した事がじゃない。周りの恋人たちが、ちょっと羨ましいと思って」
「え? あ…………」
オフェリアはようやく小舟に乗っている人たちに目を向けて、若い男女ばかりだと気付いたようだ。頬を赤らめて目を逸らしている。
「そう……ですね……」
彼女は呟くと、意を決したように立ち上がる。
「あっ、危ないよ。オフェリア!」
僕が手を伸ばそうとすると、彼女はストンと僕の隣に腰を下ろした。狭いからピッタリくっつくような体勢だ。膝の上でギュッと手を握っている彼女を見れば、髪の隙間から覗く項までほんのり赤い。
羨ましいって言ったのは、別にくっついていたいという意味ではなかったのだけど。彼女はそう受け取ったのだろうか。いや、確かにそれも羨ましい事には違いないんだけど――。
「……無理しなくていいんだよ? 狭いだろうし」
「ごめんなさい……」
俯いたオフェリアが小さな声で謝る。
「えっ、どうして? 何を謝る事があるの?」
「…………私、すごくワガママになってしまって……一緒にいられないから、拗ねてしまってしまいました」
恥ずかしそうにオフェリアが言う。それで、拗ねてたの!?
避けられていたのもそれが理由だろうか。
「いや、全然、気にしていないよ。僕だって、オフェリアに会いたかったし……一緒にいたかったんだ」
僕は自分の両手を硬く握り締めて、少しもそこから動かないようにする。そうしていないと、この手は不埒にも彼女の肩を抱こうとするからだ。
我慢しろ、僕。耐えるんだ。今日は聖人のように清く汚れのない心で彼女に奉仕するとかたく決意したじゃないか!
顔を上げた彼女の瞳が、僕を見つめてくる。
ダメだ、顔を見れない。かたい決意が瞬く間に崩れそうだ。
僕は思わず自分の口元を押さえて、川面に視線を移した。
頼むから、誰か僕を川に深く沈めてくれ。もしくは、思いっきり頬をビンタして正気に戻してほしい。
「せっかく、イグナーツ様と一緒にいられるのに……私はうまく振るまえなくて……どうしていいのか、分からないんです。ごめんなさい……困らせてしまいたくないのに……嫌われ……たくないのに」
顔をそむけたオフェリアの瞳に涙が滲んでいた。それがこぼれそうになっているから、僕は思わず手を伸ばして指先で受け止める。
濡れた目尻をそっと拭うと、彼女がその手に自分の手を重ねてきた。
頬に押しつけた手のひらが熱くて、僕は思考が止まってしまったみたいにボーッとしてしまう。
「……むしろ、僕は君に嫌われることが怖くてたまらないよ……拒絶されたくないんだ……」
卑怯な僕は、君が僕以外の誰かを選べようがない義務で結ばれたこの歪な関係を、本当は――喜んでいるんだ。そんな僕の本心を知れば、君は僕を軽蔑するだろう。
だから、この感情を〝恋〟などという美しい言葉で飾ろうとは思わない。
これはもっと、身勝手で独りよがりな欲望から生じる感情だから。
それでも、君を大切にしたいという気持ちだけは偽りない。
とても、大切なんだ――。
僕の、僕だけのオフェリア。
安心しきったように目を伏せる彼女の瞼に、僕はそっと唇を落とした。
怖がらせないように、ほんの少し触れただけ。
胸の奥が焼けるようで、その熱を持て余したまま僕は手を離す。
目を開いたオフェリアは、戸惑うように僕を見る。
「戻ろうか……」
僕はぎこちなく微笑んだ。




